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迷仔  作者: 芳田文之介
7/12

隅田川の土手(一)のつづきのつづき




周との風景



「真美ちゃん、菜の花、見に行かない?」

周くんが、わたしに電話をかけてきたのは、まだ余寒の風が肌寒い三月の初旬のことだった。

周くんのわたしの呼称が、いつの間にか岡田さんから真美さんになって、そしてそれが今では真美ちゃんへと変わっている。

それに合わせるようにして、わたしも田村くんが周くんへと変わっていた。

それは、季節が冬から春へと巡る移ろいと重なるようだった。

外気が徐々に暖かさを増して、人がそれに順応して厚く身に纏った服を一枚また一枚と脱ぎ捨てるように、二人の関係もまた少しずつ少しずつその距離を縮めていくのだった。

わたしはそれが、嬉しくもあり、どこかこそばゆくもあった。

そんな季節の中での、周くんからの電話。

菜の花ーーわたしはその単語を耳にした時、どこか遠い町の牧歌的な風景を一瞬、頭の中に思い描いた。

たとえば、それは千葉県や静岡県の陽当たりのいい田園風景だったりする。

それが頭にあったわたしは、「菜の花って……どこに?」と素っ頓狂な声を上げる。

「あはは、そっか、そっか」

わたしのその声にどうやら周くんは、わたしの頭の中の短絡的な風景が想像できたみたい。

周くんは、「確かに都会で暮らす人が菜の花って聞くと、どこか遠い地方を想像するのは無理もないよね」と笑って、「ところがさ、これが意外と近所で見られるんだ」と浜離宮恩賜公園の話を聞かせてくれた。

「都会には自然が少ない」

地方から上京して来たわたしの頭には、その言葉がくっきりと刷り込まれている。

だから、わたしはその意外性に驚いて、「へえー、結構わたしたちの身近にも、そんな自然があるんだね」と感心しながらも、「ところで」と口調を変えて、それは何時のことで、そのことを公恵たちは知っているの?そう尋ねていた。

一瞬、間があった。

わたしはそこで、その「間」に少なからずとも違和感を覚えて、何かを察するべきだった。

「それでね……」

なぜか周くんの声が、少し震えているように聞こえていた。

「今週の週末辺りが、どうも見頃みたいなんだ。天気予報によるとこの週末はいい天気みたいだし……だから、土曜日なんかどうかなって思ってる。それからね……」

それからね……の先が途切れた。

そしてまた、一瞬の奇妙な間があった。

わたしはそこで、やっとその「間」に違和感を覚える。

それなのに……。

「それから、なーに?」と、あまりにも無邪気に訊いていた。



それが月曜日のこと。

今日は、菜の花を見にいく前日。

思えばわたしはあの日、あまりにも鈍感だった。

わたしは、男と女の機微にとても疎い。

いや、わたしのそれは男と女の機微だけに留まらない。

わたしは、人生そのものの機微に疎いといってもいい。

自分は、どうしてこうもそれに疎いのか、そう考えてみる。

ふと、公恵の顔が浮かぶ。

わたしは公恵の話を聞いて、それが遠い記憶と交差して、それで気づかされることがあった。

彼女は、お姉さんの和美さんとの二人姉妹。

お互いの性格は全く正反対で、そのせいもあってか、二人は幼い頃から何かと言い争っていたのだという。

「喧嘩してるところをお父さんに見つかると、酷く叱られてね。その罰として、よくお店の厨房の洗い場の手伝いをさせられていたものよ……」

公恵は苦笑いを浮かべて言う。

「忙しい時は、それはもう大変でね。それが嫌で嫌でたまらない。それで、二人とも要領を覚えちゃってね。お父さんの目の届かないところでやりあって、目の届くところでは仲良くしてた。幼いながらに、大人のように上手く折り合いをつけていたんだよね」

上手く折り合いをつけるーーその言葉が、祖母と母さんの顔を蘇らせて、わたしはわたしの疎さに思いを馳せる。

わたしはひとりっ子だ。

それも幼い頃から、祖母の膝の上に座らされて、「真美は、今日のように冷たい雨が降る日には、こうして温もりのある部屋にいて、窓の向こう側の風景を眺めてるーーそんな人生を送ればいいんだからね」と子守唄のように聞かされてきた。

わたしはそのように、祖母の暖かい手のひらの上で、それこそ大事に大事に育て上げられてきたのだ。

その環境が、わたしをこんな未熟な大人にさせていた……わたしはこの街に来て公恵と知り合い、そんな自分を思い知らされている。

あの日、わたしの問いかけに、しばらく逡巡している周くんだった。

電話の向こう側から、ふうーと息を大きく吐き出すのが聞こえていた。

それでも、鈍感なわたしの胸の鼓動は、普段通りの動きをしていた。

今のわたしと周くんには、どこへいくにも公恵たちと行動を共にする、という不文律のようなものがあった。

公恵は、寂しさを紛らすためという刹那的な動機で、わたしが周くんに身を任せることを嫌って、しばらくはそうしておこうと心に決めてるみたい。

公恵に心底依存していたわたしは、素直にそれに従っている。

それも手伝って、わたしは恋愛という感情により鈍感でいた。

なんと言っても、恋愛経験には非常に乏しいわたしでもある。

それでも、近頃では、「もうそろそろ、乳離れしてもいい頃かもね」と公恵にからかわれることがあった。

そんな時のわたしは、「そんなあー」と大袈裟に照れて見せるけど、心の底はどきんと痛んでいる。

けれど、その心のどこかに不安もあった。

それは、ところで周くんの瞳に、わたしはどんなふうに映っているのだろう、というそんな不安。

それで、わたしはそのことを、公恵に何気なく尋ねてみる。

「もし周くんが、真美のことが嫌いだったら、一緒に遊びに行ったりしないんじゃない」

そう言って、公恵はわたしを諌めてくれる。

「たまに、電話だってかかってくるようになったんでしょう?」

「うん……それは、そうなんだけどね」

「だったら、周くんは真美に気があるのよ。浩介も二人はお似合いだと思うよって言ってたしね」

そんな事情も絡まっての、周くんからのあの電話だったのだ。

あの日の周くんは、「それからね」と言った後でしばらく躊躇って、「浩介たちには言ってあるんだ」とぎこちない言葉を継いだ。

「真美ちゃんとね、そのう……ふ、二人きりで、菜の花を見に行きたいんだ……ってね」ーーと。

東京に来てすぐに、修一くんに別れを告げられて、しばらくして公恵と知り合い、その縁で周くんと出逢い、そして、明日はついにその周くんと二人きりのデート……。

わたしは、あの「間」は躊躇いだったのだと気づけなかった自分がとても寂しくもあり、とても悔しくもあった。

そして、そんな自分を恥じて、周くんは、こんなわたしのどこが好きなの?と自問もしていた。

けれど、二人切りのデートという甘い誘惑は、そんな想いを凌駕して、わたしは頬を緩めて、「土曜日に二人で、菜の花……行きます」と答えていた。

あの日の鈍感さと嬉しさとを思い出して、わたしは今、頬を赤く染めている。

ベランダに出る。

火照った頬に、早春の夜風が気持ちいい。

わたしは久しぶりにてるてる坊主を見上げる。

その先の薄紫色の空には雲一つなく、予報通りの明日を予感させていた。

それでもわたしは、念には念を入れて、てるてる坊主に手を合わせて、「明日は、絶対に晴れますように」そう願って、しばらくこうべを垂れていた。

彼を『好き』だという感情が、身体中に染み渡っていくのを自覚して、それがとても心地よかった。

わたしはこの数日間ベッドの中で、その想いにいだかれながら、寝返りを何度も打って、眠れない夜を過ごしていた。



この都会には、わたしの故郷とは違って、山の風景がない。

その分だけ、高層ビルのない空間から頭上を仰ぐと、随分と空が広い。

そして、高い。

初めてこの街を訪れた時、わたしは先ずそれを思った。

わたしの故郷では、海に山が迫っていて、その隙間を縫うようにして走る電車の、のんびりとした風景がある。

そこには、山の稜線にそうようにして垂れ込める雲があり、その地平から眺める空は、今思えば狭くて、低くかったのだと気づく。

今日の都会の頭上にも、広くて高い空があって、その青さの中には雲一つない。

春浅い風は、まだ冷たくもあるが、隣を歩く人の温もりが伝わってきて、それさえも心地いい。

肩を並べて石造りの橋を渡り、『浜離宮恩賜庭園』と書かれた時代を思わせる門をくぐって、わたしは思わず歓声を上げた。

そこには思いがけず非日常の風景が広がっていた。

庭園は奥行きがあり、視線の先には水平を思わす黄色の波が、その一面を覆っている。

わたしは、ここは本当に都会の真ん中なの? そう感激して、「わあー」と声を上げていた。

「綺麗な風景でしょ」

ニコッと笑って周くんが言う。

「うん」

わたしは満面の笑みを浮かべて大きく頷く。

庭園の周りには高層ビルが立ち並び、彼らに見守られるようにして、黄色い菜の花が咲き乱れている。

菜の花が手に触れるところまで近づいていく。

一瞬、爽やかな風が吹き渡って花びらを揺らし、その花の濃密な匂いが鼻腔を擽る。

風は、周くんも撫でた。

花の匂いと周くんの匂いとを、胸いっぱいに吸い込む。

青い空、高層ビルの窓を照らす早春の柔らかい陽射し、辺り一面を覆う黄色い菜の花。

その花と花の間を楽しそうに飛びまわる蜜蜂たち。

そして、なによりもそれぞれを一緒に眺めてくれる、想いを寄せるひとの存在。

わたしは、幸せを思った。

これが、この街でやっと巡り逢えた、幸せの始まりだと自分に言い聞かせた。

瞳を閉じる。

一瞬、瞼の裏に修一くんの顔が浮かぶ。

切なさが胸に込み上げる。

それは、わたしはまだ修一くんのことを引きずっているのか……そんな負の感情だった。

小さく左右に首を振って、目を開く。

周くんの横顔をそっと覗く。

今のわたしの隣には、周くんがいてくれる……それだけで充分じゃないの。

この幸せが永遠であってほしいーーわたしはそう願い、また瞳を閉じる。

菜の花畑の小道を肩を寄り沿うようにして歩く。

時々、無意識のうちに触れ合う、肩と肘、そして手の甲。

しばらく無言で歩いた。

チラリと隣を覗く。

それに呼吸を合わせてくれたみたいに、周くんもわたしを覗く。

重なり合う二人のまなざし。

けれど、それは一瞬のことで、二人のまなざしは再び前を向く。

繰り返される、その状況。

わたしには、その一瞬が、とてもいとおしかった。

小道を抜けると、陽だまりを集める芝生が見えた。

どちらともなく目が合って、そこに腰を下ろす。

初めて意識して、周くんの肩に頬を寄せようとして、思わず恥ずかしくなり、ただわたしの頬は赤く染まるだけでいた。

しばらく庭園を廻って、それから銀座の洋食屋さんで食事をした。

その帰り道ーー路地裏。

初めて男の人の唇が、わたしの唇に重なり、わたしの身体は小さく震えていた。

「ねえ……」

周くんが、わたしをジッと見つめて口を開く。

鈍感なわたしでも、なんとなく次の言葉は予想できた。

「今夜、俺んに泊まっていってくれない」

予想通りの言葉に、心臓が激しく打ち震えた。

一瞬の沈黙。

なぜかわたしは、うん、と頷くのを躊躇っていた。

ふと、何かが頭をかすめて、そうさせるのだ。

それは決して、高い貞操観念に囚われたわけではない。

それよりも今夜のわたしは、むしろ周くんと結ばれたいとさえ願っていた。

わたしを逡巡させていたのは、それは成田空港で修一くんに、「婚約者なんだ」と言って紹介されたーーあの彼女の存在だった。

あの日、わたしが目にしたあのひとは、わたしとは真逆の容姿をしていた。

あのひとの容姿が、わたしの脳裏から消えることはなかった。

わたしは周くんと出逢って、このひとと結ばれたいという想いが芽生えて以来、頭のどこかに修一くん似の彼に、彼女の影がちらついて見えていた。

男性に対して免疫力のないわたしは、男性が女性を好む、その基準が理解できないでいた。

だから……。



だからと言ってね……。

わたしの中のもう一人の声がした。

今さら何を躊躇うことがあるの。

公恵も言ってたじゃない。

「気のない人とは一緒に遊びに行ったりしないでしょ」ってね。

それによ。

今日は、二人切りのデートに誘ってくれて、おまけにキスまでしちゃってね。

これ以上、何があるっていうの?

素直に、うん、って頷けばいいでしょ……。

わたしは、頭の中で左右に首を振って、その声に抗う。

さっきね、菜の花を見ながら瞳を閉じたらね……瞼の裏に修一くんの面影が浮かんだの。

意識では修一くんと周くんは全く別の男性だと理解しようとしても、無意識のうちにあの女の笑顔がちらついて、どうしても二人を重ねてしまうの。

それが切なくて……。

だから何? イラつくわね。

再び、もう一人のわたしが呟く。

だから……。

いや、だけどね、せんなきこととは分かっていても、どうして修一くんは、わたしではなくてあの女を選んだの?

そして、なぜ周くんは、わたしなの?

そう思ってしまうの……。

あんた、馬鹿じゃないの。

もう一人のわたしは怒る。

人の好みって、それこそ人の顔の数ほどあるんじゃないの。

たまたま、周くんの好みが、あんただっていうこと。

それでいいじゃない。

だいたい、そんなに悩むんだったら、自分の口で聞いてみればいいでしょ……。

わたしは、一瞬の沈黙の中で、そんな長い葛藤を繰り返していた。

「……あ、あのね」

わたしは、ようやく口を開く。

「ひとつだけ訊いていい?」

「もちろん」

周くんは、わたしの長い沈黙にも、外連味のない笑顔を見せて、頷いてくれる。

素敵な笑顔だった。

わたしはそれを見て、なんだかくよくよしている自分が情けなくなってきて、それが自己嫌悪を覚えさせていた。

だから、心の中にはたくさん訊きたいことがあったのに、「こんなわたしでいいの?」と、ただそれだけを口にしていた。

「いやいや」

と苦笑して、周くんは首を振る。

「それを言うなら、こんな俺でもいい?って感じ。俺はね、この半年近くの付き合いの中で、真美ちゃんって、いい女性だなって、ずっと想っていたよ。できたら、付き合いたいなって。それで、浩介に真美ちゃんの気持ちはどうなんだろう、って訊いたりもしてた」

へえー。

それは、ちょっぴり意外だった。

わたしが公恵に相談していたみたいに、周くんも浩介くんに相談していたなんて……。

きっと浩介くんは、公恵からわたしの気持ちを聞いている。

それを確かめた上で、周くんは今日、わたしを誘ってくれた。

それだけで充分じゃない。

再び、わたしの中のもう一人が顔を覗かせる。

これできっぱり、あんたの中にいる、修一くんとその彼女の亡霊を葬り去りなさい!

心の底に淀んでいた何かが、スッと消え去った。

うん、分かった!

わたしは心の中で大きく頷く。

そして、今度は顔を上げて周くんに、「うん」と頷き頬を赤く染めて、「今夜、泊めて下さい」と思わず大胆な言葉を口にしていた。

周くんも、「うん」と頷いて、「ありがとう」とはにかんで、わたしの手を取って、強く握ってくれる。

そして、わたしは今、周くんの部屋のベッドの上で、周くんの胸に頬を寄せて、心地よい気だるさの中に沈んでいる。

そのベッドの上で、周くんがわたしに惹かれた理由を、優しく語ってくれる。

「俺さあ、真美ちゃんと初めて出逢った日にね、真美ちゃんが、ゴッホの『ひまわり』を見つめてる姿を見て思ったんだ。こんな慈しみのある目をして、絵を眺めることの出来るひとって、きっと心が豊かで優しい人なんだろうなってね」


わたしと周の未来が始まった。




つづく

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