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迷仔  作者: 芳田文之介
6/12

隅田川の土手(一)のつづき

周との風景



大学一年の時。

「ねえ、真美。ひまわり見に行こうよ」

そう公恵に声をかけられ、わたしが首を傾げていたのは、すでに夏の盛りのひまわりの咲く季節も過ぎた、ある日の午後のこと。

その日、大学のキャンパスに吹き渡る風には、優しい秋の匂いが溶けていた。

わたしが初めて過ごした都会の夏は、想像していたよりは過ごしやすく、わたしを幸福な気分にさせていた。

思えばわたしは、故郷の古めかしい大きな屋敷で過ごした夏に、あまりいい印象を持ってはいなかった。

その理由わけは、もちろん屋敷自体の構造的なものにもあったはずだ。

建て付けの悪くなった木造の屋敷は、数台しかないエアコンの冷気を巧くそこに閉じ込めておく機能をすでに失っていて、あまり居心地の良い空間とは言えなかった。

ただ、その理由は、そこにもあるにはあったけれど、でも、わたしの中では、むしろ祖母の頑なさに辟易させられていたということが、最大の要因でもあった。

彼女は、エアコンの冷たい風を非常に嫌う人だった。

「悪くなった足腰に、この風は良くないのよ」

そう言って、頑なに自分の部屋のエアコンの利用を拒むのだ。

そんな彼女は、寝苦しい熱帯夜だというのに、窓を大きく開け放ち、扇風機の風を頼りにその暑さを凌ぐことに意地を張る。

編み戸越しの窓から侵入してくる濃厚な熱気は、屋敷全体の冷気を脅かして、残りの家族に不快感を連れてくる。

それでも、部屋にエアコンのあったわたしは、そこで時間を過ごす分には、その不快感からはのがれることができていた。

だから、不快な真夏の夜は、貝が殻を閉じてジッとしているように、わたしも部屋の引き戸をしっかり閉めて、そこでただひたすらジッとしている。

けれど、たまにどうしても何かの用事で階下に降りなくてはならないことがあると、鬱陶しい熱気が肌にベッタリとまとわりつき、わたしをうんざりさせるのだった。

それを思うと、今はとても幸せな気分。

今のわたしの安普請ではないアパートの部屋は、その隅々にまで冷気が行き届き、快適な日々を過ごすことができている。

祖母にしてみれば、そんな些細な理由でと訝るところにも、わたしが故郷を離れてしまった理由のひとつが、隠されていたのだった。

ただ、都会の夏は、室内が非常に快適な分だけ、猛烈な酷暑の中に身を晒すと、覆われたアスファルトの舗道に照りつける強烈な陽射しの、その照り返しの激しさに、思わず立ちくらみを覚えさせられる。

それには、わたしもさすがに悲鳴を上げた。

だから、それを嫌ったわたしは、外出を極力控えて、そして長い夏休みの過ごし方を思案する。

そこで思いついたのが、近所の図書館でたくさんの本を借りて、読書三昧に耽るということだった。

その名案のお陰で、わたしはエアコンの充分に効いた部屋で、快適なわたしの夏を幸せいっぱいに過ごしていたのだ。

そんなわたしたったから、去年の夏までは、近所の牧歌的な風景に咲くひまわりを意識することなく眺めることができていたというのに、それがこの夏は、ついにその姿を眺める機会に恵まれずにいた。

そのわたしに、それもこんな時期に、公恵から声をかけられた。

「ねえ、真美。ひまわり見にいこうよ」

当然わたしは、呆気にとられる。

そして、しばらく惚けた顔で、彼女の顔をぼんやり眺めるのだった。

公恵は、きっとそんなわたしが、とても間抜けに見えてたはず。

彼女は、ぷっと吹き出すと、「何よ、そんな寝ぼけた顔をして……ゴッホよお、ゴッホの『ひまわり』だよう」と言って、「もう」とわたしのおでこをゲンコを作ってコツンと叩く。

一瞬、わたしは目を見張る。

そして、思わず、「ヤダー」と声を上げて、はあーと大きくため息をついていた。

わたしは、自分のその鈍さがとても恥ずかしくて、顔がみるみるうちに赤く染まっていくのが自分でも分かるようだった。

「真美が、迷子になったら大変だからね。だから、明日の待ち合わせ場所は、雷門の前ということで。そこに二時ね。遅れないでよね。真美はいつも約束の時間に遅れるんだから」

前日、公恵にそんなふうに皮肉を言われて、ちょっぴり拗ねていたわたしでいた。

けれど、朝、目が覚めると『ひまわり』に出逢える嬉しさがその感情を蹴飛ばして、わたしは幸せな気分に包まれていた。

部屋の窓を大きく開け放つ。

秋の匂いが溶けた爽やかな風が、わたしの頬を優しく撫でていく。

秋晴れのとても気持ちのいい日だった。

わたしにしては珍しく、雨に祟られることもなく、空には雲ひとつない抜けるような青さが広がっている。

公恵と出逢えたことで、わたしの中にこの穏やかな風が吹いていた。

そんなわたしは、近頃ではベランダに吊るしておいたてるてる坊主に、あまり願い事をすることはなかった。

それでも、空は晴れている。

そして、心も晴れている。

それで、ちょっぴり人生の皮肉も思わされている……。

わたしは、別にデートに出掛けるわけでもないのに、着てゆく服に悩んでいた。

多分、それは公恵の彼氏の浩介くんの目を気にしたからだろう。

友達の彼氏とはいえ、やっぱり男の人とどこかに出かける時はオシャレでいたい。

愚図なわたしは、そのせいで洋服選びに時間を要して、待ち合わせの時刻が迫っていることに気づかされて、焦ってアパートを飛び出していた。

ふと、嫌な予感が頭をかすめる。

わたしには、急いでいる時に限って、まるではかったように行く手を阻む『何か』が働く。

それが頭を過ぎり、それに怯えて、胸がざわついた。

「真美は、約束の時間にいつも遅れるんだから」

公恵の言葉が、チクリと身体のどこかを小さく刺す。

けれど、今日はそれは杞憂に終わり、わたしは無事に目的地へとたどり着くことができていた。

雨のない、素敵な天気というのは、どうしてこうも人を幸福にさせるのだろう。

もう一度空を見上げた。

わたしの中で、今日という一日が、何か特別な日になりそうなーー不確かではあったけど、そんな予感が微かにしていた。



雷門の前には、すでに公恵と浩介くんが待っていた。

わたしは、その姿を見つけて、腕時計に目をやって、ホッと息をつく。

胸の前で小さく手を振って、二人に駆け寄ろうとして、けれど、そこでハッと何かに気づいて、わたしはその場に足を留めていた。

わたしの目が、浩介くんの隣に立っているひとを捉えて、それがわたしの足をそこに貼りつかせていた。

その男は、秋の穏やかな陽射しをキラキラと浴びて、なぜかそこだけが風景から切り取られて浮かび上がっているような、そんな錯覚を思わせている。

それが、舞台の上で役者さんがスポットライトを浴びている立ち姿に、わたしには見えていた。

その景色が、わたしの中に懐かしい風を吹き込む。

遠い日、わたしの隣で、今日と同じ雷門を見つめていた男。

ひょろ長い体躯の上にある細面の顔に、人好きのする切れ長の笑うような目ーー。

まるで、それは既視感のようだった。

胸の鼓動が、高鳴る。

刹那、修一くん……唇から、その名前がポツリと零れ落ちていた。

そう、あの修一くんに似た男が、そこに立っていたのだ。

一瞬、浮かべた笑顔は強張り、奇妙な感覚を引きづったままで、公恵たちが待つその場所へと歩み寄る。

「真美、ギリギリセーフ」

公恵が、悪戯な目を作って、大袈裟に両手を広げる。

その仕草が可笑しかった。

それが、緊張した頬を少しだけ緩ませた。

それで、ようやくぎこちなくではあったけれど微笑が作れて、「お待たせしました」と、ちょこんと頭を下げていた。

「真美ちゃん、久しぶりだね」

公恵の隣に立つ浩介くんが優しく声をかけてくる。

わたしは目の端で、浩介くんの隣の男をちらっと覗きながら、「浩介さん、ご無沙汰してます」と再びお辞儀する。

そしてーー。

少し間をおいて、「こんにちは」と浩介くんの隣に立つ修一くん似が、頭を下げた。

ドクンと胸が跳ねた。

すると、すかさず浩介くんが、「ああ、こいつ俺のダチで、田村って云うんだ。ゴッホ観に行くんだけど、来る?って誘ったら、行こうかなって云うんで、連れてきたんだ」と言って、その男を紹介する。

田村と紹介された人が、「田村っていいます。はじめまして、よろしく」と照れたように笑う。

そのはにかんだ笑顔が、とてもいじらしく見えて、再び胸が大きく揺さぶられる。

彼の押さえ気味に口をついたその声も、修一くんのそれとどこか似ていて、わたしの頭の中はさらに混乱する。

「は、はじめまして、岡田といいます」

そう言って頭を下げたわたしの顔は、きっと真っ赤に染まっているはず。

そして、そんなわたしを公恵と浩介くんは、ニヤけた顔をして眺めているんだろう。

わたしは、ふと、思い出していた。

あれは、二ヶ月くらい前のこと。

公恵のお店で、初めて彼氏の浩介くんを紹介された日のことだった。

会話も弾んだ頃に、「ところで、真美ちゃんって、彼氏いるの?」そう浩介くんに訊かれていた。

わたしは苦笑いを浮かべて、「いいえ」と首を振る。

すると、浩介くんの隣に座った公恵が、「浩介、あんた真美に誰かいい人紹介してあげなよ」と言って彼の肩に彼女の肩をぶつけた。

その光景が、なんだかとても羨ましかった。

二人は幼馴染で、その付き合いはもう随分と長くなるらしい。

目の前にある光景が、二人の歳月の濃密さをうかがわせて、それが羨ましくて、それに嫉妬を覚えて、そして、なぜかわたしの中に切なさが込み上げていたのを思い出す。

「真美ちゃんは、どんなタイプのひとが好き?」

そう浩介くんに優しい笑顔で訊かれて、わたしはその切なさの正体に気づいていた。

わたしは、ふと、修一くんの顔を頭に思い浮かべていた。

それが、こんな感じの男かなあ、とつい修一くんのイメージを語らせていた。

そんなことがあって、それで浩介くんは友人の中からわたしのイメージに合う男を探し出し、そして今日、この田村さんって男をここに連れて来た……?

わたしは、そんなことを考えながら、真っ赤に染まっているだろう顔を、なかなか上げられずにいた。



「そういえば、浩介に、真美ちゃんのイメージにぴったりの奴がいるんだけど、どうする?って訊かれた時、あたし、眉を顰めたんだよね……あいつ、いい奴なんだけど、男と女の機微には疎いひとだからね」

わたしは、苦笑いを浮かべながら、公恵の話を聞いていた。

その機微に疎いのは、わたしも同じだけどね……と。

土手には、相変わらず穏やかな風が吹いている。

でも、その風には、どこか切なさの匂いがしていた。

わたしも遠い記憶を探りながら、口を開く。

「ゴッホを観に行った次の日だったね。大学の近くのカフェテラスで、確か公恵は、こんなふうに言ったんだよね。あたしは、真美が語っていたあの男性のタイプって、あれは多分、真美を置き去りにして旅立った、そのひとのイメージじゃないかっていう気がしていてね。だから、本当は昨日、田村くんをあの場に連れて行くのに躊躇していたんだよね、ってね」

「そう。真美は、彼への想いを引きずったままで、ついそのイメージを口にしたんじゃないかって思ったの。だから、浩介に、そんな男を真美に紹介するのってどうなんだろう……と言って、躊躇ったんだわ」

わたしは、あの時、このひと本当に勘の鋭い人で、おまけに思いやりのある人だなーーそんなふうに感心しながら、公恵のことを眺めていたのを思い出す。

「思えば、わたしは修一くん一筋で、他の男の人に興味を持つことがなかったからね。だから、つい彼のイメージを口にしてたんだよね。それに、公恵たちも悪いんだよ……」

「何がよ」

「だって、公恵と浩介くんの仲のいい姿を目の前で見せつけれて、羨ましいなあって思ってさ。それで、修一くんのことが頭に浮かんで……それで、ついね」

わたしは、二人の仲の良さに嫉妬していた、遠い自分を思い出して、苦笑いを浮かべて頭を掻いた。

今日、何回目かの、カチッという音がした。

公恵が、タバコに火を点ける。

それにしても、今日の公恵はよくタバコを吸う。

そんなことを思っていたらつい、「今日の公恵は、ちょっと吸いすぎじゃないの」と言葉が漏れていた。

「しょうがないよ……イライラするんだもん」

公恵はぶっきらぼうに言うと、ふうーと煙を空に向けて大きく吐き出した。

わたしは、「それはそうだけどさ、身体に悪いよ」と眉を顰める。

公恵は、わたしの心配事など何処吹く風で、なにかを思い出したか、ふふっと笑って、「それにしてもさ」と、ふっと小さく煙を吐く。

「さっきはゴッホを観に行った日、真美は周くんの存在に目を輝かしてたんじゃないの、ってちょっとからかっちゃったけど、実はあの日、今、真美があたしの身体を心配してくれたように、あたしも真美のことを随分と心配して見てたんだよね……」

わたしは、公恵の横顔をジッと見つめる。

そっか、公恵はすでにあの頃からわたしの事を心配して見守ってくれていたんだと改めて気づかされて、思わず胸が鈍く締め付けられる。

だってさ、と公恵が言葉を継ぐ。

「真美が周くんを見てさ、想い出にすがろうとか、寂しさを埋めようとか、そんな刹那的な動機で付き合いを始めてね。それでしばらくしてお互いが、この付き合いは恋心からではなかったと気づいて別れちゃってね。それで二人が深く傷つかれた日にはね……あたしは当事者として申し訳ないなってね。それをずっと心配していた」

「わたしも、それを公恵に何となく聞かされていたからね……」

わたしはそう言うと、流れる雲を目で追った。

「だから、しばらくは四人で遊ぶことにしようって公恵が気を使ってくれてね。それで、ドキドキしながらも、なんとか冷静な目を保って、周を眺めることができていた。あの時の公恵の思いやりがなかったら、きっとわたしは盲目の恋に堕ちて、立ち上がれないくらい傷ついていたんだろうね……」

わたしは、自分の口から思わず零れ落ちた「盲目の恋」という言葉が妙に悦に入り、両腕を組んで、うんうんと頷く。

「あはは、真美なら間違いなく、そうなってたろうね」

また公恵に、そんなふうにしてからかわれてしまう、わたし。

でも、そんなふうにからかわれても、やっぱりどこか憎めない。

いや、むしろそうされることが癖になって、逆にそれがないと寂しくなってしまうーーそんなわたし。

「でも、二人は無事に結ばれた」

公恵が、ボソッと呟く。

「うん……」

わたしは頷いて、消し忘れた青春の落書きに思いを馳せる。

ゴッホの『ひまわり』を観に行った、あの秋の日の周との出逢い。

わたしと周、公恵と浩介くん、その四人で楽しんだ、クリスマスにお正月に、そして節分の豆まきーー。

公恵と二人で銀座のデパートにチョコレートを買いに行き、それを頬を染めなが周に手渡した、2月14日の夜。

移ろいゆく季節の中でわたしは、このひとはものの感じ方の温度や視点の高さが同じだ、と知らされた。

やがて、わたしは修一くんを見るまなざしとは違うまなざしで、周を見つめることができるようになっていく。

そして、訪れたあの日ーー。


わたしと周は、結ばれた。



つづく




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