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迷仔  作者: 芳田文之介
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公恵の実家(二)

公恵の実家


(二)



「……そりゃあ、簡単には納得しないわよね。あんなことがあって、もう頼るのは、あんたしかいないんだもんね……それでも、あんたがどうしても自分の人生を歩んでゆきたいって言うのなら、逃げていないで、ここでしっかりとケジメをつけなくちゃね。だって、血の繋がった親子なんだもんね……まあ、それは、あの娘にも言えることなんだけどね……」

ーーおばさんの声。

「真美は、どうして今夜、わたしがここに?って思ってるかもしれないけどさ、あたしは親友のあんたに、どうしてもうちの店の現状を知っておいてほしいと思ったの」

ーー公恵の言葉。

そして、違和感のあったホールの風景……。

そんな状況を総じて判断していくと、この家族が抱えている闇の正体が、ぼんやりと透けてくる。

けれど、それをわたしの口から言葉にするのは、なぜか憚られた。

わたしは、宙の一点を見つめて公恵の言葉を待った。

カチッと音がした。

ハッと我に返って、目の端で隣を覗く。

ライターでタバコに火を点けた公恵が、無表情でその煙をふうーと吐き出している。

どうやら公恵は、自分の中に沈んでるみたいで、片ひじで頬杖を付いて、その紫煙をぼんやりと眺めている。

わたしは、違う何かを口にしようとして言葉を探してみる。

けれど、なかなか気の利いた言葉は見つからない。

こんな時に不謹慎だとは思うのだけれど、昨夜からの情景がとても奇妙に思えてきて、なんだか可笑しかった。

二人の立場が普段とは真逆のようだった。

いつもなら、煮え切らないでいるわたしの方が沈黙をしていて、それを辛抱強く公恵が見守ってくれている。

他人の立場になって初めて気づかされることがある。

そう、芸能人が口にする離婚話のように、「時間のすれ違い」という陳腐な言葉で括られる、その状況に自分が立たされた今のように。

今までのわたしは、公恵の優しさをただ無邪気に受け入れて、そして、それに無意識に甘えていた。

わたしは、いつもの公恵の役柄になることで、改めて彼女の優しさを自覚させられるのだった。

そして今、それを意識して思うのは、人の話に真摯に向き合い、静かに耳を傾けることの難しさだった。

普段の公恵は、わたしの話に静かに耳を傾けてくれ、話を聞き終わった後で、なにか的確なアドバイスをしてくれた。

わたしはそれを思って、珍しく今夜は沈黙に耐えている。

ゆらゆらと立ち昇る一条の紫煙が、この部屋に流れる時の速さを象徴している。

そして、それが、嵐の前の静けさを告げてるみたいで、どこかお尻の座りが悪くなる。

不意に、公恵が手にしたタバコをガラスの灰皿で押しつぶして、その手で長い髪をかきあげた。

それが公恵が口を開く時の儀式のように思われて、わたしは身構える。

「あいつ、逃げちゃったんだよね……」

「あいつ」に感情を滲ませて、公恵が口を開く。

あいつ……それが公恵の姉の和美さんであることは、鈍感なわたしにも想像はついていた。

そして、「あいつ」という尖った言葉が、この家族に非日常を連れたきた闇の正体だった。

「あいつって……和美さんのこと?」

わたしは、視線を宙に留めたままで、言わずもがなの彼女の名前を改めて口にして、足元に冷たい波が押し寄せてくるような心地でいた。

再び、カチッとライターの音。

背もたれに身体を預けて、煙に乗せて、ふう一と大きくため息を吐き出す公恵の姿が、目の端に覗く。

「去年の今頃のことだったんだよね……」

公恵は、タバコの灰を灰皿に落として、わたしにチラッと視線を送って言葉を続けた。

「真美は、顔馴染みじゃなかったと思うんだけど、たまにふらりと一人で店に寄って、カウンターに座って食事をしていく、田所さんってひとがいたの。三十をちょっと過ぎたくらいの男だったかなあ……」

田所さん……記憶を探るけど、確かに思い当たる顔は浮かばなかった。

「無口な男でね……いつもカウンターの端っこの方に座って、難しそうな本に目を向けていたの。どこか学者然って雰囲気漂わせていてね。ほら、うちって無農薬で野菜を栽培している農家さんと契約してるじゃない」

「うん、あの野菜を使った料理も、この店の売りの一つだもんね」

わたしは、視線を公恵の横顔に移して頷いた。

「どうもね、あの男それがお気に入りだったみたいで、黒霧島のお湯割で、それをつまみにして淡々と飲んでいたの」

その男と和美さんができてしまって、そして、この店を飛び出した……?

公恵は、わたしの勘ぐりを見透かしたように苦笑いを浮かべて、フっと小さく煙を吐き出した。

「そうなんだよね……家族の誰もきづかなかったの。二人ができちゃってるってこと。あの勘のいい母さんさえ気づかなかったって、言うんだもん。お父さんなんて、尚更だよね……」

そう言って、皮肉を浮かべて笑った表情が、いつもの公恵らしくもあった。

「その田所さんが、京都に行くことになったっていうのは、母さんも知ってたのね。それが、去年の今頃。田所さんが京都に行った三日後くらいに、あいつ、家を飛び出しちゃったんだってさ。最初は、誰も状況が掴めないでいたらしくてね……お父さんなんか、捜索願を警察に出せって、母さんに怒鳴ってたらしいのね」

「そこで、勘のいいおばさんが、気づいたってわけ?」

「そういうこと。母さんが、『田所さんと一緒?』ってメールしたら、『ごめんなさい』って一言だけ、あいつから返信があったんだってさ……」



その後の、おじさんが大変だったという。

お店をしばらく休んで、京都に行って和美さんを探し出す。見つけたら、縄に縛ってでも家に連れ戻すんだ、そう言ってきかなかったらしい。

おばさんは、京都の何処にいるのかわからないのに無駄足になるからやめておきなさい、そう言ってなだめるのに一苦労したという。

だからと言って、おじさんの怒りが収まるわけでもない。

納得のいかないおじさんは、浅草中の飲み屋を歩き廻り、そこで誰彼かまわずに愚痴を漏らして、その挙句に、具合いを悪くしてしまって、しばらく寝込んでしまったというのだった。

それで思った。

どうやら、こんな時は、出て行く方も、出て行かれた方も、女の方が度胸が座ってるらしいーーそんなふうに。

和美さんが、ホールを元気に駆け回っていたころの姿が思い出される。

何年前だったかおじさんが、「和美が、婿養子を向かい入れて、この店を継いでくれるって言いやがってよお」そう言って、満面の笑みを浮かべていた、あの顔が忘れられない。

そんな和美さんに、どんな心境の変化があったというのだろうか?

「真美は、出された料理の中で一番好きな食べ物は、最後に残しておくタイプだったよね」

突然、話題が変わった。

一瞬、それに戸惑い、怪訝な表情を作って公恵の横顔をうかがう。

それでもその問いに、ふと、遠い記憶の一場面が頭をかすめて、「うん、幼い頃はよく祖母に、みっともないからやめなさいって、渋い顔されていたけどね」と思わず答えていた。

公恵はなぜか不敵な笑みを浮かべて、「あたしは、その逆ね。なにせ、せっかちな性分だからね」と言って、胸を張って見せる。

その仕草が、とても可笑しかった。

なぜそれを自慢する?ーー思わず、「ぷっ」と吹き出してしまっていた。

確かに公恵は、せっかちな性格をしていた。

公恵の中では、わたしよりも時間が十分ぐらい進んでいるように思えていた。

何事も冷静にテキパキ処理して、いつまでもわたしがもたもたしている、その頼りない姿を涼しい顔で眺めていた。

良くいえば、信念が有って行動力のある女といえるし、悪くいえば、頑なで融通の効かない女ーーそんなふうにいえるのかもしれない。

けれど、今のこの状況で、それとこれとに何の繋がりがあるというのだろうか……?

公恵は横目で、そう思って首を傾げるわたしを不機嫌そうに眺めて、「お姉ちゃんは、あたしとは全く逆の性格してたからね」と苦々しそうに呟く。

あいつが、お姉ちゃんに変わっていたのが、なんとなくやるせない。

「お姉ちゃんも真美と一緒で、一番好きな食べ物を最後に取っておくタイプだったわ。もしかするとお姉ちゃんは、恋愛という一番好きな食べ物を最後に残しておいたのかもね……今思えば、お姉ちゃんって、のんびりしているように見えて、結局、いつも最後は一番美味しいところを持っていくーーそんなタイプだったわ」

公恵はそう言うと、やられたって感じよね、あたしにしがらみを残して出て行っちゃうんだもんね、と顔をしかめて、ため息をつくのだった。



「それで、お姉ちゃんがそんな状況になっちゃったから、一度あたしに家に戻って来てほしい、そうお父さんが言ってるって、母さんから連絡をもらったんだ」

そこでおじさんが公恵を前にして、直ぐに今の仕事を辞めて家を手伝え、そして、ゆくゆくはこの店を継げ!そう頭ごなしに言ったのだという。

「それは、大喧嘩だよね……」

それは、そうだ。

公恵には、浩介くんという未来を誓った男性がいた。

かつて公恵は、浩介が将来、実家の雑貨屋を継いだあかつきには、あたしもそのお店を手伝って、品揃えを西洋のアンティーク中心のお店に変えていくんだーーそんな夢を語っていた。

「いくら親とはいえ、今更一方的に自分の都合を押し付けるって酷いじゃないの!って思わず感情的に怒鳴って、家を飛び出しちゃった……」

ふと、心がざわついて、耳鳴りがした。

「それにしても、跡取りとかはいなかったんだろうか……」

それは、さっきの電車の中で耳にした、ふたり連れの男たちが口にしていた言葉だった。

そのお店は、確か都会のどこかの路地裏にあるらしかった。

その哀しい現実が、このお店にも、今まさに忍び寄ろうとしていた。

そんなには遠くないであろう、その未来を想像した。

ある日突然、この店がシャッターを閉じて、そこに閉店の理由の紙が貼り出され時のこと。

それを目にしたお客さんが、「それにしても……」と囁く姿が思い浮かぶ。

そして、それは決して他人事ではなかった……。

雨音が聞こえた。

それは、かつて故郷の古めかしいあの屋敷で聞いた、その雨音にどこか似ていた。

公恵の父親と故郷の祖母の顔が重なっていた。

不意に、珍しく故郷の父親の顔が思い出された。

駅前の寂れたアーケード街の、周りがシャッターで閉じられたお店に囲まれた本屋で、ひとり黙々と働く父さんの姿が……。

寡黙で、誠実な人だった。

今思えば、わたしはその性格を愛していたけど、一方で、あの母さんは、それに物足りなさを感じているみたいだった。

人生の皮肉を思った。

わたしのすぐ隣にも、わたしと同様の境遇を背負わされた一人の女がいる。

その女は、これまでの人生の中で、そんな境遇に自分が躓いてしまうなどとは、これっぽっちも想像していなかった。

人の営みに、「絶対」はないのだと、心の底から思った。

であるなら、恋愛もまた同じことが言えるのだろうーーそんなふうに考えてしまうと、切なさが込み上げてきて、思わず目頭が熱くなっていた……。

「あの日以来、ここには一度も戻ってなかったのよねえ……」

公恵は、何本目かのタバコに火を点けて、どこかふてくされた表情を浮かべて呟いた。

灰皿には、少しだけ吸って押しつぶされたタバコの吸殻が何本も転がっていて、そこに公恵の心の中のわだかまりが澱のようになって、溜まっているようだった。

「それでも、毎年恒例の真美たちとの新年会をこのお正月はパスしたことが、頭の隅っこに引っかかっててね。何の連絡もなしに、ひょいとあんたたちがこの店に寄ったら嫌だなって。だって、あたしが忙しそうにしてると、今までもそんなことがたまにあったでしょう」

確かにそんなことがあった。

けれど、このお正月には、わたしはわたしなりの事情があって、それどころではなかった。

だから、「そうだね……」と答えたその声は、どこか沈んだものになっていた。

公恵は、一瞬、えっ、って感じでわたしをちら見したけど、直ぐにそのまなざしを前に戻して、そして、言葉を継いだ。

「母さんも、このままずるずるってわけにもいかないよって、何度も連絡よこしてきた。仕事の方の年度末の忙しさもあって、なかなか時間が取れなかったけど、浩介も随分と心配するからね。それで、今夜、はっきりさせようと思ったんだ」

公恵は、そう言うと、あーあ、と大きく背伸びして、首をカクカクと左右に振った。

不意に、「ボーン」と柱時計が不気味な音で、八時丁度を告げた。

心臓の鼓動が、ドクンと激しく鳴った。

少し間を置いて、階下から、「どし、どし」と何かを踏み潰すような足音が聞こえてきた。

わたしは、これからこの部屋で繰り広げられる光景を想像して、背筋が寒くなる心地で、顔を強張らせていた。



つづく

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