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迷仔  作者: 芳田文之介
3/12

公恵の実家 (一)


公恵の実家



(一)



引き戸を少し開いてお店の中を覗く。

「えーと、四番テーブルさん、レ、レモンサワー、三つ追加でお願いしまーす!」

「はいよー!」

「お姉さん、こっちもオーダーお願いねえ」

「あっ、は、はーい」

聞き覚えのないバイトさんの初々しくてたどたどしい声、それに応える聞き慣れた公恵の父親の威勢の良い声、そして、さらにそれに絡まるようにしてほろ酔い気分のお客さんが上げる陽気な声に、右往左往で応じるバイトさんの声ーー店内は、それぞれの声が賑やかにこだまして、その盛況ぶりがうかがえる。

何と言っても、ぎこちなく接客するバイトさんの、その姿がいじらしい。

新人さんだろうか。

大学時代に一度だけ、このお店を手伝った時のことを思い出す。

あの時は、この新人さんたちよりも要領の悪かった自分だったな、とそんなことが思い出されて、照れ笑いを浮かべる。

ふと、昨年のお正月以来、もう一年以上も遠ざかっていたこの店の、その懐かしい匂いがわたしの鼻腔を擽る。

それは、鉄板から立ち昇る香ばしい匂いにもその懐かしさは、確かにあった。

けれど、それよりもわたしは、この家の人たちとここを訪れたお客さんたちのそれぞれによって長年に渡って醸成させてきた、この店の壁にくっきりと張り付いた特有の匂いに、より強くその懐かしさを覚えている。

そんな匂いにつられて店内に一歩足を踏み入れ、いつもの決まった場所に視線を送る。

あれっ、と思わず言葉が漏れて、その場に足を留めた。

わたしが、この店を訪れる時には決まって空席になっているはずの、向かって左奥の二人がけのテーブルに、今日は若いカップルの姿があった。

二人は、屈託のない笑顔を浮かべておしゃべりに夢中になり、たまに思い出してようにして、鉄板の上の料理をつついている。

その風景自体は、わたしの心を和ませてくれるけど、しかし、この店での居場所を失ってしまった疎外感が、わたしの心をささくれ立たせる。

改めて店内に目を凝らす。

そこでわたしは、首を傾げて、いつもこの風景にあるはずの、何か重要なピースが欠けているような、そんな奇妙な違和感を覚えてしまう。

わたしは、おでこに人さし指をあて、しばらくそうして思案にくれる。

不意に、鋭い衝撃が脳天を打つ。

そうだ、今夜のこの風景には、いつもこのホールを取り仕切って忙しく駆け回る、公恵の姉の、あの和美さんの姿がない。

週末のこんな忙しい時に、まさか休暇を取るとは思えないし……もしかして、病気?、それとも……?ーーそんな空想に浸っていると、ふと、昨夜、なにか思い詰めた様子でわたしに電話をかけてきた公恵のことが頭を掠めた。

今、わたしの目に映る光景と、昨夜の公恵へとの様子に、なにか因果関係でもあるとでもいうのだろうか。

こめかみに鈍い痛みが刺してきて、わたしは眉を顰めた。

心が妙にざわめく。

雨音が聞こえた。

あの不吉な予兆の旋律がーー。

この一年とちょっとの季節の中で、わたしが抱えてしまった周との事情ーーそんなことなど知る由もない公恵と同様に、わたしの知る由もない何か特別な事情を、今まさに、この家族は抱えているとでもいうのだろうか。

わたしは、さっき雷門の前で味わっていたものに似た感情を、この通い慣れた店の中でも味わされていた。

いや、もしかすると、それは単なるわたしの思い過ごしなのかもしれない。

本当は、ここにはいつもの日常があって、普段通りの時間が流れているのかもしれない。

けれど、わたしは今、とても後ろ向きでいる。

だから、日常に横たわるあらゆる情景を屈折させて捉えて、その現実を歪めて認識しようとしている。

それは、周との関係性がそうさせているーーそんなふうにわたしは決めつけているけれど、実はそれさえも、わたしの独善的な妄想なのかもしれない……。

とにかくわたしは、周との繋がりを絶たれて、そして、この街での居場所さえも失ってしまうーーそんな強迫観念に怯えながら、目の前の違和感のある光景をぼんやりと眺めていた。



「いらっしゃいませ、お一人様ですか?」

心ここに在らずーーそんな感じで、そこに立ち尽くしていたわたしに、見覚えのない女の子のバイトさんが近寄ってきて、そう声をかけてきた。

「お一人様でしたら、こちらのカウンターへどうぞ」

女の子はそう言うと、わたしを値踏みするみたいに上目使いで見て、手のひらを厨房の前にあるカウンターへと向けた。

「……あっ、はい」

常連のわたしが、一見さんでお一人様のお客さんのような扱いを受けて、わたしは思わずその衝撃に立ちくらみを覚えて、すがるようなまなざしをカウンターの先にある厨房へと送った。

俯いて調理に励んでいた公恵の父親が、その女の子の声に反応するように、ひょいと顔を上げる。

一瞬、視線が絡み合う。

おじさんは、一瞬、「おっ!」と、なにか驚いたものでも見たような、そんな表情を浮かべて、わたしをまじまじと見る。

わたしは、その視線に耐え切れなくて、「おじさん、ご無沙汰してます」と深々とお辞儀をして、ゆっくりとその頭を上げて、ぎこちなく笑って見せる。

「……ああ、本当に、久しぶりだね……」

そう言って強張った表情を緩めようとして、しかし、それはどこかぎこちない笑みで終わってしまったーーわたしの目には、そのおじさんの態度が、そんなふうにしてどこかよそよそしく見えていた。

すると、一瞬、暖簾がサッとめくり上がり、そこから公恵の母親が顔を出してきて、「あら、真美ちゃんじゃない、お久しぶり」といつもの人好きのする切れ長の笑うような目をして、声を弾ませた。

安堵のため息が漏れる。

「あっ、おばさん、今晩わ。ご無沙汰してます」

この状況に、なんだか居心地の悪さを覚えていたわたしは、おばさんの出現に救われた心地で、親しみにしがみつくようにして、彼女に駆け寄る。

わたしのその勢いに、ちょっと戸惑ったみたいなおばさんだったが、すぐにその表情は普段通りに戻って、「ところで、今日は、公恵とここで待ち合わせ?」と小さく首を傾げて、そう尋ねてきた。

ええっ……?

酷いな、公恵ったら、わたしが来ることを伝えてないなんて……。

わたしは、心の中でそう呟いて、顔を顰めた。

なるほど、それでいつものわたしの指定席が埋まっているのね、と頭では何となく頷けたけれど、心情では、どうしてそれを伝えてなかったの? と首を傾げていた。

「そうですか……公恵からは、何にも連絡が……」

わたしは、訝しげな目を作って、おばさんを見つめる。

「そうなのよね……あったら、ほら、あそこ、いつものようにリザーブしてるじゃない」

おばさんはそう言って、奥のテーブルを指さす。

わたしは、「そうですよね……」と眉間に皺を寄せて、「どうしても今夜七時にうちにきてほしいって、昨夜公恵から電話をもらったんですけどねえ……」と言って、唇をすぼめる。

おばさんは、「あら、そうだったの……」と、一瞬、憐憫の笑みを浮かべたけれど、「それにしても、今夜七時にって……あの娘ったらねえ」と言って、今度はなぜか意味深な笑みを作って、その特徴のある目を厨房へと向けるのだった。

すると、その視線に気づいたおじさんは、それをふんという顔をして否して、再び顔を伏せて、手にした包丁で何かを刻みはじめた。

その光景が、わたしに、なぜかやるせなさを連れてきた。

それは、わたしの目には、どこかおじさんの肩が小刻みに震えているみたいに見えていたし、そしてなによりも、わたしの耳には、まな板に刻まれる包丁のリズムとその音が、おじさんの感情をぶつけているみたいにどこか荒々しく聞こえてきたようでもあったから。

それでわたしは、ああ、わたしの思案は、思い過ごしではなかった、と改めて気づかされる。

この店は今、やっぱり何か特別な事情を抱えている、そう瞳を曇らす。

それなのに、おばさんときたら、わたしの思いとは裏腹に、そのおじさんの仕草を目にして、「ぷっ」と小さく吹き出していたーー。

そんなおばさんは、何かを思い出したような感じでわたしに振り向き、「とにかく、真美ちゃん、ここに立っているのもなんだから、二階に上がって公恵を待っていたら」と言って、わたしの肩をそっと押して、二階がこの家族のリビングルームになっている部屋へと、わたしを促した。

「あっ、はい……」

わたしは、そう頷いたものの、公恵の顔を思い浮かべて、もう、今夜のわたしはお邪魔虫じゃん!と心の中でその顔に毒づいていた。

そして、今日は公恵に会わずにこのまま帰っちゃおうかな、なんて思いも頭を掠めた。

それでも、「ほら、ほら」と大好きなおばさんに強く背中を押されてしまうと、ここは、おばさんの言葉に従っておこうか……と渋々自分に言い聞かせて、暖簾をくぐって、上がり框で靴を脱ぎ、二階へと上がる階段へと歩を進めていた。



「外は雨が降っていて、寒かったでしょう。今、熱いお茶淹れるわね」

ダイニングテーブルで肩をすぼめて腰を下ろすわたしに、おばさんはそう優しく声をかけてくれる。

改めて、部屋の中を見渡す。

公恵に初めて、ここに連れられて来た日のことを思い出す。

あの日わたしは、この部屋に懐かしい風情と懐かしい匂いを感じていた。

それはこの部屋が、故郷の実家のそれぞれに似ていたから。

わたしはあの日この部屋で、郷愁とひとりぼっちからの開放感を同時に覚えて、目頭を熱くしていたものだった。

けれど、今日もあの日と同じ部屋にいるというのに……。

「それにしても、公恵は真美ちゃんに、七時に来てって言ったのよねえ……」

おばさんが、突然、独り言のようにして呟いた。

わたしはその呟きを聞きながら、部屋の壁に掛けられた古めかしい柱時計に、ふと、目をやった。

その瞬間、偶然にも「ボーン」と不気味な低音が部屋に響いて、わたしはそれに驚いて、顔を引きつらせて、ビクッと小さく肩を跳ね上げた。

わたしはその表情のままで、なぜか柱時計がちょうど七時を指すその風景を恨めしく眺めて、「え、ええ……七時にって」と、ポツリと呟く。

おばさんは、「そう……」とため息にせつなさを含んで呟き、わたしの目の前に湯呑を置いて、それに湯気の立つお茶を注いでくれる。

一瞬、そこで二人の会話は途切れて、部屋には、奇妙な沈黙が流れる。

この部屋でいつもは聞き慣れているはずの、正確に時を刻む柱時計の振り子の音が、今日はやけに不気味に響き渡って耳に届き、それがわたしの心拍数を早めさせて、その鼓動を激しくさせている。

それが、おばさんの耳に届いてしまうのではないか、とわたしを怯えさせて、そのいたたまれなさが、より一層この部屋での居心地を悪くさせている。

その時、とんとんとリズム良く音を刻んで、階段を駆け上がってくる人の、足音がした。

リビングルームの引き戸が、ガラガラと音を立てて開く。

懐かしい人の匂いが、外気に溶け込んで部屋の中に流れ込む。

同時に、「ただいまー」と懐かしい人の顔も覗く。

おばさんは、「あら、おかえり」とちょっと棘のあるような物言いをその顔にぶつけた。

わたしはというと、どんな顔をしたらいいのか困り、「公恵、久しぶり」とあいまいな表情を作って、胸の前で小さく手を振る。

公恵は、そんな雰囲気には全くお構いなしというていで、「ふう、疲れた。こういう日に限って忙しいのよね」と愚痴を吐き出し、わたしの隣の椅子にストンと腰を下ろして、「真美、今夜は、ありがとう」とわたしの肩をポンポンと軽く叩いた。

わたしは、「うん」と相変わらずあいまいな表情のまま頷き、わたしたちの前に腰を下ろした、おばさんのその顔色を伏し目がちにうかがう。

そして、思う。

切れ長の笑うような目をした人って、どこか得してるなって。

いつもその表情で、相手にその本性を掴ませない。

愉快なのか不愉快なのかーー本当のところはどうなの? ってその顔を前にした相手を妙に勘繰らさせるけど、結局最後は、いつもその人好きのする笑みの威力で相手をねじ伏せて、まあ、いいかと頷かせている。

周がそうだし、そう言えば、あの修一くんも、そうだった……。

それでも、今夜のおばさんは、はあーとやるせなさが溶けた息を吐き、やれやれと言いたげに小さく首を左右に振る仕草を見せて、それが何となく公恵に対するその心情の一端をうかがわせているようでもあった。

おばさんが、徐に口を開いた。

「お店が空く頃を見計らって戻ってきてね、ってあんなに強く言っておいたのにね……。それが、店の一番忙しい時間帯の七時に、それも、真美ちゃんと待ち合わせして……まあ、お母さんはそれで、あんたの気持ちを充分に察することはできたけれどね」

おばさんはそう言うと、いつもの特徴あるその目に戻って、公恵に慈しみに満ちた視線を送るのだった。



「お母さんは、あんたの気持ちを尊重するよ。あんたの自由にすればいい、そう思ってる。でもね、お父さんはね……」

おばさんはそう言って、そのまなざしに、なんだかいたずらっぽい陰性の光を浮かべた。

「……そりゃあ、簡単には納得しないわよね。あんなことがあって、もう頼るのは、あんたしかいないんだもんね……それでも、あんたがどうしても自分の人生を歩んでゆきたいって言うのなら、逃げていないで、ここでしっかりとケジメをつけなくちゃね。だって、血の繋がった親子なんだもんね……まあ、それは、あの娘にも言えることなんだけどね……」

おばさんは、そう言うと、それは今更言っても仕方が無いことだけどさ……と苦笑交じりにため息をついた。

その話を、テーブルで頬杖をついて聞いていた公恵は、「分かってる」とぶっきらぼうに答えて、「それにしてもね……」と呟き、はあーと大きなため息を吐き出す。

その二人のやり取りを眺めなていたわたしは、ところで、今夜わたしは、ここに居てもいいの? これから始まるであろう、何やらきな臭い場面をこの部外者であるわたしが立ち会ってもいいの? という疑問を頭に並べて、できることなら、この場から逃げ出してしまいたい、という衝動に駆られていた。

「真美には、知っておいてほしいと思ったの」

そんなわたしの心情を見透かしたかのように、公恵がポツリと呟く。

「真美は、どうして今夜、わたしがここに?って思ってるかもしれないけどさ、あたしは親友のあんたに、どうしてもうちの店の現状を知っておいてほしいと思ったの」

公恵はそう言って、俯き加減にしているわたしの顔を覗き込んだ。

「たとえばね、ある日、ここにあんたと周くんが食事に来てね。それで、公恵、お元気ですか?なんてお父さんに訊いたりした時を想像してみたの。すると、きっとお父さんは、嫌な顔して不機嫌に対応するはずだなあって。それで、二人は不愉快な気分を味わっちゃう。二人は、何にも悪くないのにね……それを思ったらあたし、今夜、真美にここにきてもらって、手っ取り早く今の現状を目の当たりにしておいてもらったほうがいいかなって……だって、ほら、あたしって、真美も知ってる通りで、ややこしい事情を説明するのって、苦手な人でしょ」と言って、ねっ、と片眼を瞑って見せるのだった。

だからか……と思った。

だから、昨夜の公恵は、あんなに思い詰めたようにして、強引にわたしを誘ったんだ、と。

わたしが今、ここにいる状況は理解した。

けれど、それと同時に喉がカラカラに乾いている自分に気づいた。

公恵のわたしに対する心情を知り、さっきまで、この場から逃げ出したい、と思っていたわたしが情けなくなっていた。

公恵は、自分の世界にわたしを巻き込んで、その恥部を晒すことで、親友としてのわたしとの親密性を深めようとしている。

それなのに……。

わたしは、周との一件を他人に知られることを恥ずかしいことだと思ってきた。

だから、誰にも相談せずに自分の世界の中だけで、もがいていた。

きっと昨夜の公恵の電話がなかったら、わたしはこの胸のうちを公恵に語って、そして、相談に乗ってもらおう、なんて思いもしなかったはずだ。

独りよがりの自分に、自己嫌悪を覚えた。

「真美ったらね……」

そんな声が、耳の奥でこだまする。

それは、高校時代の修学旅行で泊まったホテルの階段の踊り場で、友達が囁いていた言葉だった。

「彼女って、あまりにも自己チューだと思わない? あたし、上野の美術館って、全然つまんなかった……」

あの時、階段の下でそれを聞いていたわたしは、不遜にも、そんなには心を痛めずにいた。

あの頃のわたしは、今振り返えれば恥ずかしいことだけど、自分さえよければ良いという感情が、他人を思いやる感情よりも勝っていたと思う。

そんな嫌な性格のわたしでも、あの頃は、温もりのある何かに包まれて、あの町では幸せに暮らすことができていた。

多分それは、祖母の温もりや、町一番の本屋の娘というステータスがあってのことだった。

それが、この街に来てそれらを失ってしまうと、自然と自立を強いられるようになって、そこでわたしは初めて、そんな自分では駄目なんだと知らされる。

人って、存外自分が自己チューな人間だと気づかないで、いつもの日常を過ごしている。だから、我を通し過ぎる余り、知らないうちに他人を不愉快な気分にさせていた、なんてことが時には、ある。でも、そんなことばかり繰り返していると、そのうちみんなからつまはじきにされて、寂しい人生を送らなくちゃいけない羽目になる。それじゃ、あまりにも寂しいよねーーーそう教えてくれたのが公恵だったし、なによりもわたしの大好きな周だった。

そう言えば、大人とは、社会と上手く折り合いをつけていける存在だと、小学生の頃に学んだわたしだった、とあの時気づかされていたというのに……。

そんなわたしの夢想を破るようにして、おばさんが口を開いた。

おばさんは、わたしたち二人を優しいまなざしで交互に眺めて、「八時になったら、お客さんも空くと思うわ。そしたら、お父さんをここによこすから。それまで、二人で仲良く待っててね」と含み笑いでそう言い残すと、何かいい匂いをほのかに漂わせて、階下へと降りていく。

「二人でここにいてね……」

その言葉が心に鈍く刺さった。

公恵が、わたしを部外者ではなく、むしろ家族の一員のように扱ってくれて、それをおばさんが、優しいまなざしで見つめてくれている……。

わたしは、この街に来て、これまで一体何を学んできたのだろう。

愛する人の、愛する言葉を学び、それをどう心に沁み渡らせてきたというのか。

心を閉ざして自分の都合だけで周に依存し、自分の都合だけで公恵と接してきた。

雨音が聞こえた。

隠していた故郷の事情が、周に暴露てしまった節分の夜。

周は、わたしのその他人行儀な態度を嘆き、悲しげなまなざしを向けて、首を左右に何時も振っていた。

周が、わたしに愛想を尽かした原因が、今夜、くっきりと分かったような心地でいた。

先にある自分の不確かな不安だけを先取りして、それに躓いてしまった、今の自分が惨めで仕方がなかった。

後悔先に立たずーーそんな言葉が、耳の奥というよりも、心の奥でこだました。

けれど、それは身から出た錆でもあるわーーと、そんな声もどこかでこだました。

テーブルの上の湯呑み茶碗を両手で包み、口にあてた。

一口すする。

上手く喉を通らないので、ゴクンと強く飲み込んだ。

それは、とても苦い味がした。



つづく





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