公恵の実家へ (二)
公恵への実家へ
(二)
雨に煙った雷門が眼前に現れる。
かつて修一くんと肩を並べて見上げた、あの懐かしい大きな提灯ーー。
それは、時を経て、大学のキャンバスで公恵がわたしに声をかけてくれた偶然が、わたしとこの街の関係を濃密にさせて、そのおかげで今ではすっかり目に馴染んだ提灯でもあった。
『雷門』と大書された提灯の前には、あいにくの雨模様だというのに、自撮り棒を手にして気取った仕草さで撮影に興じる、そんな多くの異邦人の笑顔が溢れていた。
思わず、「それにしても……」とため息と一緒に呟きが漏れる。
初めてわたしが、修一くんとここを訪れた季節に思いを馳せると、わたしの目の前にあるその賑わいは、当時と今では隔世の感があった。
こんなに観光客が増えたのは、ここ数年のことだよなあーーわたしの脳裏に綴られた記憶の頁を捲ると、そんな呟きも漏れてくる。
中国からの来訪者の姿が、とくに目を引く。
そんな彼らの豪快な買いっぷりをメディアは『爆買い』と揶揄して、その風景を連日のようにTVはニュースとして取り上げていた。
銀座を周と二人で歩いていた、ある日の風景が頭をかすめる。
そこで、彼らの購買意欲の旺盛さを目の当たりにした周が、「もはや日本の経済は、彼らの消費を抜きにしては語れないよな」そう言って微妙な笑みを浮かべていたのを思い出す。
それと同時に、「さすがに、この街には彼らの『爆買い』ってのはないんだ。だって、観光地だろ。そんなにはお土産買わないもの。それでもこれだけの頭数だ。その足し算される日銭は、やっぱりバカにはならないよ」と言って、なんともいえない表情を浮かべていた、公恵の父親の顔も思い出された。
わたしは、そんな二人の話を神妙な表情を浮かべて聞きながら、なのに、どうして、この国は中国と仲が悪いんだろう?ーーそうした思いを募らせて、首を小さく捻っていたものだった。
そういえば、「あの国の実態をこの目で見てみたいんだ」そう意気込んで、中国に出張していた周だったな、とそんなことも思い出す。
周は、わたしの知らないかの地の風に吹かれて、何を感じて、何を思って、そして、それぞれをどんなふうにして今後の人生に役立てようとしているのか……。
けれど、その答えを聞く機会さえ失っている今のわたしだったな……それを思い、こみ上げた切なさに胸を痛め、わたしは首を小さく左右に振っていた。
傘をさして、異邦人でごった返す雑踏の隙間を縫うようにして歩いて行くのは、思いのほか大変な労力がいった。
それは、この街を彼らの自由奔放さが占拠していて、それがわたしにこの空間で肩身の狭さを覚えさせているのが原因だった。
不意に、そんなわたしの心に、切なさの風が吹き抜ける。
それは、いつも通い慣れた道だというのに、時計の針を逆戻しにされた既視感に似た風だった。
それが、大学時代に一度だけ連れられていった公恵の実家に、「今晩、うちで食事しよう」と誘われて、今夜のように一人でこの街を歩いていた、あの日のわたしを蘇らせる。
あの日のわたしも、ひとり心細く歩くこの街で、まるで異邦人のような肩身の狭さを覚えていた。
それは、地続きの人たちと同じ地平に立っているのに、なぜか自分だけが不思議の国に紛れ込んでしまった少女みたいな奇妙な感覚に浸されているーーそんな居心地の悪さから湧いてくる感情だった。
それでも、公恵との出逢いがこの街との関係性を深めさせてくれると、そんなわたしでも、ここの空気にもすっかり馴染むことができていて、なんだ、この街はこんなに居心地のいい場所だったんじゃない、と思えるようになったものだった。
それなのに……。
今、わたしの目の前に広がるこの空間には、異邦人たちの賑わいの中に、それぞれの口から飛び交う様々な言語があり、そして、それらはこの街と妙に一体感を成し浸透していて、それが、まるで自分の方が別の世界に迷い込んでしまったようなあの日の既視感を呼びお越させ、今のわたしに、肩身の狭さを覚させていた。
そんな感情を引きずりながら、わたしは雷門から仲見世通りを覗く。
通りは、色とりどりの傘の花で埋め尽くされ、それが朝の通勤電車の車内の景色を思わせる。
今日はこの通りを行くのはよしておこう……わたしは眉をひそめてそうひとりごち、裏路地へと歩を進めた。
一歩足を踏み入れた路地裏は、参道の光が煌びやかな分だけ、それがより一層、闇の深さを感じさせる。
ここにも光と影があるーーそう思いを巡らせながら、ふと視線をその闇の中へと凝らした。
わたしと同じように人混みを避けて来たのだろうか。
それとも、こんな路地裏にも人知ぬ名店が、密かに隠れているとでもいうのだろうか。
わたしの視線の先には、大きなキャリーバックをころころと引きながら、スマホに目を釘付けにして歩く、一人の観光客の姿があった。
そのキャリーバックを引く響きが、再び記憶の中の一編を呼び起こす。
あれは、初めて行った成田空港のロービー。
広々としたロビーには、異国へと旅立つ邦人の群れ、母国へと旅立とうしている異邦人ーーとにかく、そんな人たちが引くいくつものキャリーバックの響きが心地よく交差していて、思わずわたしの旅愁を誘っていた。
今、耳にする裏路地のキャリーバックの響きが、あの日の響きと重なる。
あの日のわたしは、メキシコに旅立つ修一くんを見送るために、そこを訪れていた。
その前日の夜、わたしは故郷から連れてきて、アパートのベランダに吊るしておいたてるてる坊主を仰いで、「明日は、素敵な天気にしてね」と手を合わせていた。
それは、修一くんの旅路の無事を願ってーー確かにそんな健気な想いもあるにはあったけれど、しかし、それよりもむしろ、あの夜は、わたしの心の片隅に潜む、不吉な予兆の旋律としての雨を封じるおまじないとして、そう願っていたものだった。
それなのに、あの日……空は灰色の雲に覆われて、街は冷たい雨に濡れていた。
初めて足を運んだ北ウイングのロビーは、不思議な空気がその空間を覆っていた。
わたしの目の前を、キャリーバックを引いて歩く人たちや、たくさんの荷物を乗せたカートを押す人たちが、わたしの日常では知ることのできない雰囲気を身に纏って、軽い足どりで通り過ぎてゆく。
その誰もが、窮屈な日常から抜け出してきた解放感と、非日常へとタイムスリップできる高揚感を無意識の内に発散させて、それがここに流れる空気を奇妙に震撼させて、この空間に不思議な喧騒を奏でているのだった。
その空気に触れたわたしは、多分に修一くんが旅立つ寂しさを心に抱えながらも、しかし、それよりもむしろ、初めて目にするその新鮮な風景と、初めて体感するその空気に、妙に心を浮き立たせるのだった。
あの日、修一くんは、そんなわたしをそのスポットの片隅に連れて行って、「以前、俺が口にしていた大切なヒトなんだ」と言って、柱の影にポツンとひとり佇んでいた女性を、わたしに紹介したのだった。
その女性は、切れ長の目をして、ショートカットの髪を少し茶色に染めて、スレンダーなボディがこんがり日に焼けた、しかし、それは白い肌をして長い黒髪を後ろで束ねて、どちらかというとちょっとぽっちゃりタイプのわたしとは、全く逆のタイプの女性だった。
彼女がちょっと馴れ馴れしい態度で、「ナガサワカスミです。これからは、仲良くしてね」とニコッと笑って、ふわっと何かいい匂いを漂わせてお辞儀して、それがわたしの鼻を妙にくすぐった。
「……はあ」
そう応えたわたしは、誰、このヒト? そんな怪訝そうな目を修一くんにぶつけていた。
一瞬、ざわついた沈黙が流れる。
しばらく強張った表情でいた修一くんだったが、それでも、何とかその表情を崩して、それから、わたしにとってはあまりにも残酷な言葉を口にした。
「実は、彼女……俺の婚約者なんだ」
あの日のわたしは、重い何かがずしりと心の底にと落ちてきたような、そして、冷たい何かに足元をさらわれていかれるようなーーそんな気分にさらさながらも、それでも、引きつっていた頬に無理矢理苦い笑みを作って、はにかんだ表情の修一くんと、満面の笑みをたたえる彼女との顔を交互に、どこか冷めた目をして眺めていた。
その時、わたしは、耳の奥というよりは、心のどこかに冷たい雨が降る音を聞いていた。
雨音は不吉な予兆の旋律ーー。
だから、雨が降らないようにって、あんなにお願いしたんじゃないーー頭の中に、ベランダに吊るしてある、ちょっとくたびれてどこか頼り甲斐のないてるてる坊主を思い浮かべて、心の中でそんな憤りを呟いていた、あの日のわたしを思い出す。
かつてわたしは、修一くんとの血縁関係を父の書斎にあるパソコンで検索して、頬を緩ませていたものだった。
あれは、まだ恋心とは呼べない、どこか形のはっきりしない淡い感情だった、そう今なら思える。
歳を重ねて、季節が思春期を連れてくると、その感情は、くっきりとした輪郭を成していき、それがわたしの心に甘酸っぱい何かを感じさせるようになっていた。
思えば、それがわたしのーー初恋ーーだった。
中学二年の夏休み、クラスの男女で海水浴に行った、その帰り道。
「岡田さん、ちょっと話があるんだ」と言われて、二人だけみんなと離れて立ち寄った公園のベンチ。
「あのー、よかったら、僕とお付き合いしていただけませんか」
初めて異性にそう告白されて、深々と頭を下げられていた、あの夏の日。
暮れなずむ夕陽に紅く頬を染めて、喧しいひぐらしの鳴き声を聞きながら、しばらく俯いていた、あの日のわたしでいた。
そんなわたしは、それでも、意を決して、蒸気する顔をあげて、「ごめんなさい、わたし、想うヒトがいますので」と小さくも、しかし、それでいて確かな口調で答えて、頭を下げていた。
それで、ああ、わたしはやっぱり修一くんを想っているんだな、と改めて自分の心を把握して、その想いを確認していた。
それ以来の一途な恋だった。
だから、わたしは、修一くんが暮らす街に思いを寄せて、修一くんと同じ空を見上げていたいーーそう上野の杜で、見上げた空に浮かぶ、白くてまん丸いお月さんに呟いたのだった。
やがて、時間の流れが、その想いを大きく膨らませて、それがわたしの東京行きを決意させる大きな要因となっていく。
東京に旅立つ日、駅のホームで悲しい目をして見送る祖母に、後ろ髪を引かれる思いを感じながらも、それを無理矢理ねじ伏せて、そしてやっとたどり着いたこの街。
それなのに、いきなりこの街に来て修一くんに、「俺、真美ちゃんに謝らなくちゃならないことがあるんだ」と頭を下げられていた。
それでもわたしは、「四、五年したら戻るよ」と笑顔でいう修一くんの言葉を信じて、それまでの我慢よ、と切なくも自分にそう言い聞かせて、孤独の寂しさを紛らわせようとしていた。
それなのに……婚約者がいたなんて……それは、あまりにも理不尽な、修一くんからのわたしへの仕打ちだった。
あの日、わたしの初恋は、まるでTVの中のドラマのように、仲良く搭乗口に消えていく二人の後ろ姿と共に冗談のように脆く、そして、儚くもあっけなく消えていた。
あの日のわたしは、帰りの電車に揺られながら、この街に来た目的、そしてこの街での心の拠り所、そんな大切なものを一瞬にして喪失してしまった現実に打ちひしがれて、能面のように車窓に映るもう一人のわたしの顔に、「わたしは、この街にいったい何をしに来たというのだろう」、そう心の中で哀しく呟いていた。
公恵の実家のもんじゃ焼き屋さんの看板の灯りが、滲んだ目に映る。
そう言えば、あの日わたしは、雨に煙る大学のキャンパスで、そんな絶望を胸に抱えて、掲示板のポスターを虚ろな目をして眺めていたんだっけーーそんなやるせない記憶の一コマを思い出していた。
そして、そこで、突然、公恵に声をかけられたのだった。
思えば、その偶然とも呼べる出会いが、わたしのこの街での孤独な日常を劇的に移ろわせて、今、こうしてわたしは、この街を歩いている。
人生の皮肉を思った。
かつて一人の留守番を母に命じられ、寒さと不安に怯えていた、あの冬の雨の日。
そんなわたしを、優しい笑顔で包み込んでくれていた、あの日の修一くん。
その修一くんを慕ってこの街に来て、そして彼の旅立ちと婚約者の存在を知って絶望に打ちひしがれていた、あの雨の日の大学のキャンバスーー。
皮肉にもその因果が、公恵との出逢いをもたらせ、そしてその繋がりで、わたしは周と出逢えた。
皮肉に思えたそれぞれの現象は、それは全て何かに導かれた、必然であったと云うのだろうか。
そして今、再びわたしのありふれた日常に、不吉な何かが起こりそうな予兆がある。
それもまた必然であって、それがわたしという一人の現象の宿命とでもいうのだろうか……。
久しぶりに訪れた公恵の実家のもんじゃ焼き屋さんの引き戸の前で、足を止めた。
目尻をそっと人差し指で拭って、ちょっぴり尖った目をして、夜空を仰いだ。
そして、気持ちを整えるようにして大きく息を吐き出し、頬を無理矢理緩ませて、それから、ぐっと手に力を込めて、その引き戸を引いた。
つづく