表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
迷仔  作者: 芳田文之介
10/12

土曜日の風景



土曜日の風景





改札を抜けて頭上を仰いだ。

雨はまだ薄紫色の空から無情にも落ちている。アスファルトがその雫を集めて街明かりを揺らしていた。

今は、公恵と別れて、わたしが暮らすマンションの最寄りの駅に立っている。

迂闊にも、公恵の実家にわたしのお気に入りの傘を忘れてきた。あの傘は周とお揃いで買ったもの。ふと、わたしの手元にあの傘は、永遠に戻ってはこないんじゃないか……そんな不吉な予感が頭をかすめた。公恵の実家とわたしは、彼女との関係性だけで繋がっていた。だから、もうそこを訪れる機会はないのかもしれない。そして、あの傘を手にすることも……そんなふうに思いを巡らすと、人間の繋がりなんて冗談のように脆いものだなと気づかされて、なんだか虚しくもなる。

空を恨めしく見上げた。

どうやらこの雨は、わたしの心の事情になど寄り添うつもりはないみたいで、いつまでもこうして地上を冷たく濡らして、なぜだかわたしを困らせていたいらしい。

仕方がないなあ、……そうひとりごちて、雨の中へと歩き出す。今のわたしは、この雨に濡れながら歩く姿がとってもお似合いのようね……空を仰ぎ、そう自嘲気味に呟いてもみる。

それにしても……。

とぼとぼと歩きながら、今日の一日を振り返った。

脳裏に、和美さんの穏やかな面影が浮かんでくる。あの看板娘の和美さんが、好きなひとを追いかけて、そして家を飛び出しちゃうなんてね……。あの穏やかな表情の裏に、どんな強い意志が潜んでいたというのだろうか。現実のあまりにもの意外性に驚かされて、今でもわたしの胸はドキドキしている。

ふと、そんな自分が可笑しくもなった。

立場を変えて眺めれば、あの真美がねえ、とため息をつく祖母がいる。思えば、かつてのわたしが祖母にとって、今の和美さんに似た存在でもあったのだ。

でもなあ……とため息をつく。和美さんとわたしを重ねてみると、どうしても願いたいことがあった。わたしのように慕うひとを追いかけ故郷を離れた結果、その男に手が届かなかった……そんな現実が、和美さんに待ってなければいいのにな、と。

一瞬、妙な視線を感じて、ハッとして我に返る。

物思いに耽りながら、濡れねずみで歩くわたしの身体を、すれ違いざまに男たちの好奇の視線が舐めていた。

同情だろうか、それとも下心だろうか。

どちらにしても、男たちのその興味本位なまなざしには、わたしは無性に腹が立つ。こんな場合、女がちょっとでも隙を見せてしまうと、彼らはそこに巧妙に付け込んで、女心を弄ぼうと企てる。彼らはいつも身勝手で、あまりにも無責任だ。

なのに、心が傷ついて病んでいる女は、彼らの魂胆を充分に承知しながらも、つい彼らの優しいまなざしや言葉に心を奪われてしまい、足元をふらつかせている。だけどさあ、世の中の全ての女がそうだとは限らないんだよね。わたしの中のもう一人が呟く。薄っぺらで自意識過剰の男ほど何かを勘違いしてるんだよ……確かこの言葉は、いつか公恵に聞いた言葉だったと思い出す。

その場かぎりの情事ーーわたしたちは、そんな刹那的な女じゃないよね……公恵は、冷笑を浮かべてそんなことも言っていた。

わたしは、絡みつく男たちの視線に抗いながら、雨に濡れている。



マンションのドアノブを気だるい仕草で捻った。

一瞬、ふわっと不快な匂いが鼻をつく。わたしの日常の澱が溶けた匂いだ……それがわたしの身体に、切なさを連れてまとわりつく。わたしは、その憂鬱な気分を引きづりながら、雨に濡れた靴を脱いでいた。

濡れた身体のまま、リビングルームの明かりをつける。ゆっくりと部屋に明かりが灯っていく。白いソファーが浮かび上がった。

きっと公恵に、わたしの心情を吐露していたせいに違いない。

ふと、節分の夜に周が険しい表情を浮かべそこに腰掛けていた残像が、瞼の裏に鮮やかに蘇る。

思えば、二ヶ月近くも彼の顔を見ていない。胸がチクリと痛む。声なら、久しぶりに昨日の夜聞いた。「土曜日の日に会って話そう」

いよいよ『その日』が、明日やって来る。

はああ……吐息が白く漏れた。

漏れたその白さが、今更ながらに部屋の寒さを気づかせる。思わず濡れた身体がブルっと震えた。そんな自分がなんだか間抜けに思えて、可笑しいような悲しいような……そんな奇妙な気分になる。

エアコンのスイッチを入れて、部屋に充分な暖を取っておいてから、浴室へと向かう。

シャワーの水栓を捻る。

ヘッドから、ざあーと勢いよく熱いお湯が溢れ出し、雨に濡れて冷たくなった身体を温めてくれる。心の張りにも、その温もりが心地良い。

この温もりが、わたしの身体にまとわりついく、たとえばそれは染み付いてしまった日常の不快な匂いや、帰り掛けに絡みついた男たちの興味本位の視線ーーそれらの全てを綺麗さっぱりと洗い流してくれたらいいのに……。

そんな侘しさが滲んだ言葉が零れ落ちて、それが冷たい涙に変わり、浴槽に流れていく熱いお湯に溶けていた……。

浴室を出て、洗いたてのパジャマに着替える。

ソファーに深く腰を沈めると、やっと一息ついた心地になれた。

チラッと時計に目をやる。

かけがえのない思い出の詰まった昨日は終わり、すでに日付は、新しい思い出を綴る頁を持たない『その日』へと変わっていた。

周との待ち合わせの時刻は、午前十一時。

昨日のことや今日のこと、それぞれが頭の中を交差して、心は酷く乱れている。とうてい眠れる気分にはなれない。だからと言って、何かをしようという気力も湧いてこない。深夜のTVは、妙に軽薄で必要以上に賑やかで、今のわたしの心情にはうざったくもある。

そんな気分を持て余し、ぼんやりと宙を眺めていた。

すると唐突に、頭の片隅にあった何かが閃いていた。そうだ、昨年のクリスマスイブの日に、周と一緒に飲もうと思って買っておいたキャンティがあったんだ、と。

そう言えば、結局あの日も周は仕事だからと言って会ってはくれなかった……そんな寂しいあの日が思い出されて、切なさの滲む吐息が漏れる。

キャンティのコルクにワインオープナー突き刺して、それをぎこちなく回す。わたしはこの作業が苦手。思わずその不器用さに苦いが漏れる。

そう言えば、確か周はこの作業が得意だったなあ……。周との思い出のひとつひとつが、わたしの頭の中を行ったり来たり。本当は、そのひとつひとつがとってもいとおしい思い出であるはずなのに、今はそれがとても切なくて、やるせなくて、そして寂しすぎる。

このワインを二人で飲む日は、もう二度とやって来ないのだろうか……漏れそうになったため息を飲み込んで、わけもなくワイングラスを二つ用意した。それぞれにワインを注ぐ。動くことのないグラスに、わたしのグラスをコツンと軽く合わせる。

乾杯……そっと呟く。

何に?切なさの滲んだ声が漏れる。

何にだろう……そう首を傾げて、言葉を探そうとして、瞳を閉じる。

すると目尻に涙の雫が集まった。それを人差し指でそっと拭う。

結局、探した言葉は見つからないままだった。



次の朝、ソファーの上で目覚めた。部屋の灯りも、エアコンも付けっ放しのまま。

こめかみがズキンと痛む。眉間に皺を寄せ、細めたまなざしをテーブルへと向ける。そこには、空っぽになったワインのボトルが、気だるそうに転がっている。記憶をなぞると、隅田川の土手の上で缶ビールのロングサイズを二本空にして、それから部屋でこのボトルを一本空にしていた事実に思い当たる。

それにしても、久しぶりに随分と飲んだ。わたしは、結構お酒は嗜む方だけれど、それでもさすがに頭が痛い。

ところで、わたしは誰に似てお酒が強いんだっけ?

なぜか、ふとそんな疑問が湧いてきて、首を傾げた。祖母も両親も、お酒は強い方ではない。そう言えば、祖父は大変お酒の強い人だった。遠い昔に聞いた記憶が蘇る。隔世遺伝というやつだろうか……?

遮光カーテンが外界の雰囲気を遮断した部屋で、わたしはそんなたわいもないことをぼんやりと考えていた。

ふと時計に目をやって、ハッとして、我に返った。あっ、と思わず声が漏れる。デジタル時計は、10:00丁度を表示している。周との待ち合わせの時刻は、11:00……。マンションから待ち合わせの場所までは、上手く電車を乗り継いでもゆうに四十分はかかる。今から、シャワーを浴びてお化粧を済ませて、それから着替えをして……。そんな思案にくれていると、こめかみの痛みがますます増幅してきた。

頭の中では、さあ立って、早く準備しなくちゃあとかしているのに、なぜか身体はピクリとも動こうとはしない。

わたしは、本当は「行きたくない」と願っている。

「好き」になることに理由はいらなくても、「別れる」ことには理由がいるーーそんな言葉を誰かの本で目にした。哀しくはあるがそう言った意味においては、わたしはすでに「別れる」理由を知っている。

わたしの実家では母さんが倒れて、大変な状況になっている……あの節分の日の夜、わたしは間抜けなことに、祖母がかけて来た電話に偶然出てしまった周の口から、その事実を知った。

結局、あの日の周は、わたしの部屋に泊まることはなくて、「ちょっと考えたいことがある」と暗い顔をして帰っていった。周が帰った後でわたしは、祖母に対する怒りを胸に抱きながら、けれど祖母にではなく、父さんに電話をかけていた。

「そう……おばあちゃん、電話しちゃったか。あんなに、真美には内緒ですからねって、母さんがおばあちゃんには口やかましく言って聞かせてたんだけどね……」

電話の向こう側から聞こえてくる父さんの声には、思いのほか切迫感は滲んではいなかった。それよりも、「真美は、元気にしてるのか?」と久しぶりに聞く父さんの声には、むしろ優しが溶けていた。「とにかくこっちの事は父さんに任せて、真美は真美の人生を大切にしなさい」

父さんの言葉に、心の中で張り詰めていた緊張の糸が、プツンと音を立てるように切れてしまう。わたしは瞳に涙を滲ませて、へなへなとソファーの背もたれに身を預けていた。

けれど、その感情は実家に対する安堵感であって、決して周との未来に対するそれではなかった。わたしの実家の、その現実を周が知ってしまったという事実はなによりも重かった。周の性格からすれば、たとえ父さんが「実家のことは、気にしなくてもいいよ」と優しく言葉をかけてくれたとしても、彼がわたしとの未来を選択するとは到底思えない、そう確信できていた。

そう、わたしはすでに「別れる」理由を知っている……。

だから、「行きたくない」……そう願っている。



中学の制服を着るようになると、算数の教科書は数学のそれへと変わり、その計算は非常に複雑になっていく。

小学校の授業で習った算数の割り算は、たとえば4÷2=2というふうに、その計算の答えはスッキリと割り切れた。

ところが同じ計算であっても、それが数学の授業に代わると、大変ややこしくなる。割り算はスッキリとは計算できなくなり、その答えに『余り』が出てしまうようになる。

そしてその『余り』は、やがて数学の授業の答えの範疇だけに留まらないという現実を、わたしたちは日常の暮らしの中で学習するようにもなる。

小学生から中学生へと移行する季節は、心の成長においても過渡期である。単純だった心のあり様は、数学の計算と同様に、少しずつ複雑になっていき、心にもやもやの澱を溜めていく。

どうして人は、こんなに苦しい思いをしてまで生きていかなくてはならないのか……そんな哲学的な悩みさえも覚えるようになる。

何気無い日々の営みの中で、スッキリとは割り切ることのできないーーそんな『余り』のような感情をわたしたちは心のどこかで、自然と芽生えさせている。

そうやって大人へと成長していったわたしたちは、やがて徐々に足し算された割り切れなさの感情に、日々翻弄されてしまう日常を繰り返す。



わたしは今、割り切れない感情を抱いている。

「別れる」理由は分かっていて、本当は「行きたくない」と願っているのに、たとえ周と顔を合わせてもいいことなんてなにもないと分かっているのに、それでも「行かなくては」という割り切れなさの感情を心のどこかで持て余している。

どうして人は、こんなに苦しい思いをしてまで生きていかなくてはならないのかーーそんな感情に似た割り切れなさが『余り』となって溢れ出し、わたしの心を激しく揺さぶる。

周と一緒に過ごした六年の歳月を思ってみる。その歳月は、わたしがこの街で過ごした何事にも変え難い歴史であり、かけがのない貴重な時間でもあった。その喪失は、即ちわたしの歴史の喪失を意味する。

けれど、わたしたちの「別れる」理由は、決して「好き」という感情の喪失でない。ならば、その歴史は美しい思い出として幕を閉じなくてはならない。決して穢すわけにはいかない。そう思えて仕方がない。

だから、辛いことだけど周と顔を合わせて、「サヨナラ」ではなくて、「またね」と笑顔で握手を……「行きたくない」を「行かなくては」で割り算すると、そんな『余り』が溢れ出す。

さらに、それとは違う割り切れなさの感情も、わたしにはある。

和美さんと公恵、それぞれの現実を目の当たりにして思わされた。

彼女たちは、「好き」という感情を優先させて今を生きようとしている。実家の家業を「継ぐ」というしがらみに抗い、自分の感情の赴くままに生きようとしている。それが「正しい」ことなのか、「正しくない」ことなのかは、今のわたしには分からない。けれど、彼女たちの境遇はまた、わたしの境遇でもある。であるなら、どうしてわたしは、彼女たちのように生きてはいけないのか。なぜ彼女たちのように、自分の気持ちに素直であってはいけないのか……。

そのことを周と会って確かめなくてはならない。そんな権利がわたしにあってもいいと思う……わたしは、急がなくてはならないこの状況の中で、そんな夢想にくれていた。



ふと、気がつくとわたしは、無意識のうちにソファーから腰を上げていた。なぜか、それがわたしの今の義務のように思えて……。

覚束ない足取りで歩を進める。

浴室へと向かい熱いシャワーを浴びて、鏡の前に座る。

遮光カーテンを閉じたままの部屋に灯る明かりは、心なしかどんよりとしていて、それがわたしの気分をより憂鬱にさせている。

鏡の中にわたしが映る。酷く疲れた顔をしていた。その疲れの象徴のような隈が、目尻の下にくっきりと貼りついている。それをコンシーラーを重ねて丁寧に隠した。なんだかこの数ヶ月の間に、随分と歳をとってしまったような……そんな自分の顔を眺めて、深くため息をついた。

服を着替えようとして立ち上がり、一瞬着てゆく服に迷う。

今は、寒の戻りが空気を冷たくさせていて、着てゆく服を困らせるーーそんな中途半端な季節。

けれど、無情にもデジタル時計の数字は刻一刻と足し算されて、すでに待ち合わせの時刻に迫ろうとしている。

とりあえず、適当にニットのアンサンブルを組み合わせた。

そして、逸る思いでマンションのドアを開けていた。



なんだかエレベーターを使うのももどかしくて、早足で階段を駆け下りた。

週末のこんな時間だからだろうか。マンション自体がまだ深い眠りに就いているみたいで、ロビーは閑散としている。思っていた以上にロビーの空気はひんやりとしていて、思わず足を止めて、身体をすぼめた。着てゆく服の選択を誤ったことに、思わず舌打ちをしていた。

それでも、何かに導かれるようにして、エントランスへと足は向かう。

目の前の天井まである大きな硝子窓の、その向こう側の風景に視線を送り、思わずハッとして、再び足が止まっていた。

目に映る、硝子窓の向こう側の景色が歪んでいる。

雨が降っていた……空気が冷たいはずだ。

不意に、背筋を何か冷たいものが這ってくるような心地を覚え、ゾクッと身体を震わす。

そうだ……傘が無い。

五階の自分の部屋まで駆け上がる気力が湧かない。そんなことよりも、不吉な雨が今日の未来を予感させ、ゾクッと震えた身体が凍りついていく。

外界に降る冷たい雨が硝子窓をすり抜け、わたしの足元をさらっていくような心地を覚え、心までもが凍りつく。

「行きたくない」

割り算をする前の感情が、再びわたしの心を揺さぶる。

そう思っているというのに、なぜか惹きつけられるように、よろよろとしたぎこちない足取りで、大きな硝子窓へと歩み寄ろうとしている。ようやくたどり着くと、そこに手を合わせた。ひんやりとした冷たさが身体中に染み渡っていく。その冷たさが目頭に伝わり、瞳を潤ませる。色を失った顔が、雨垂れに滲んで歪んで見える。その顔には、なぜか表情がない。どうやら人は、救いようのない現実を目の当たりにすると、顔の表情を失ってしまうらしい。

わたしの耳に、気密性の高い硝子窓をすり抜けて、不吉な予兆の雨音が聞こえてくる。

わたしの身体のどこかを何かがチクリと刺す。結局、雨はわたしの心を最後の最後まで苦しめて、そして理不尽にも傷つけた。

一瞬、どういうわけか故郷の風景が頭の中に蘇る。

温もりのある部屋で、祖母の膝の上に座って、硝子窓の向こう側を眺めていたーーあの風景。

「おまえは、冷たい雨の降る硝子窓の向こう側に行ってはいけないよ」

耳の奥というよりも、心の襞にくっきりと貼りつく祖母の声。

一瞬、何かに打たれたような心地を覚える。

「行かなくては」

なぜだろう……心の叫びが、わたしの足を前へと進ませる。

雨に降られていようーー意味もなくわたしは、そんな思いにも駆られていた。



エントランスを抜けると、薄曇りの空から落ちる冷たい雨が、舗道を濡らしていた。

思ったよりは雨脚は強くはない。ただ、街の景色は雨に煙っていて、水墨画のような色彩を見せている。

とぼとぼと濡れた舗道を歩く。冷たい風が頬をなぶる。車が、シャアーと水飛沫を上げて通り過ぎてゆく。冷たい雨は、身体をすり抜け、心も濡らす。

ふと、車道と舗道の間の植え込みに目がいった。

突然、その植え込みが、ガサガサと音を立てて揺れ出した。

な、なに……? 恐る恐る目を凝らす。思わず、わっと声が漏れて、目を見張っていた。

そこには、つぶらな目をしてわたしを見るーー白い仔犬がいたのだ。

白い仔犬……それは、マルチーズだった。

刹那、雨に濡れたマルチーズは植え込みから飛び出して、わたしの足元に駆け寄ってくる。クウーンと甘えるような鳴き声を上げて、濡れた身体をわたしの足元にこすりつける。

いとおしさが胸いっぱいに広がって、わたしは思わず腰をかがめて、そのワンちゃんを抱き上げていた。

首輪が付いている。

「よしよし」と濡れた頭を優しく撫でてあげる。「どうしたの?こんな雨の中を。ご主人様はどこ?」そう言うとわたしは、辺りをキョロキョロと見渡す。けれど、近くに人影は見当たらない。

わたしは不意に、わけのわからない懐かしさに包まれていた。

祖母が幼い頃に聞かせてくれた絵本の中のお話が、ふと頭の中に降っていた。

「雨にぬれたまいごのこいぬ」ーーあの懐かしいお話。

けれど、あのお話は、確か切ないストーリーだったはず……なのに、なぜかわたしの心はほんわかとしてい暖かい。

驚くほどの偶然を前にして、わたしの心が浮きだっているせいだろうか。それとも、この偶然の悪戯を神様に感謝しているせいなのだろうか。とにかくわたしは、この戯画的な偶然に驚きながらも、なんともいえない嬉しさで、心を震わせている自分に気づいていた。

ワンちゃんをきつく抱きしめた。

少し手の力を緩めてやると、ワンちゃんはブルブルっと大きく身体を震わせる。その水飛沫が、わたしの頬に飛び散る。その水は冷たくはあるけれど、ほんわかとしているわたしの心がそれさえも、心地良くしてくれる。

ワンちゃんのつぶらな目にわたしの瞳を合わせて、笑顔で話しかける。「そっか、そっか。お前も迷子ちゃんになっちゃったんだね。実はね、あたしもそうなんだ。お前が飼い主さんとはぐれてしまったみたいに、あたしも誰かさんとはぐれてしまってね……お互い悲しいね。同じ境遇の一人と一匹。そんなあたしたちが、こんな冷たい雨の日に偶然出遭うなんてね……」

わたしはそこで、ちょっと悲しい表情をワンちゃんに作って見せる。「でも困ったわね……あたしのマンションにはペットは連れ込まれないんだよね」

わたしは一瞬、視線を宙に漂わす。

そうだ、と閃き、「とりあえず、わたしのマンションのエントランスのひさしの下で雨宿りをしようか」と再び笑顔を作って、ワンちゃんに話しかける。

ワンちゃんを抱きしめて、小走りにマンションへと引き返す。

ちらっと周のことが頭をかすめた。今頃、きっと冷たい雨の中で、わたしを待っているはず……。

ワンちゃんを優しく撫でながら、そっと話しかける。「仕方ないよね。迷子のお前をこのまま置き去りにしていけないもんね。あたしのご主人様はねえ、そんな冷たい心の持ちじゃないんだよ」

そんな冷たい心の持ち主じゃないんだよ……その言葉を心の中で繰り返えすと、わたしの瞳が目の前の風景を滲ませいた。



一瞬、女の人の声が、どこか遠くの方から聞こえてきた。

はっきりとは聞こえない。が、どうやら誰かを呼んでるらしい。

突然、わたしの腕の中のワンちゃんが、つぶらな目を輝かせて身体をもじもじとさせはじめた。すると、なぜだか「キャンキャン」ととても嬉しそうに吠えるのだった。



「どうもすいませんでした」

年配の女性がわたしに駆け寄って来る。彼女は安堵の表情を浮かべて、丁寧にわたしに頭を下げる。

「ちょっと目を離した隙に、外に駆け出しちゃったんですよね……」

そんなわけで、無我夢中にこの辺りを探し回っていたんだという。その女性の手には傘はなく、わたしとワンちゃんと一緒で雨でびしょ濡れ。

「見つかって、良かったねえ」

わたしはそう言って頭を優しく撫でながら、彼女にワンちゃんを手渡してあげる。

「本当に助かりました」

彼女はそう言うと、何度も何度も頭を下げて帰っていくのだった。

「ワンちゃん、もう二度と迷子になっちゃあダメだよ。雨が降るお外は、とっても冷たいんだからね……」

帰っていく女性の背中に向けて、そっとそう呟いた。

自分の唇から零れ落ちたその言葉に、わたしは思わず苦笑を漏らしていた。

その言葉は、かつて祖母がわたしに言って聞かせたものだった……。

思えばわたしは、母さんが大きく開け放してくれた硝子窓を飛び出し、雨の中へと歩き出した。

ふと、遠い記憶が頭の中から零れ落ちる。

そう、幼い頃のわたしは、決して雨の風景が嫌いではなかった。なのに、どうしてわたしは、この雨が嫌いになってしまったのだろう……。

今、わたしの目の前には、違う世界の雨の景色がある。

わたしは、心の窓を大きく開け放した。



刹那、大きな窓の向こう側の雨の中へと、再びわたしは歩き出していた。



つづく

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ