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迷仔  作者: 芳田文之介
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公恵の実家へ (一)

公恵の実家へ



(一)



銀座線の折り返し地点である浅草の地下のホームから地上へと出る。

空を仰ぐと、雨は会社を出たころよりは少し小降りになっていた。

その空に重なるように、十二歳の誕生日に目にした松屋のビルが、今ではすっかりお化粧直しをして、見違えるほどお洒落になった姿で目に映る。

視線を舗道に移すと、行き交う人たちが手にした色とりどりの傘の花が、春雨にしっぽりと濡れた街並みに彩りを添えている。

わたしは、その雑踏に身を紛らせて、雷門の方角へと歩き出す。

久しぶりに目にしたビルの残像が、そうさせるのだろうか。

ふと脳裏に、「いつものまみちゃんへのお土産あるじゃない」と笑顔で言って、「あれ、このデパートで買ってるんだ」とそのビルを指さしていた、遠い日の修一くんの面影が蘇る。

そういえば、彼、今頃どうしているのだろう……?

思わず、唇からこぼれ落ちたその言葉に心がざわめいて、小さなため息が漏れる。

瞳を閉じると、十二歳の誕生日のいとおしい記憶と十八歳の誕生日の切ない記憶とが交差した風景が、モノクロの無声映画のように瞼のスクリーンに映る。

「どう? 高校卒業したら、こっちの大学に通うってのは」

修一くんの誘いに、苦笑いで首を横に小さく振る、少女の中の一人でいた十二歳のわたし。

「東京での生活よろしくお願いします」

修一くんに深々と頭を下げて、返ってきた言葉に、「ええー」と絶句して、頭を真っ白にさせていた、一人の「私」を自覚するようになっていた十八歳のわたし……。

思えば、高校二年の修学旅行で、再び上野の美術館を訪れたことが、わたしの人生の最初の分岐点だったなーーそんなことを思いながら遠い目で滲む街並みを眺めて、あいまいな笑みを口の脇に浮かべる。

「あの年頃って心に余白がいっぱいあって、何でも吸収することができるじゃない。目に映るもの、心で感じるもの、耳に聴こえてくるもの、そんなものをなんでも。多感な時期なんだよね」

わたしの十二歳の誕生日に母は、そんな道義付けをして、わたしを東京へと送り出していた。

あの日、この街に来て得られた経験は、それは漠然でありながらも、確かに母の言葉通りで、わたしの幼い心の余白に吸収されて、輪郭のない感受性を育んでいた。

やがて季節は進み、幼かった心の余白に刻まれていた感受性と新しい世界とが混じり合い、お互いが溶け合っていく。

すると、わたしの心は何かの色に染められて、そのありようを大きく変えていた。

意外にも、あんなに複雑な事情の深みと向き合うことを苦手としていたわたしのまなざしに、ところでその深みには一体何があるのだろうーーそんな好奇の光が宿るようになる。

中学生のころまでは、五感で捉えられた出来事は、面倒な理屈など要らなくて、心にストーンと落ちていたものだった。

それが高校生になって、輪郭のなかった感受性に新しい知識や新鮮な情報が混じり合い、それに縁取りができてくると、今までは当たり前のこととして処理できていた出来事が、頭では理解しようとしても心情では首を捻っている自分がいた。

それは、わたしが好きな絵画にも向けられる。

それまでは特別な理由などは不要で、なんとなく感性だけで「この絵が好きだ」という感情を抱くことができていたのに、「ところで、どうしてわたしは、この絵が好きなの?」という理由付けの疑問符が足し算され、それが不可分となる。

そして、それがきっかけとなり、ある事情にも疑問が芽生え、そこに葛藤が生まれた。

雨音が聞こえていた。

幼い日に、祖母の膝の上で聞いた懐かしい雨音が。

「おまえは、迷子の仔犬になってはいけないよ」

それは、雨の降る日に温もりのある部屋にいて、祖母がわたしに絵本を読んだ後に聞かせる言葉だった。

わたしは居心地のいい安全な場所にいて、硝子窓に四角く切り取られた不確かな向こう側を、ただ無自覚に傍観しているだけの人生でいいのだろうか……?

そこに生まれて初めて、祖母の言葉に首を捻る「私」という一種の現象が現れた。

その思いがけない「私」との出会いが、あることを思わせる。

もしかすると、今までのわたしは祖母の言葉が呪縛となって、その固定されてしまった観念に絡め取られていたのではないのだろうかーーそんなふうに。

わたしは最初から関係付られた網の目の中にいて、祖母の想いを背負って、祖母の言葉に従順でいた。

それが自分の人生だと自己を認識し、そしてそれに従うことが当たり前のことだと信じていた。

そのことがわたしに、ある時期に描いていた、東京の美術専門の大学に進学して、それからパリの大学に留学して、そしてモネやルノワールやシスレーが描いた風景の前に立ち、そこにイーゼルを立てて同じ風景を描いてみたいーーそんな淡い夢を冗談のようにあっさりと諦めさせていた。

あんなにあっさりと諦めてしまったわたしは、ほんとうにわたしの心に忠実でいたのか?

そもそもわたしは、祖母が言う、「真美はこの町にいて、いずれ誰かいいヒトと巡り会い、そのヒトを婿養子に向かい入れて、代々つづく家業のこの本屋を継いでおくれ」ーーという彼女の期待に応える存在でなくてはならないのか……?

生まれて初めてわたしは、自分自身の未来に向き合おうとした。

それが、自分を縛るしがらみに抗おうとする意識を芽生えさせる。

ただ、あの季節の中にいたわたしが、その心の風景をこんな難しい言葉で説明できていたわけではなかった。

それは、あの日の自分がいてくれて、今こうしてこの街を歩くことができているからこそ獲得できたんだーーわたしは、そんな想いに耽りながら、雑踏の中をぼんやりと歩いていた。

その時ーー。

不覚にもわたしは、前から歩いて来た人とすれ違いざまに、強く肩をぶつけてしまっていた。

ぶつかった人に目を向けると、その人はわたしよりも年若い女性で、彼女の手からは何かが、雨に濡れる舗道にガチャンと小さく音を立てて落ちていた。

刹那的にわたしは、「あっ! ごめんなさい」と謝って、慌ててそれを拾おうとして腰を屈める。

可愛いキリンのストラップがついたスマホだった。

「……いえ、わたしがスマホを見ながら歩いていたのが悪いんです」

彼女は、そう申し訳なさそうに言うと、わたしをせいするようにしてそのスマホに手を伸ばし、それを大事そうに拾いあげた。

「そ、そうですか……でもわたしもぼんやり……」

そう言いかけたわたしの言葉を遮るように女性は、「すいませんでした。私、急ぎますので」と早口で言って、落ちたスマホを心配するわたしの気持ちを置き去りにしたまま、足早にこの場から立ち去っていくのだった。



スマホ大丈夫だったかしら? という感情の上に、そうは言っても、歩きスマホをしている彼女も悪かったわけだし、気にすることないよーーそんなもう一人の自分の声が重なり、どこか始末が悪い感情を持て余すわたしでいた。

でも、すぐにそれに上書きされるように別の感情が湧いてきて、わたしの思いを晴らそうとしてくれる。

それは、それにしても、あのキリンのストラップ可愛らしかったな、という感情だった。

それが、再び脳裏に遠い記憶を呼び起こさせる。

ただ、なんとそれがまた修一くんとの思い出だということが、ちょっぴりシャクでもあり、悔しくもあって、苦笑交じりのため息が漏れる。

わたしの頭に過ったのは、十二歳の誕生日の次の日に、上野の動物園のベンチで、「キリンはその環境に順応して、首を伸ばしていったから生き残ったわけ」と教えてくれた修一くんの言葉だった。

あの日、修一くんは、「人の身体が進化していったように、人の心も進化していくんだよ」ーー確かそんなふうなことを口にしていた。

わたしの場合、それが足し算された進化なのか、それとも引き算された心変わりなのかは、あの季節の中ではよくわからずにいたけれど、わたしの中で何かが変わっているーーそんな実感は、確かにあった。

高校生になって、新しい環境に順応してみたい、そう思うようになった、あの日のわたしがいた。

一方で、祖母の期待を裏切って自分の想いを優先させる……果たしてそれでいいの? と問いかけるわたしもいた。

わたしはそれ以来、夜ベッドにもぐっては、その自問自答を繰り返す日々の中にいた。

けれどその問いの答えは、見識の浅いわたしにはとても不可解なもので、それはまるで喉の乾いた人がアスファルトの逃げ水を追ってどこまで前進しても、結局それは口にはできないことが分かっている虚しさに似ていて、それがわたしの日常を苛立たせるのだった。

そんな心の事情を抱えていたわたしに、ある機会が訪れる。

それが高校二年の修学旅行だった。

その旅行の行程表の中に、何人かでグループを作り東京の街を自由に行動してもよい、という一日があった。

当然のようにいろんな意見が出た。

それをわたしは強引にねじ伏せる。

いくつもの不満の顔が、確かにあった。

わたしはそれを、「経験者のわたしを信じて。きっとみんな感動するから」そう言って押し通すのだった。

久しぶりに訪れた上野の杜。

そこに吹く風は、同じように地上に吹く風だというのに、あの春の日に感じたそれとは随分と違う心地がした。

それは、秋の爽やかな空気を含んだ風で、それがわたしを優しく迎えてくれた。

わたしは一人グループから離れ、木漏れ日が陽だまりを作るベンチを見つけて、そこに腰を下ろす。

この街の懐かしい風が、わたしの長い黒髪や白い頬や、そして小さな心に穏やかに戦ぐ。

それが、わたしの中の苛立ちを、不思議なくらいに清々しく洗い流してくれる。

やっぱりここで良かった。

既視感似た言葉が口をつく。

グループに戻りみんなと一緒に、ル・コルビュジェの国立西洋美術館へと、足を運ぶ。

館内に流れる荘厳な空気の匂いーーそれがとても懐かしくて、いとおしくて、わたしを心地よい世界へと誘う。

そしてなによりも、修一くんが暮らす街の同じ空の下で、同じ風に吹かれているわたしは、とても幸せな気分に浸っているーー館内から出たわたしはそう気づかされて、暮れなずむ陽の光に頬を赤く染めていた。

修一くんの暮らすアパートで、修一くんのベッドにもぐり、修一くんの匂いに包まれながら、安らかな眠りについていた十二歳のあの夜。

「こっちの大学に通っては」と修一くんに促されて、こんな大きな街での暮らしはわたしには向かないよ、と首を横に振っていたあの日のオープンカフェのテラスのベンチ。

きっとあの日のわたしは、随分と幼かったーーそう思う。

けれど、幼いわたしが抱いていた淡い感情は、十六歳を迎えたあの秋の日に、それはくっきりとした輪郭を成して、わたしの胸を鈍く締め付けていた。

十六歳のわたしは一人立ち止まり、十二歳の日と同じきらきらと光る目をして、東京の夕暮れの空を見上げていた。

そこには、白くてまん丸いお月さんが浮かんでいた。

思わずわたしは、そのお月さんに向かってそっと呟くのだった。

「わたしは、この街の大学に進学して、この街のお月さんをこうして修一くんと一緒に眺めながら、新しい暮らしを始めてみたいな」、と。



「とりあえず四年、四年でいいから」

母は、祖母にそう言って、わたしの東京行きを納得させようとしていた。

「真美を一人で東京に行かせるなんて……」

祖母はそう言って、恐ろしい何かに怯えるみたいに、肩を窄めて小さく首を何度も横に振っていた。

「修一くんがいるじゃない。彼が、真美の東京での生活を応援してくれるわ」

それを聞いて、「……修一くんねえ」と鼻白んだ表情を浮かべる祖母だった。

遠いあの日の祖母が、修一くんにどんな感情を抱いていたのかは、わたしにはよく分からない。

今思えば、母と組んでわたしを東京へと連れ去ってしまう鬼のような存在だ、と歯ぎしりしていた祖母だったろう。

ただね、おばあちゃん。

今なら、なんとか笑顔を作って言えるけどね。

そんな東京行きを決心したわたしにとっては、その修一くんの存在だけが、この街での心の拠り所であったはずなのにねえ、とそれでもため息交じりで……。

そして、あっという間に季節は巡り高校三年の春、わたしは東京の大学に無事合格する。

旅立ちの朝、東京行きの駅のホームで、満面の笑みで頷く母と、複雑な表情を浮かべる父と、そして哀しい表情を浮かべる祖母に見送られて、わたしは故郷を後にした。

東京の地に足を降ろしたわたしは、修一くんの住まいの近所でアパートを探して、いよいよここで新しい生活が始まるんだという高揚感の中に、少しの不安と後ろめたい罪悪感を滲ませて、星の瞬きのない明るい夜空を見上げていた。

あれは、この街に来てすぐのわたしの十八歳の誕生日の夜だった。

すでに大学を卒業して、この街の大手企業に就職していた修一くんに、「修一くん、随分いい給料貰ってるって言うじゃない。そんなことうちの母が言ってたよ。大学の合格祝いと誕生日祝いの両方を兼ねて、どう? 今夜わたしに何か美味しいものでもご馳走するっていうのは」といたずらな目を作って訊いていた。

「えっ……あっ、うん」

思えば、あの曖昧な返事に、わたしはなにかを気づくべきだった。

けれど、お嬢さん育ちのわたしは、そういう機微には疎かった。

あの夜、浮かれ気分で連れて行ってもらった近所の小料理屋さんでわたしは、「東京での生活よろしくお願いします」と深々と頭を下げて、そこで返ってきた言葉に、「ええー」と思わず絶句して、頭を真っ白にさせていたのだった。

あの日の修一くんは、修一くんのビールが注がれたグラスと、わたしのオレンジジュースが注がれたグラスを合わせた後に、「ごめん、俺、真美ちゃんに謝んなくちゃいけないことがあるんだ」と、渋い表情を作って、こんな残酷な話を聞かせるのだった。

「実は俺ね、去年の秋ごろのことだったんだけど会社の上司からね、メキシコに赴任してみないかって相談を持ちかけられたんだ。驚いたよ、突然のことだったからね。でも、真美ちゃんのこともあるし、他にも大事なこともあったし……それで上司には、少し考えさせてくれって頼んだんだ。それから随分と悩んだ……」

そう言った修一くんは、ビールが注がれたグラスをいっきに飲み干し、ふうーとアルコールの滲んだ息を大きく吐き出した。

わたしは、きっと能面のように白い顔をしていたことだろう。

「もちろん、真美ちゃんのお母さんにも電話して相談したよ。だって、真美ちゃんは、俺を頼って上京してくるんだもんね……」

わたしは、震える手で空いた修一くんのグラスにビールを注ぎながら、「それで、母は、なんて言ったの?」と力のない声で訊いていた。

「最初は、それは困ったわね……って、本当に困ったという感じの声が電話の向こう側でしていたんだ。でも、少し間を置いてね、メキシコに赴任することで、貴方の社内での将来が明るくなるんじゃないの?って尋ねられてね。確かに会社からは、そんなことを云われてるって答えたら、あら、それって絶好のチャンスが到来したってことじゃない。だったら、私にもそれから真美にも、そのチャンスの芽を摘む権利なんてないわよ、って言ってくれたんだけどねえ……」

それを聞いたわたしは、頭にカアーと血が昇るのを感じていた。

「修一くんがいるじゃない。彼が、真美の東京での生活を応援してくれるわ」

そう母が、祖母に言っていたのは、確か前年の春ごろのことだったと思う。

だから、それはそれで仕方がないことだとしても、少なくとも去年の秋以降は、その事実を母は知っていて、それをわたしに隠していたということになる。

もちろん母の言うとおりで、わたしに修一くんの将来を邪魔する権利なんてあるはずがない。

けれど、その事実をわたしに伝えない権利は母にもなくて、むしろ親としての義務で、わたしにそれを伝えるべきではなかったのか……?

母と、そしてなによりも修一くんに対する怒りがふつふつと湧き上がり、「それで?」とわたしの声を尖らせていた。

「それでね……」

と修一くんはそこで言葉を区切って、ビールが注がれたグラスに手を伸ばし口に運んで、それを勢いを借りるようにして一気に煽って、「他にも相談しなくちゃいけない大事なヒトがいてね……そのヒトも、いいんじゃないって言ってくれてね。それで、会社に了解の旨を先日伝えたところなんだ」ーーそう言って、本当に申し訳ないというふうにテーブルに両手をつき頭を下げて、だから、ごめんね、と謝るのだった。



つづく

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