100万1回目の
何か自分の中でテーマを決めると、モリモリ出てきますね。ネタがねぇやと放置していたのが嘘みたいです。
目が覚めると、そこには何も無かった。知覚したのは、熱を帯びた両の目と、とてつもない喪失感。後から後から洪水のように溢れる記憶は、そのいずれも状況を理解する何かにはならず、胸の痛みを押し流す救いにもならなかった。
「目が覚めたかい。いやはや随分時間がかかったね。待たされる身にもなって欲しいもんだ。」
壁も無ければ天井も無く、床があるかさえも怪しい、白しか無い空間に、自分のものではない声が響く。聞こえた声からはどこか包まれるような優しさと、逃げ道を塞がれるような息苦しさが感じられた。
「お前は誰だ。ここは何処だ。何故俺はここに居る。」
「やれやれ質問が多いね。あまり良い傾向とは言えないな。君の100万の猫生経験で得た知識は、そんな疑問も解決できないのかい?最初以外はおおかた予想はついているんじゃないかな?」
こちらの疑問を楽しんでいるかのような答え。そう、猫。俺は猫だ。今までずっと猫だったし、多分今も猫なんだろう。鏡など無くとも、100万回の経験が何よりも自分を確かなものにさせている気がした。
「と言う事は俺は…死んでいるのか。ここは天国なのか?」
「おいおい、ここが天国扱いとは随分傲慢だね。『良い子にしてなきゃ天国へはいけない』って、誰かに言われなかったかい?」
「ガキどもに少なくとも1万回は言われている。それに、誰かに害を成した回数が地獄に堕ちる程だとは思えないな。それよりも、そろそろ姿を見せたらどうだ。」
姿の見えない相手と話すというのは、存外疲れるものだ。話の通じない相手となると、なおさら。
「ああ、そうだね。まあ、それだけ記憶をはっきり辿れるなら充分だろう。」
言いながら、目の前に出て来た姿はどこで見たものだったか。思い出すのにそう時間はかからなかった。
「お前、石になって動かない事が仕事じゃなかったのか?お前みたいな恰好の奴は、どこで見ても石だったぞ。」
石。ただの石。石の像。そんなものに毎日毎日頭を下げていた、大きらいだった痩せっぽっちの飼い主を思い出す。
「僕の声を聞かなくなったのは君たちの方なんだけどね。まあいいさ。」
翼の生えた人間のような何かが続ける。どこか楽しそうな声色なのは、きっと気のせいではないのだろう。
「そうだね。石、石、石。石か…。まあずっと猫だった君にとって、僕はそんなものか。」
「何だ。飼い主だった奴の真似でもして、拝み倒せばいいのか?俺から見れば、あの時の俺は、お前の所為で死んだようなものなんだがな。」
72568回目。あの時の俺は、常に飢えていたから嫌いだ。
「うんうん、素晴らしいね。1回1回をそんなに鮮明に思い出せるのか。これなら劣化の心配も無さそうだ。」
と、5521回目の、大きらいだったニヤニヤ笑いの飼い主のような言葉で続ける。あいつは確か、科学者だったか。結局、最期まで仕方なく俺を飼っているような奴だった。
「それよりも、質問に答えろ。ここが死後の世界だとして、何故俺はここに居る。」
何となく『天国』と言うと、目の前の何かを楽しませる事になりそうで、言い直す。我ながら887815回目の、大きらいだった木槌を振るう飼い主ような問い方だ。あいつ程多くの人間の行く末を決めた人間を、俺は知らない。
「まあこのまま数年程おしゃべりをするのもいいんだけどね。さて、100万回生きて死んだ猫よ。まずはお役目ご苦労様と言っておこうか。」
言った何かは、かつて俺が何度も祈らされた神様らしく、偉そうに俺を労った。
「流石、神様は何でも知っているって訳か。100万の猫生で、お前が役に立った事なんて一度も無いけどな。」
「おいおい酷いな。君って奴は、誰のおかげで100万回も生きられたと思っているんだい?」
大げさな身振りで悲しんで見せる神様。どこか11回目の、大きらいだった大げさな飼い主を思い出す。一応役者だったあいつの方が演技が上手い辺り、才能はあったのかもしれない。
「お役目、なんて一言で俺の100万回を片付ける奴にかける慈悲は無い。早く用件を言え。お役目とは何だ。」
「あはは、慈悲だなんて。それじゃまるで神様じゃあないか。まあ、これから君はそれに近い存在になるんだ。素質は充分だよ。」
どこまでも上位の観察者を気取るその態度は13392回目の、大きらいだった尊大な飼い主を思い出す。そう言えばあいつは、自分で神を名乗っていたか。
「まあ、話を続けるとね。100万回の君の猫生は僕の為にあったって訳さ。だから、お役目。君はね、猫くん。」
一息置いて、神様は続ける。
「今から僕の本に生まれ代わるんだ。」
「本と言ったか。今、本と。本と言えば、あの人間どもが書いたり読んだり破ったりする本か。」
「そう、その本だ。落書きしたり勝手に理解した気になったり貯め込んだりするそれだよ。猫くん。まあ、君が見てきた100万回のどれよりも、価値のある本なのは保障するさ。」
100万回の中で毎回見てきた訳じゃない、と言いかけてやめた。これではただの揚げ足とりだ。2900回目の、大きらいだった馬鹿な飼い主が思い浮かんで余計に腹が立った。
「成程、俺の猫生を全て書き写した本か。俺の100万回は全てお前の為にあったと?」
「そう。君の大嫌いな999999人の飼い主も、君の大好きなたった1匹の白猫も。猫の毛一本残さず全てね。」
まあ正確に言うと、書き写すじゃなくて君自身が本に成るんだけど。と、神様がつけ足す。
「馬鹿馬鹿しい。100万回の全てを捨てて、ただの道具になれと?第一、そんなもの何の役に立つ。」
その殆どが大きらいな飼い主との記憶とは言え、俺にも100万回生きた矜持がある。訳の分からない奴の為にすべてを捧げる気にはとてもならない。
「君にとっては、最後の1回以外は結構どうでもいいんじゃないかな?まあ多少のプライドはあるだろうが、それもあの、一度も生まれかわっていない、まっさらな白猫の前では霞む程のものだろう?」
嫌な予感がする。どろりとした液体にゆっくりと首を絞められるような、とても嫌な予感が。
「おいおい、まさか猫質にされる、みたいな事でも考えているのかな?神様はそんな事しないさ。覚えておくといい。」
「アレに手を出してみろ。俺はお前を許さないぞ。」
何にも映っていないこの顔だが、恐らく100万回のどれよりも怒りで歪んでいるであろう事は分かった。
「おお、とても怖い顔だ。そんな顔してちゃ、せっかく再会できても怖がられてしまうよ?」
「再会だと?」
「ああそうさ。何ならここに呼び出してやろうか?君の為に作ったんだ、気に入って貰えたみたいで嬉しいよ。」
作った?君の為?理解したくない言葉が、ゆっくりと頭に滲み込んで行く。思考の逃げ道を必死に探すも、神様がそれを許さない。
「運命的、なんて言葉を使うんだろうね、この場合。そりゃあそうさ。君が本なら、彼女はその鍵になるべく作られた。生まれ代わった事が無いのはそのためさ。鍵として、君を本にする以外に経験を積ませる必要が無い。」
やめろ。
「君の中には、あらゆる世代の人間が、あらゆる立場に立って人生を歩んだ記録が入っている。」
やめろ。
「神官、音楽家、科学者、娼婦、裁判官、国王、役者、漁師、宗教家、墓守、乞食。色々居ただろう。そりゃあそうさ。君の大きらいだった飼い主たちは、999999人の1人だって同じ立場の人間は居なかった筈だからね。」
やめろ。
「君はその全てを、鮮明に憶えている。成功だよ。全く誰も成し得なかった偉業さ。」
やめろ。
「君の中には、あらゆる人間達の歩みが、入っていると言っていい。神の声を聞かなくなった人間達に、再び信じ、崇め、畏れさせる為には充分な情報がね。」
やめろ。
「でもね。999999人で必要分は集まった。ならば、転生の輪を切ってこっちに呼び戻す必要がある。その為の彼女さ。」
やめろ。
「999999回生まれ代わって、一度も満たされなかった君が、最後の1回で満たされる。美しいじゃないか、全く。味気ない人間図鑑を〆るには、充分すぎる美談だ。」
やめてくれ。
息が苦しい。頭が割れるように痛い。目の前が歪み、霞む。彼女に。
彼女に会いたい。
「作り物の彼女にかい?」
違う。
「どう違うって言うんだ。君の為の特別誂えとは言え、作り物には違いないさ。何ならもうひとつこの場で…。」
ゴトン、と。
猫だったものが、倒れた。
「お、ようやくか。全く、『自己否定させる』だなんて、我ながら悪趣味な製本法だよね。さてと、中身はどうなったかな。」
楽しそうに出来たばかりの本を開いた神だったが、すぐに顔をしかめる。
「うわあ、何だこれ。どのページをめくっても『彼女に会いたい』としか書いてないや。」
これじゃあ使えないね。と、心底つまらなさそうに本を閉じる。
「あーあ、1からやり直しか。全く。100万回待つこっちの立場も考えて欲しいよね。」
と、大して面白くもなさそうに閉じた本に手を置くと、みるみる内に形を変え、やがて猫の形が出来上がる。
「じゃ、100万1回目、行ってらっしゃい。」
書いておいて何ですが後味悪いですね。