3つのいのち
武 頼庵さま主催「万物の神様企画」参加作品です。
春、桜の花びらが雪のように降る夜のことでした。
若くしてこの世を去った男は、薄紅色の世界で「桜の神様」と名乗る老人に出会いました。花びらの舞う音すら聞こえてきそうな静けさの中、男は残してきた妻と幼い娘を思い、声もなく涙を流していました。
神様は、そんな男をしばらく眺めてから、少し肩をすくめるように笑いました。
「泣くのは構わんが、わしの世界が湿っぽくなるのは困るのう」
神様は懐から小さな巾着袋を取り出しながら、涙を流す男に言いました。
「これは『いのちのたま』だ。袋に3つ入っている。1つにつき1時間だけ、お前は望む姿で現世に戻ることができる。ただし、話しかけられるのは一度きりだ。使い道は、お前に任せよう」
男は震える手でそれを受け取り、深く頭を下げました。
その仕草を見て、神様はふと目を細めました。
「……お前さん、妻と桜を見に行く約束をしておったろう。果たせなかったこと、気にしておるのか」
男は驚き、そして小さく頷きました。
「ええ。あの人は、桜を見ると必ず僕の袖をつまんで……『散る前に、ちゃんと見届けようね』って」
「そうか。ならば、いつか果たすがよい」
神様はそう言って、男の背を軽く押しました。
それから十数年の月日が流れました。
娘の結婚式の朝。男は一つめの玉を使いました。式場の隅に立つ、見覚えのない遠縁の親戚のような姿。そこから、花嫁衣裳に身を包んだ娘を見つめました。
「お父さん、見てるかな」
ふと娘が呟いた声が、男の胸にそっと届きました。男は姿を現す代わりに、優しい風となって娘の頬を撫でました。
「幸せにおなり」
娘は驚いたように目を見開き、そして幸せそうに微笑みました。
さらに数年が流れました。
娘に子供が産まれたという知らせを天国で聞いた男は、二つめの玉を手に取りました。産婦人科の廊下で、疲れ果てて眠る妻の隣に、そっと腰を下ろしました。
白髪の混じり始めた妻の髪を、男は一瞬だけ、実体のある手で撫でました。
「よく頑張ったね。ありがとう」
妻は夢の中で、懐かしい夫の匂いを感じた気がして、寝顔のまま涙をこぼしました。
それからまた年月が経ちましたが、神様は不思議に思っていました。
男の手元には、あと一つ玉が残っています。妻が病に伏せり、苦しんでいる時も、男はそれを使おうとしませんでした。
「なぜ使わんのだ? 妻が一番辛い時に、声をかけてやりたくはないのか」
神様の問いに、男はほんの少しだけ困ったような表情を浮かべましたが、それでも穏やかに微笑んで答えました。
「最後の一つは、最初から使う日を決めているんです」
神様は少し驚いたように目を丸くし、そして照れ隠しのように咳払いをしました。
「……まったく。人間というのは、約束にうるさい生き物じゃのう」
やがて、妻が長い旅路を終えようとする夜が来ました。
静かな病室の窓の外には、あの日と同じように桜が静かに舞っています。
それを見ていた男は、静かに立ち上がって最後の一つを掌で転がし、地上へと降りました。
男はかつての若々しい姿のまま、眠る妻の枕元に立ちました。そして、痩せ細った妻の手を、両手で包み込むように握りしめました。
ふいに妻が目を開けました。
霞む視界の中で、ずっと会いたかった人が微笑んでいます。
「……あなた? 迎えに来てくれたの?」
男は優しく頷きました。
「ああ。『君を看取る』という約束を、ちゃんと果たしに来たよ」
妻は不思議そうに、けれど幸せそうに問いました。
「ずっと、待っていてくれたの?」
男は少しおどけたように、彼女の耳元で囁きました。
「だって、あの世は広すぎるんだよ。あっちに行ってから君を探し回るのは、時間の無駄だからね。ここで手を繋いでいれば、迷子にならずに済むだろう?」
「ふふ、相変わらずね……」
妻は満足そうに目を閉じました。
そして男の手の温もりを感じながら、深い、深い眠りへと落ちていきました。
「……おやすみ。そしてお疲れ様」
男は妻の額に、そっとくちびるを寄せました。
一時間が過ぎ、魔法が解ける瞬間が来ました。
病室の窓から、二つの柔らかな光がふわりと飛び出します。それはまるで、夏の夜に舞う蛍のようでした。
二つの光は互いに寄り添い、螺旋を描きながら、もう、どちらかが一人で残されることのないように、どこまでも高い夜空へと昇っていきました。
その様子を見守っていた神様は、少しだけさみしそうに、でも少しだけ嬉しそうにつぶやきました。
「……やれやれ。いつも見に来てくれていた2人だからか、ついお節介してしまったのう」
その姿はやがて消えてなくなり、かわりに白く輝く月明かりの下では、桜の花びらがまるで見送るかのように静かに舞い続けていました。




