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童話と詩作と物語

3つのいのち

作者: 辻堂安古市
掲載日:2026/04/09



武 頼庵さま主催「万物の神様企画」参加作品です。





 



 春、桜の花びらが雪のように降る夜のことでした。


 若くしてこの世を去った男は、薄紅色の世界で「桜の神様」と名乗る老人に出会いました。花びらの舞う音すら聞こえてきそうな静けさの中、男は残してきた妻と幼い娘を思い、声もなく涙を流していました。



 神様は、そんな男をしばらく眺めてから、少し肩をすくめるように笑いました。


「泣くのは構わんが、わしの世界が湿っぽくなるのは困るのう」


 神様は懐から小さな巾着袋を取り出しながら、涙を流す男に言いました。


「これは『いのちのたま』だ。袋に3つ入っている。1つにつき1時間だけ、お前は望む姿で現世に戻ることができる。ただし、話しかけられるのは一度きりだ。使い道は、お前に任せよう」


 男は震える手でそれを受け取り、深く頭を下げました。

 その仕草を見て、神様はふと目を細めました。


「……お前さん、妻と桜を見に行く約束をしておったろう。果たせなかったこと、気にしておるのか」


 男は驚き、そして小さく頷きました。


「ええ。あの人は、桜を見ると必ず僕の袖をつまんで……『散る前に、ちゃんと見届けようね』って」


「そうか。ならば、いつか果たすがよい」


 神様はそう言って、男の背を軽く押しました。








 それから十数年の月日が流れました。


 娘の結婚式の朝。男は一つめの玉を使いました。式場の隅に立つ、見覚えのない遠縁の親戚のような姿。そこから、花嫁衣裳に身を包んだ娘を見つめました。


「お父さん、見てるかな」


 ふと娘が呟いた声が、男の胸にそっと届きました。男は姿を現す代わりに、優しい風となって娘の頬を撫でました。


「幸せにおなり」


 娘は驚いたように目を見開き、そして幸せそうに微笑みました。









 さらに数年が流れました。


 娘に子供が産まれたという知らせを天国で聞いた男は、二つめの玉を手に取りました。産婦人科の廊下で、疲れ果てて眠る妻の隣に、そっと腰を下ろしました。


 白髪の混じり始めた妻の髪を、男は一瞬だけ、実体のある手で撫でました。


「よく頑張ったね。ありがとう」


 妻は夢の中で、懐かしい夫の匂いを感じた気がして、寝顔のまま涙をこぼしました。









 それからまた年月が経ちましたが、神様は不思議に思っていました。


 男の手元には、あと一つ玉が残っています。妻が病に伏せり、苦しんでいる時も、男はそれを使おうとしませんでした。


「なぜ使わんのだ? 妻が一番辛い時に、声をかけてやりたくはないのか」


 神様の問いに、男はほんの少しだけ困ったような表情を浮かべましたが、それでも穏やかに微笑んで答えました。


「最後の一つは、最初から使う日を決めているんです」


 神様は少し驚いたように目を丸くし、そして照れ隠しのように咳払いをしました。


「……まったく。人間というのは、約束にうるさい生き物じゃのう」








 やがて、妻が長い旅路を終えようとする夜が来ました。

 静かな病室の窓の外には、あの日と同じように桜が静かに舞っています。



 それを見ていた男は、静かに立ち上がって最後の一つを掌で転がし、地上へと降りました。


 男はかつての若々しい姿のまま、眠る妻の枕元に立ちました。そして、痩せ細った妻の手を、両手で包み込むように握りしめました。




 ふいに妻が目を開けました。

 霞む視界の中で、ずっと会いたかった人が微笑んでいます。


「……あなた? 迎えに来てくれたの?」


 男は優しく頷きました。


「ああ。『君を看取る』という約束を、ちゃんと果たしに来たよ」


 妻は不思議そうに、けれど幸せそうに問いました。


「ずっと、待っていてくれたの?」


 男は少しおどけたように、彼女の耳元で囁きました。


「だって、あの世は広すぎるんだよ。あっちに行ってから君を探し回るのは、時間の無駄だからね。ここで手を繋いでいれば、迷子にならずに済むだろう?」


「ふふ、相変わらずね……」


 妻は満足そうに目を閉じました。

 そして男の手の温もりを感じながら、深い、深い眠りへと落ちていきました。


「……おやすみ。そしてお疲れ様」


 男は妻の額に、そっとくちびるを寄せました。





 一時間が過ぎ、魔法が解ける瞬間が来ました。

 病室の窓から、二つの柔らかな光がふわりと飛び出します。それはまるで、夏の夜に舞う蛍のようでした。


 二つの光は互いに寄り添い、螺旋を描きながら、もう、どちらかが一人で残されることのないように、どこまでも高い夜空へと昇っていきました。






 その様子を見守っていた神様は、少しだけさみしそうに、でも少しだけ嬉しそうにつぶやきました。


「……やれやれ。いつも見に来てくれていた2人だからか、ついお節介してしまったのう」




 その姿はやがて消えてなくなり、かわりに白く輝く月明かりの下では、桜の花びらがまるで見送るかのように静かに舞い続けていました。

 


 




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― 新着の感想 ―
神様から与えられた、三つの「いのちのたま」。三つめをどうするのかな、と思いながら読ませていただきました。その使い途は、はじめから決めていたのですね。 桜の季節に吹く、優しい風。花びらが螺旋を描くよう…
とても素敵なお話でした。 最後の一つを何に使うのかドキドキしましたが、大切な人やペットが迎えに来てくれるのは飴があったからなんですね。 私の時も大切な誰かが迎えにきてくれたら、嬉しいです。 読ませてい…
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