泥中の口裂け女
「やーい、口裂け女!」
転校生の男子が、こちらを指さして笑った。
私は爛れた唇を掻きむしりながら、彼のこれからを思い黙って俯いた。常に掻き崩しているせいで真っ赤に腫れ上がった唇。その端はいつもぱっくり裂けて血が滲んでいる。誰が最初に呼び始めたのかは知らないが、口裂け女というあだ名に私ほどふさわしい人はいないだろう。
「おい、聞こえてんのかよ!」
その子は笑いながら私の机を軽く蹴り、声を張り上げた。私も、周りも、誰も口を開かなかった。最近東京から引っ越してきた彼は人をいじって笑いを取るのがうまく、あっという間にクラスの中心になった人気者だ。だがいつもだったら一緒になって囃し立てる取り巻きたちが、今日はなぜだか黙りこくっている。彼は不満げに当たりを見回してようやく、クラスに漂う張り詰めた空気に気づいた。焦ってヘラヘラと周りに笑顔を向けるが、もう彼と目を合わせる人は誰一人いなかった。きっとこの先、彼の学校生活は暗いものになるだろう。
転校生の彼は知らなかったが、私のおじいちゃんは県知事だ。おじいちゃんのお父さんも、そのまたお父さんもそうだった。私の家、部納家はいわゆる地元の名士というやつで、この小学校に通うほとんどの生徒の親が、うちの一族が経営する会社で働いている。だが本家の一人娘である私、部納小春はこの通り、何とも悲しい学校生活を送っていた。
私の機嫌を損ねたり、怪我をさせたりするのを怖がるあまり、誰も友達になってくれなかった。それなら透明人間のように扱ってくれればいいのに、なぜか陰口だけはしっかり言われる。だが面と向かって馬鹿にするのは絶対に禁止で、その暗黙の了解を破った生徒は全員から存在を無視される。そんなこと私は頼んでも、ましてや望んでもいないのに、皆が勝手にそうするのだ。私がいるせいでクラスの雰囲気が変になってしまうのがいつも本当に嫌だった。
そして何より悲しいのが、これは全部ママの自己満足のせい、ということ。「私は庶民を差別しない優しい人間です」というアピールのためだけに、私を地元の公立小に入学させた。そのくせ自分が仲良くするのは、街中にある塾で知り合った私立小のお母さんたち……つまり、家が医者か弁護士の子たちだけ。ママが内心周りを見下してるのなんか皆とっくにわかっていて、それに気づいていないのは当の本人だけだった。
「謝りなよ!」
気まずい沈黙を打ち破るように、高い声が響いた。
「小春ちゃんは今ちょっと肌の調子が悪いだけなんだよ! それを馬鹿にするなんて、最低!」
「紅麗亜、もういいから」
男子に向かって行こうとする紅麗亜を慌てて引き留める。彼女はお人形のような可愛い顔を顰め、男子を思いっきり睨みつけた。
「あんなの気にしなくていいからね。次また何か言って来たら、紅麗亜が叩いてやる!」
小さな握りこぶしを作り、紅麗亜は鼻息を荒くしながら席に戻った。彼女は学校で唯一、私に普通に接してくれる子だった。性格もいいし、顔もとっても可愛い。だが家がかなり貧乏らしくて、いつも薄汚れた服を着ていた。習字道具も裁縫道具も持っていなくて、授業の度に私が貸している。彼女のことが好きかといわれれば、正直そうでもない。いい子過ぎてちょっとだるい時があるし、正直何だか臭いし。だが彼女以外は誰も友達になってくれないから、しょうがなく一緒にいる。
「帰りの会始めるぞー。はい皆席に戻って。プリント回すぞ」
教室に担任が入ってきた。自分に注目が集まったこの空気からやっと解放されて安心したのもつかの間、配られたプリントを見た瞬間、顔がかっと熱くなった。
『保護者の皆様へお知らせ:部納さんが猫アレルギーで大変お困りです。猫を飼っているご家庭は、担任まで必ずお申し出ください』
猫アレルギー。私の口が裂け、爛れている原因。以前から軽い症状はあったが、今年このクラスになってから急激に症状が悪化した。きっとお掃除をちゃんとしてない家のせいね、一度注意しないと、とママが息巻いていたが、まさか学級だよりに書かれるとは。
恥ずかしくて手が震えて、ぎゅっと握りしめたプリントに汗が滲む。人のペットをどうこうする権利なんか、誰にも無いのに。
大人なのに、ママの言いなりになっている先生のことが情けなくて、なんだかかわいそうだった。でも先生だけじゃなくて、この町の人は皆、ママに逆らえないんだと思うと、胸がチクチクする。
きっとママはこの後、猫を飼っている家一軒一軒に電話をかけ、お願いの皮を被った命令を下すのだろう。私のせいで皆にどれだけ迷惑がかかるか考えるだけで、申し訳なさで胃がひっくり返りそうだった。
今回こそは、帰ったらママに文句を言う。やめてって言うんだ。絶対。
そう心を決めて帰ったものの、ドアを開けた瞬間にママの甲高い声が聞こえてきた。
「猫ちゃんをおばあちゃまの家に? それは素敵だわ! ……あら、小春さんが帰ったみたい。失礼するわね」
ママは電話を切ると、にっこりと笑った。
「おかえりなさい。ねえ、山田さんのお家、猫を遠くのおばあちゃん家に預けてくださるんだって」
ママの機嫌を損ねないように、曖昧に笑う。口元の傷がぱっくり開いたのがわかった。
山田さん家の美樹ちゃんがその猫を飼うためにどれだけ頑張ったか、私は知っていた。ピアノのコンクールで1番を取るのが条件なんだ、って、放課後毎日音楽室で練習していた。でもそんな美樹ちゃんの宝物を、ママは一瞬で奪った。
「ごめんね、ママ。私のために」
お願い、辞めて、と言おうとしたが、口からは全く違う言葉が出てくる。ママはその言葉を聞いて、満足そうに頷いた。
だが数日経っても、症状は一向に良くならなかった。私の口は相変わらず腫れていて、化膿しかけた傷口は嫌な臭いを発していた。電話口でのママの口調は、日に日にきつくなっていく。そして今日の電話を終えた後、宿題をしながら口を掻きむしっている私を見て、ママは深いため息をついた。
「掻いちゃダメ。我慢しないと」
「ごめんなさい」
「ああ、可哀想な小春ちゃん。そんなに怖い口だと、さぞかし皆に気持ち悪がられるでしょう? 恥ずかしい思いをさせてごめんなさいね。ママは小春ちゃんのためにこんなに頑張ってるのに、いったい誰が言うこと聞いてくれないのかしら」
本当は自分のこの口よりも、ママが皆を巻き込んで騒いでいる方がよっぽど恥ずかしかったが、そんなことはそれこそ口が裂けても言えなくて、黙って俯く。返事の代わりに唇にできたかさぶたを剥がすと、浮いた皮膚がつるつると剥がれ、最後に少し、軽く痛む。じくじくした痛みと冷たさを感じて、血が滲んだことがわかった。するとママの視線が一瞬、まるで汚いものでも見るような目つきに変わった。だがそれはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの張り付けたような笑顔に戻ったが、その汚いものを見るような目が、いつまでも心にこびりついて離れなかった。
「実はね、うちに猫がいるんだ。黙ってて本当にごめんなさい」
それから更に数週間が経ち、ママが電話攻撃をようやく諦めた頃……紅麗亜が深刻そうに言ってきた。彼女が薄汚いのはいつものことだから全く気づかなかったが、目を凝らすと確かに、シミだらけの服のあちこちに白く長い毛がたくさん付いている。
「一度餌をやったら、いつもうちに来るようになっちゃって。飼い猫じゃないから黙ってて良いって母さんは言うんだけど、その口、猫のせいなんだよね? 本当に、ごめん。小春ちゃんに苦しい思いをさせて、紅麗亜は、紅麗亜は……」
紅麗亜は今にも泣きそうな顔をして、地面につきそうなほど深く頭を下げた。全然いいよ、教えてくれてありがとう。そう言いたかったのに、綺麗な顔を歪めて大袈裟に謝る彼女を見ていると何故だか、自分でもびっくりするくらいの怒りが湧いてきて、彼女のことを思い切り殴りたくなった。この恥知らず。非常識。ママに言いつけて、町から追い出してやる。拳を握り締めた瞬間、はっと気づいた。
今のは、いかにもママが心の中で思ってそうなことだった。周りを見下しているママのことが嫌だったはずなのに、いつの間にか自分も同じようになってるなんて! 怒りと恥ずかしさがごちゃごちゃになり、視界が段々ぼやけてきた。
「ごめん、ごめんね! 母さんにまた話してみるから」
零れ落ちた涙を勘違いした紅麗亜は焦り、汚い服で涙を拭いてきた。袖に付いた固いご飯粒が頬に突き刺さる。猫のことがママに知れたらきっと激怒して、この子の家族を傷つけるだろう。
私はママみたいになりたくない。だから、あの人が絶対しないことをやらなきゃ。例えば、意地悪せずに話し合いで解決するとか。
「あのね、紅麗亜のママに、私から話してみてもいい?」
紅麗亜は目を丸くしたあと、頷いた。つま先で地面をひっかき、ぐるぐると模様を作っている。きっと、家を見せるのが恥ずかしいんだろうな。服がこんなに薄汚れてるんだから、家の様子も想像がつく。だけど、ここで引くわけにはいかない。
「実はね、やたし、友達の家に遊びに行ったことがなくて……お母さんと話したいっていうのは、ついでなの。……その、ね、いい?」
友達の家、という言葉に反応した紅麗亜は、困ったような表情を浮かべつつも、やっと頷いた。
よし。私は、いい人間になっている。
校門の前で待機している送迎さんに一旦帰ってもらい、紅麗亜について家まで向かう。誰かと一緒に歩いて帰るなんて、入学してからの4年間で初めてのことだった。
「見て、この家! 壁にゴーヤが張り付いてるんだよ、すごいでしょ。あっちの家にはコロっていう犬がいて、呼ぶと顔を出してくれるんだ!」
紅麗亜は歩きながら色々なことを教えてくれた。面白い貼り紙。綺麗な花。いい匂いのパン屋さん。そのどれも、わざわざ気に留める必要もないようなつまらないもの。泣いてしまった私を励まそうと気を遣ってくれているのはわかっているが、だんだんさっきの苛立ちが戻ってきた。
この子はなんで、死ぬほどくだらない話を他人に聞かせて平気なんだろう。思ったことをそのまま口に出すなんて、恥ずかしいとか思わないのかな。
作り笑いで頬がだんだん痛くなってきた頃に、景色がだんだん変わってきて、茶色や灰色が増えてきた。紅麗亜はひび割れたアスファルトの細い道をずんずん進む。そしてようやく足を止めたのは、物置のような汚い建物がごみごみと並んでいる場所だった。足元は何の整備もされていない汚い道で、一歩進むたびに泥と苔が混じった地面がべちゃべちゃと嫌な音を立てた。白いスニーカーは、もうすっかり茶色くなっている。これを見たママが何というか、今は考えないようにした。ぼろぼろの壁には蔦が這っていて、どこもかしこも錆びている。
「お家まであとどれくらい?」
「もうすぐそこ! ほら、あそこだよ」
紅麗亜が指差したのは、ブルーシートが掛かっている崩れかけの汚い小屋だった。
近づくにつれ、公園のトイレのような嫌な臭いが強くなってきた。この臭いを嗅ぐだけで病気になってしまいそうで、なるべく息を吸わないように呼吸を細くする。口元にかゆみを感じたが、ここで傷口に触りたくなくて、指に爪を立てて耐える。
皆が陰で私のことを、苦労知らずのお嬢様と言っているのはわかっていた。でもママはあんなだし、学校には居場所がないし、私だって苦労してるんだ、と思い、そう呼ばれるのがたまらなく嫌だった。
しかし、今目の前にあるこれは。臭くて、ぼろくて、学校にあるにわとり小屋の方が立派な家。こんな家で暮らしている人がいるなんて信じられなかった。紅麗亜に比べたら、私はなんて恵まれているのだろう。
心の中は後悔でいっぱいで、もう走って家に帰りたくなった。
「にゃー」
ブルーシートに目をやると、毛の長い白猫が日向ぼっこをしていた。とたんに口の痒みが増してくる。
「ユキ、ちょっとあっちに行っててね」
薄汚い猫は紅麗亜にお尻をつつかれると身体を起こし、太々しい態度でのしのしとどこかに歩いていった。
「母さん、友達が来てくれたよ」
紅麗亜はドアを開け、声を張り上げた。ドアのガラス部分はめちゃくちゃに割れており、段ボールとガムテープで塞がれていた。
家の中から、外とはまた違った嫌な臭いがむっと押し寄せてきた。春先に時々感じる、青臭いような鼻をつく臭い。
「なに、あんた友達いたんだ」
気だるげな声が奥から聞こえた。
「どーぞぉ、汚いとこだけど」
奥から出てきたのは、ママよりかなり若く見える女の人だった。髪の毛はばさばさの金髪で、根元の方だけ黒くなっている。紅麗亜のママが着ているのはよれよれの汚いTシャツ1枚だけで、そこから覗く手足には天使やハートの刺青がたくさん入っていた。その隙間をあざや虫刺されが埋めていて、ママが見たら絶対顔を顰めるタイプの人。なのに紅麗亜に似て整った顔立ちのせいか、不思議とそこまで汚い感じはしなかった。足を床に叩きつけるみたいにべたべたと歩いて部屋に戻る彼女の後を、急いで靴を揃えて追いかける。狭い通路の脇にあるお風呂とトイレはどちらもドアが半開きで、カビで真っ黒になっているのが見えた。床に落ちている小さいゴミが足の裏に突き刺さる。ダニでもいるのか、口だけじゃなくてもう全身が痒かった。
「ちょっとどいて。お客さん来た」
この家に部屋は一つしかないようで、キッチンとちゃぶ台と、ピンクのヒョウ柄の布団が一緒に置いてある部屋に通された。ちゃぶ台に肘をついて煙草を吸っていた男の人は私を見て、ニヤリと笑って火を消した。目尻に皺がある、たぶんパパと同じくらいの歳の人。つやつやした黒髪をオールバックにして、裸の上に白いシャツを羽織っていた。下に履いていたのは灰色の下着だけで、なんだか見てはいけないものを見た気がして慌てて目を逸らす。韓国ドラマに出てくる俳優さんのような、不思議な雰囲気のあるおじさんだった。何となく、きっとこの人は紅麗亜のお父さんではないんだろうな、とわかった。
「紅麗亜の友達? お嬢さん、俺のことは気にしないでね」
おじさんはそう言って、こちらに背中を向けて横になった。広い背中にシャツが張り付いて、緑色の、何か大きな刺青が透けて見えた。
その瞬間、私の頭が何かに殴られたようにぐらりと揺れた。顔がかっと熱くなる。だがこの熱さは、いつもの恥ずかしい時とは全く違う感覚だった。顔だけじゃなくて、身体全部が熱かった。お腹の下で炭酸が爆発したような感じがして、どきどきと跳ねる心臓が止まってくれない。私は立ちすくんで動けなくなった。
「おーい、どうした?」
紅麗亜のママの、間の抜けた声が私を現実に引き戻した。ぼうっとしてちゃだめだ、ちゃんとお願いしないと。口を掻いて心を落ち着け、勇気を出して切り出す。声が震えているのが自分でも分かった。
「いきなりお邪魔してすみません。私は部納小春と申します。本日はちょっとお話がありまして」
「待って。あんたガキのくせに大人みたいな喋り方するじゃん、ウケる」
紅麗亜のママが、手を叩きながら高い声で笑った。大きく開いた口の奥で、銀歯がきらりと光る。女の人がそんな下品に笑うのを見たのは初めてだった。
おじさんが灰皿に投げ入れた煙草をつまみあげて火をつけながら、紅麗亜のママが楽しそうに言った。
「小春ちゃんね、了解。あたしは咲紅でーす。咲紅ちゃんって呼んでねぇ」
その甲高い笑い声がなぜだか心地よくて、緊張がふっと緩む。
「部納さんとこのお姫様か」
刺青のおじさんが呟いた。
「なに、あんた知ってんの?」
「この町……いや、県で一番偉い金持ち一家だよ。世が世ならマジにお姫様だった、そういう高貴なお方」
「ガチで? ヤバいじゃん。そんなお姫様が、こんな汚いとこに何の用?」
おじさんが私のことを知っている。それだけで背筋がぞわぞわするような、痺れるような変な感じがた。手が思わず口元に伸びるが、おじさんの前で掻きむしるのは恥ずかしくて指をかたく組む。何も言わずにもじもじしている私を見て、紅麗亜が口を開いた。
「小春ちゃんの口、腫れてるでしょ。うちが世話してる猫ちゃんのせいでこうなってるんだって。やっぱり先生に言おうよ」
「あのさあ」
咲紅さんは片方の眉毛だけ上げ、ため息をついた。
「先生に言って、どうなるかわかってんの? あれなんか野良猫だしさ、この子のママが保健所に通報して、殺されちゃうんだよ? あたしは猫がどうなろうが、どうでもいいけどさー」
確かに彼女の言う通り、ママなら確実に通報するだろう。人前では保護団体の募金にお金を入れていても、家に帰った途端平気で保健所に電話をかけられる、そんな人だ。私は、ママと似ていない私は、絶対そんなことはしない。
「だから!」
急に大きな声を出したから、声が裏返ってしまった。
「だから、ママに知られないうちに何とかしたいんです。せめて学校に行く前に、紅麗亜ちゃんの服に付いた毛を取って欲しくて」
「やだよ、めんどくさい」
咲紅さんは鼻で笑うと、私を横目で見た。
「なんであたしらがそこまでしなきゃいけないわけ、何様のつもり? あー、なんか金持ちなんだっけ」
その通りすぎて、何も言い返せない。お願いしても聞いてもらえない時は、いったいどうすればいいんだろう。
「私の友達にそんな言い方しないで!」
隣で話を聞いていた紅麗亜が、突然爆発するように怒鳴った。
「紅麗亜のこと汚いとか臭いとか言わないの、学校で小春ちゃんだけなんだよ! お金持ちなのに全然威張ってなくて、本当に優しい子なんだから!」
「うるっさいなあ、ちょっとからかっただけじゃん。あんたってすぐマジになって、超だるいんだけど」
咲紅さんがめんどくさそうに呟いた。
「うちの母さんがほんとごめん。紅麗亜が汚いせいで、痒くさせちゃって、ごめん。これからは絶対絶対気を付ける、指切りげんまんで約束」
紅麗亜は目に涙を溜めながら、真剣な顔で小指を差し出した。その必死な顔を見ていると、なんだか心が冷めてくる。自分の指を絡めつつも、いちいち大げさだにしてばかみたい、と他人事のように思った。咲紅さんも同じように感じたのか、私たちの様子を見て皮肉っぽく鼻で笑った。
「アレルギーねぇ……小春ちゃんさ、汚いもんに免疫無さすぎるんじゃない? うちらなんかここで生活してるけど、全然平気だもん。そうだ、良いこと思いついた」
咲紅さんがにやりと笑った。
「せっかくうちの子と友達なんだから、これからも遊びにおいでよ。そんで、汚いのに慣れればいいじゃん? ついでにさ、家にあるたっかいお菓子とか酒とか持ってきてくれると嬉しいなあ、なーんて」
また遊びにおいで。そんなことを言われたのは、これが初めてだった。本音を言えば、こんな不潔で臭いところには二度と来たくなかった。昔旅行先の牧場で見た豚小屋の方がまだ清潔に思えるようなところ。でも、まだここにいていいんだ、と思えたことが嬉しくて、嫌悪感が一気に吹き飛んでいく。
「さ、ぼーっと突っ立ってないで、座りなよ。青木、お菓子とって」
青木と呼ばれたおじさんは半笑いを浮かべたまま、流しの下から駄菓子を取り出した。青木、青木。彼の名前を口の中でころころと転がしながら、変色した畳の上に正座する。初めて見る毒々しい色のゼリーを恐る恐る口に含むと、人工的なイチゴの香りと安い砂糖の甘みが脳を突き抜け、舌が蕩けそうになる。
「こんな安い菓子、お嬢様は食べないと思うけどさ……あれ、もしかして結構好きな感じ?」
同じゼリーを口に放り込みながら、咲紅さんが目を細める。
「こんなおいしいお菓子、初めて食べました」
「マジで? あたしもこれ、大好き。いくらでもあるから好きなだけ食べなよ。うちの紅麗亜はこういうの嫌いでさ」
「普段いいもんばっか食べてるから、こういうもんが新鮮なんだろ」
青木さんが笑うと、目の端に皺が寄った。そうすると垂れ目がもっと優しい感じに見えて、何だか急に恥ずかしくなり食べる手を止めて俯く。だが彼のことがどうしても気になって、横目で見るのをやめられない。私の視線に気づいた咲紅さんが肩をすくめ、片方の眉毛を上げて微笑んだ。からかわれると思って身構えたが、彼女は何も言わなかった。咲紅さんはずっと私に話しかけて、紅麗亜のことはいないように扱っていた。
紅麗亜の家を出るころには、もうすっかり夕方になっていた。あんな汚い家に遊びに行ったことがバレないよう、念のため学校まで戻ってから運転手さんを呼び、自宅へ向かう。ふかふかの座席にもたれてぼうっとしていると、自然と笑みが浮かんでくる。最初は怖かったけど、咲紅さんはすごく面白い人だった。うちではママがあんな冗談を言って笑うなんて、ありえない。窓を開け、外の景色を眺める。何の変哲もない、つまらない眺め。紅麗亜がこんなものにも面白さを見出せるのは、あの咲紅さんに育てられたからかもしれないと思うと少しだけ羨ましかった。
私の家は、町で一番高い丘のてっぺんに建っている。周りをぐるりと塀に囲まれた巨大な家は、丘の下から見上げるとちょうど太陽に覆い隠さっていて、夕焼けを独占しているみたいだ。家に到着して車を降りると、風に乗った薔薇の香りが私を包んだ。
門を開けると、その先には大きな英国風の庭が広がっている。庭師さんの手で綺麗に整えられたこの庭は不潔さや悪臭とは無縁で、紅麗亜の家が十軒は建ちそうなくらい広かった。一部屋しかない家でいったいどうやって暮らしているのだろう、と考えながら石畳を歩いていると、玄関の前でママが待ち構えていた。
「小春ちゃん、やっと帰ってきた! どこに行ってたの? ママもう心配しちゃって。署長さんにお願いして探してもらってたのよ。……まあ、何その靴! いやだ、靴下も汚くて……」
初めて食べたイチゴゼリー。咲紅さんの笑い声。青木さんの背中。頭の中で、いろいろなことがぐるぐる回る。今は、ママの声を聞きたくない。
「学校の用事があったの。ごめんなさい」
それだけ答えて、自分の部屋に駆け込んだ。こんなに堂々と嘘をついたのは、産まれて初めてだった。
その晩、変な夢を見た。青木さんの背中を這っている龍が、私の身体の上にずっしりと乗っている夢。重みで全く身動きが取れなくて、これが金縛りというやつかと思ったけど、不思議と怖くはなかった。宝石みたいにぴかぴか輝く鱗を持った龍が、身体にぎゅっと巻きついてくる。私はなぜか裸になっていて、鱗が肌に食い込む痛みや、龍の心臓がとくとくと動くリズムがはっきりとわかった。龍の姿はいつの間にか青木さんに変わっていた。優しい垂れた目や、高い鷲鼻が間近に見える。彼が私を抱きしめて、大きな手で頭を撫でてくれたところで目が覚めた。身体が熱くてお腹の下がざわざわする、あの感覚がまた全身を支配していた。何度も寝返りを打ったり、身体を丸めたりしてみたが、熱は全く冷えずにどうしても寝付けなかった。そうしてもぞもぞと動いているうち、私の指はやがて導かれるように下腹部を伝い、下着の中に滑り込んだ。初めてだったが身体は自然と答えを知っていて、あとは身を委ねるだけだった。
それから、私はよく紅麗亜の家に遊びに行くようになった。
課外活動だとママに嘘をつき、月に2回は家を訪ねる。紅麗亜の家に行く用の靴と靴下を用意し、ママにバレないように事前に履き替え、アリバイも完璧に用意する。そして、家からお土産のお酒や化粧品をくすねることも忘れなかった。
家はいつ行っても汚くて、そのせいかママの必死の努力も虚しく、口の周りは裂けたままだった。だが、咲紅さんはいつも家にいて歓迎してくれたし、ここでは禁止されているお菓子やテレビを存分に楽しめた。そしてなにより、咲紅さんが教えてくれること……汚い言葉や、大人がやる秘密のことを聞くのは何よりも楽しかった。咲紅さんが下品なことを言う度に紅麗亜は嫌な顔をして止めたが、私は全然平気だった。それになにより、咲紅さんは私の話もちゃんと聞いてくれた。うちのママはいつも話を最後まで聞かず、話題だけ盗んで自分の話に持っていく。でも咲紅さんはあんたはすごいねとか、クラスの奴らはクソだとか、いつも私の味方になって、言ってほしい言葉を全部言ってくれた。
青木さんは毎回いる時もあれば、ずっと姿が見えない時もあった。運良く彼と出くわせた時は、宿題するふりをして、その背中とか足の裏とか、ごつごつした手をじっくり観察した。そうして彼の身体や声をしっかり脳に刻み付けた。彼を見た時に広がるお腹の感覚はますます強くなっていき、その頃にはもう、自分が何をしているのか分かっていながらあれを繰り返した。
何度も通ううち、私はこの家のことがすっかり好きになっていて、ここに産まれたかったとさえ思うようになっていた。
「紅麗亜ちゃんのママってすごく面白いよね。羨ましいな」
体育の時間、私たちは2人1組で組んでストレッチをしていた。紅麗亜はいつもの通りくだらないことをひたすら捲し立て、気まずい沈黙を埋めるためだけのその気遣いが、今日はいつにも増して耳障りだった。話を遮ることができれば何でもよくて、口をついて出てきたのは咲紅さんのことだった。
言った後に恥ずかしくなり、笑って誤魔化しながら紅麗亜を横目で見る。だが自分の母親が褒められたというのに、彼女は複雑そうな表情を浮かべて俯いた。
「羨ましい、か」
私の背中を押す手の力が、少しだけ強くなる。
「あの人が優しいのは、小春ちゃんにだけだよ。私のことは……嫌ってる」
胸がどきりとした。
そんなことない。否定の言葉が喉まで出かかったが、どうしても言えなかった。薄々それは感じていたが、まさか紅麗亜も気づいていたとは。
咲紅さんは明らかに、自分の娘より私と話している方が楽しそうだった。それどころか、小春ちゃんが娘だったら良かったのに、なんてことを紅麗亜の前で口に出して言うことまであった。
「私ね、母さんと一緒のところが何にもないの。似てるのは顔だけで、考え方も、好きなものも全然違う。母さんを笑わせるためにどれだけ頑張っても、なんでかいつも怒らせちゃうし」
紅麗亜の力が緩む。細く息を吸い、言葉を続ける。
「小春ちゃんは母さんが喜ぶ答えを全部当てていくんだもん。すごいよ」
彼女が絞り出した言葉。それは普段、私が紅麗亜に思っていることと全く同じだった。可愛くて、健康で、純粋。そして何より、上品。安いお菓子は食べないし、下品な話題で笑わない。あんな汚いところに住んでいるのにすべすべで滑らかな肌。彼女はまさに、ママが理想とする子どもそのものだった。紅麗亜がうちの子だったら、ママも娘を恥ずかしく思うことなんかなかったのにと、彼女を見るたびに心がざわついた。
でも私には、それを紅麗亜に伝えてあげる優しさはなかった。
「絶対、誰にも言わないでね」
黙ったままの私を見て、紅麗亜が体操服のズボンを少しずり下げ太ももを見せた。そこには色が薄くて円い部分がいくつかあり、肌の中でそこだけぴかぴか光っていて、まるで夢で見た龍の鱗のようだった。
「綺麗」
思わず漏れ出た言葉を聞いて、紅麗亜は悲しそうに笑った。
「母さんのタバコの跡」
根性焼き。紛れもなく虐待だし、許されない行為だ。そう頭では理解していたが、その円い傷はなぜだかとても魅力的で、彼女が間違いなく咲紅さんの子どもであるという勲章のように思えて、胸にちくりと痛みが走る。食い入るように傷跡を見つめる私を見て、紅麗亜はそれ以上もう何も言わなかった。
傷跡のことを教えてくれたのは、もしかしたら彼女なりの警告だったのかもしれない。私は転がり落ちるように、咲紅さんの色に染まり始めていた。
ある日、紅麗亜の家でカップ焼きそばを食べていた時のことだった。今日は朝からお腹の辺りが何となくずんと重くて、そのまま家に帰る気がせず、寄り道してダラダラしていた。
ジャンクな濃い味の麺にさらにマヨネーズをかけて一気にかき込んでいるとき、片膝を立てて座っている股の間に冷たいものを感じた。姿勢を変えても、下着が張り付くような違和感が消えない。我慢できなくなってトイレに駆け込み、和式トイレにまたがってパンツを下ろす。そこには、赤黒いシミが付いていた。
生理が来た。
汚れた白いパンツを、呆然と見つめる。保健体育の授業で先に勉強していたから、血が出てきたこと自体はそこまで怖くなかった。でもあれがついに自分にも来てしまったと思うと、なんだかすごく憂鬱になってきた。もう自分は子どもじゃないんだと突き付けられた気がして、どうしようもなく死にたくなる。力が抜けて、ひび割れたタイルに手を着く。まだ汲み上げ式のトイレはどうしようもなく臭くて、自分が汚い大人になった気がして、泣けてきた。こんな日に青木さんがいなかったのは、せめてもの救いだった。
「何、お腹でも痛いの」
沈んだ顔でトイレから出てきた私を見て、咲紅さんが尋ねた。生理が来た、と口に出して言うのがどうしても嫌で、不愉快に重いお腹をさすりながら黙って俯いた。
「黙ってちゃわかんないんだけど……あ」
咲紅さんはにやりと意味ありげに笑うと、部屋の隅に重なって置かれた服の下をごそごそとかき回し、そこから小さな包みを1つ私に投げた。
「地獄へようこそ。それ、使って」
地獄。生理が来たのは嫌だけど、さすがにそこまで言うことは無いだろう。思わず吹き出してしまい、沈んだ心がふっと軽くなった。トイレに行き、初めてのナプキンを開ける。明らかに安物のそれはゴワゴワしていて、変な感じがした。
咲紅さんはそのあと、私の焼きそばにマヨネーズで泣き顔を書いてくれた。生理が来たならお祝いでしょ、地獄なんか言わないで、と横で反論する紅麗亜を無視して、咲紅さんは私の頭を撫でる。
「女になっちゃって、可哀想な小春ちゃん。これから人生はやな事ばっかだよ。女の人生なんかクソなんだから」
そう言って咲紅さんは煙草に火をつけた。眉を顰めたその姿がなんだかものすごくかっこよくて、これが大人の女なら、成長するのもそう悪くはないなと思えた。少しだけ元気が湧いてきて、カップ焼きそばを一気にかき込んだ。
私は女。大人の女。送迎の車に乗り込み、運転手の後頭部をじっと見つめる。朝は子どもだったのに、今は女になっている。それをこの人は知らないのだ。何だか面白くて、自然と笑みが込み上げる。だが楽しい気持ちは、家が近づくにつれどんどん萎んでいった。
生理が来たことを、ママに隠すわけにはいかない。きっと大袈裟に祝うだろうし、あれこれ聞いてくるだろう。だからそうなったらすぐ、お腹が痛いって言って部屋に駆け込もう。そうして朝まで眠ろう。大丈夫、私は大人の女。だから、ママのこともやり過ごせる。
「生理が来たって本当? おめでとう!」
帰宅1番に生理になったことを告げた。その次の動きまでしっかり考えていた私の自信が、ママの大袈裟な声に押されてぐらつく。
「この日のために、ママがちゃんと全部用意してたからね。まず生理の時は、ナプキンっていうものを付けるんだけどね……」
「大丈夫。もう付けてるから」
ママの顔色がさっと変わった。いつものわざとらしい笑顔が消えて、口がへの字になっている。これはまずい。かなりまずい。もつれそうになる舌を何とか動かして、ママの機嫌を損ねないような嘘を必死にでっちあげる。
「帰りにコンビニでトイレに寄ったら生理になっててね、びっくりして泣いちゃったの。そしたら近くにいたお姉さんが話を聞いてくれて、ナプキンをくれたの」
「知らない女の人にもらったの?」
やばい、失敗した。無意識のうちに手が口元に伸び、ぼりぼりと書く音が部屋に響く。
「うん、うん。別にいいんだけどね。それを他の人が見たら、どう思ったかな? ママは小春ちゃんのためにこんなに準備をしてたのに、他の人はああー、部納さんちのママって娘に生理のことも教えてない無責任な人なのねー! って思ったかもしれないよ」
「ごめんなさい」
「別に怒ってないの。ただ、ママがまた恥かいちゃったから、悲しいってだけ。それにしても、小春ちゃんが大人になるのがこんなに早いとは思わなかったなあー。ママは生理、こんなに早く来なかったわよ?? 周りの友達だってまだでしょう? 何でかなあ」
ママが意味ありげに私を見た。あの、口を掻いてしまった時の、汚いものを見る目だった。
早く大人になっちゃった。それは多分、あれのせいだ。恥ずかしさと罪悪感で膝が震えてきて、本当にごめんなさい、と何とか声を絞り出してから部屋に駆け込んだ。やっぱりあれは、いけないことだったんだ。あんなに気持ちいいことだから、引き換えとして罰があるのは当たり前だった。
股の間が濡れているのも、錘がぶら下がっているような腰の重さも何もかもが気持ち悪くて、ひたすら泣き続けた。身体の中の水分を絞り出し、もう一滴も涙が出なくなっても、ママと顔を合わせたくなくて部屋に籠り、布団をかぶってじっと目を閉じていた。
それから大体一時間くらい経ったころ、外で騒がしい物音がした。見ると「グランドホテル赤庭」と書かれた車が三台塀の外に停まっている。嫌な予感がして階段を駆け下りダイニングに向かうと、ホテルのスタッフらしき人が数人、てきぱきと働いていた。その後ろで、ママが満面の笑みを浮かべて立っていた。
「せめてお祝いくらいは盛大にさせて欲しくて、料理長に無理を言ったの。ほら見て」
テーブルの中央には、大きな桐の箱が置かれていた。母の視線を受け、スタッフの一人が蓋に手をかける。それは見覚えのある男性だった。確か、授業参観に来ていたはず。背中から汗がどっと吹き出す。
嫌だ。止めて止めて止めて!
私の必死の願いも虚しく、箱の中では、つやつやと美味しそうな赤飯が輝いていた。
「小春ちゃん、おめでとう!」
ママが拍手をする。それに合わせ、スタッフさんたちも拍手している。
私に生理が来たことを、皆が笑顔で祝っていた。私が何回も何回も、青木さんのことを考えながらあれをしたこと。そのバチが当たって早く大人になってしまったことを、ママは皆に説明したのだろうか。クラスメイトのお父さんは、帰ってからそれを子どもに話すのだろうか?
少しでも気を抜いたら胃の中身が口から飛び出そうで、今すぐここから逃げ出したかった。でもそんなことをしたら、またママに恥をかかせてしまう。無理に口角を上げ、必死に笑顔を作る。口の端がぶるぶる震え、裂けた皮膚から血が滲んで肌を伝う。スプーンに私の顔が反射していた。目も口も真っ赤になって、本物の口裂け女みたいだった。
それから季節が何回も変わった。ママも、紅麗亜たちも、アレルギーも相変わらずだった。
大学受験が視野に入る中学になってからは、ママはちゃっかり東京の私立に通わせるようになった。進学先である中高一貫の女子校には同じくらいの家の格(と、ママが言っていた)の子がたくさんいて、ここで初めて私は普通の子になれた。金銭感覚も考え方も似ている友達もたくさんできて、もう腫れ物扱いされることもない。
それでも月に1回は、紅麗亜の家に遊びに行くようにしていた。
紅麗亜はますます美しくなっていったが、公立中学に入っても道を踏み外すことなく、ずっと真面目なままだった。見た目を揶揄う咲紅さんを無視して、化粧もおしゃれもせずひたすら勉強に励んだ彼女は、公立のトップ校に進学した。本当は校則で禁止されているバイトもはじめたため、日中はほとんど家に居なかったが、むしろその方が咲紅さんの機嫌が良くて嬉しかった。
遊びに行くときはいつも、東京の百貨店で買ってきた高級総菜を持っていく。そして咲紅さんと2人、過激なホラー映画を観るのがいつもの過ごし方だった。安い演技と作り物丸出しの臓物を眺めながら、最近学校であったことを報告する。ママが聞いたら卒倒するような下品な悪口に、咲紅さんはいつもあの甲高い笑い声を聞かせてくれた。
その頃にはもう、彼女が身体を売って稼いでいることも、この部屋で男を取っていることも、漂う悪臭はコンドームに入った精子から漂っていることにも気づいていた。今座っているこの布団で彼女が仕事していて、一年中敷かれっぱなしで洗濯もされずに誰かの体液まみれな事もわかっていたが、不思議と何一つ気にならなかった。ホラー映画にありがちなエロいシーンが出てくるたび、私はシーツのシミを指でなぞりながら、頭の中で青木さんと自分に置き換えた。
咲紅さんも青木さんも、年を経てもずっと変わらなかった。特に青木さんは私のパパと同世代で、もう40代も後半に差し掛かり、目尻には深い皺が刻まれ、口元のたるみも目立ってきた。だが年々しょぼくれたおじさんになっていくパパと違い、青木さんはずっとかっこいいままだった。
私の女子高でも合コンのようなものは何度かあった。誘われるまま参加して、そこで出会った男子たちと何度か2人きりで遊んだこともある。だが誰とデートしても、手を繋いでも、心臓もお腹の中も静かなままだった。
私の身体がざわめくのは、昔からずっと青木さんただ1人だった。
それは、高校2年の夏だった。
キャミソールが汗で身体に張り付くような暑い日で、私はオープンキャンパスの帰り、そのまま紅麗亜の家に向かった。彼女はバイト中で、家にいるのは咲紅さんだけだった。
「志望校、決めました」
おみやげのナッツを噛み砕きながら、独り言のように呟く。
「なんだっけ、あの貴様の学校? あんたんちは全員そこだっけ」
「いや、そこじゃないとこに」
「へえ? また何で」
咲紅さんの語尾が上がった。
「なんかちょっと、やな感じがして」
咲紅さんの言う『貴族の学校』とは、東京にある伝統的な私大のことだ。偏差値的に突出しているわけではないが、いわゆる旧家や名家の子女が集まる大学だ。もちろんうちの人間も代々そこの出身だから、ママは当然、私もその道を辿ると思っている。
「今日オープンキャンパスに行ったんですけど、なんかちょっと」
あの大学ですれ違った人は、全員例外なく同じ目をしていた。育ちのいい人間特有の、揺ぎ無く澄んだ目。これまで何一つ不自由なく育ってきた世界への信頼がそうさせるのか、彼らの目は良くも悪くもまっすぐでキラキラしていた。
自分が誰より一番正しいと思い込んでいるうちのママも、同じ目をしている。私だって何もかも与えられて裕福に育ったはずなのに、なぜだか自分の目だけ暗く濁っていた。はしゃぐ人々の笑い声が、脳の中を掻き回す。すれ違う人たちが皆、暗くて汚い私を責めているような気がして、息が上手く吸えなくなった。午後は図書館ツアーに行く予定だったが、もうそのまま電車に飛び乗り、その足でここに逃げ込んでしまった。私はどうしてこうなんだろう。貧乏に育っても、綺麗な目をしている人はいるのに。
「みんなの目が綺麗で、むかつきました」
「紅麗亜みたいな?」
咲紅さんが、私が言わなかったことを代わりに口に出した。2人で濁った目を見合わせ、思わず吹き出す。
紅麗亜はこの豚小屋で育ったにも関わらず、優しくて清らかで、その目はいきいきと輝いている。私なんかより、彼女の方がよほど部納家の一人娘にふさわしかった。
「あいつは何であんな風に育ったかね? あたしの子なのに」
「泥中の蓮、って知ってますか」
「知ってるわけないでしょ、馬鹿にしてんの?」咲紅さんがチューハイを飲み干し、部屋の隅に投げた。
「汚い環境の中でもそれに染まらず、美しさを保っていることをそう言うんだそうです。紅麗亜にぴったりじゃないですか?」
私は足元に転がっているショッキングピンクの紐パンをつまみ上げ、目の前で揺らした。
「あんたは正反対だね」
映画の中では女性がこめかみを撃ち抜かれ、画面いっぱいに脳をぶちまけている。銃は射精のメタファーだとどこかで読んだことがあるが、本当だろうか。
「紅麗亜ちゃんの根性焼き、見ました」
考えるより先に、言葉が口をついて出てきた。
「いきなり何? あいつが見せたの?」
「昔、一回だけ。責めてるわけじゃないです。ただ、なんであんなことをしたのか気になって」
「愛情」
咲紅さんがたばこの煙を細く長く、上に向かって吐き出した。初めて会った時より化粧がかなり厚くなっていることに、今頃気が付いた。
「マジで得体が知れないんだよね、あいつ。父親もわかんないし。あたしのガキに間違いないって、頭ではわかってるんだけどさ」
ため息交じりに咲紅さんが呟いた。
「これでも最初の方は頑張ってたんだよ、子育て。でも煙草吸ってる時も、セックスしてる時も、いつもあのどんぐりみたいなキモい目でじっと見つめてるんだ。ガキらしく泣いたりすればまだ可愛げがあるのに、ずっと黙ってお利口にしてんの、もうマジで不気味。わけわかんなくなっちゃって、気づいたらタバコをね」
私は何も言えずに黙っていた。得体の知れない子。きっとうちのママも同じことを思っているに違いなかった。血が繋がっているからといって、全員が仲良し母娘になれるとは限らない。他人だったら絶対に関わりたくないような女でも、うっかり母娘に産まれてしまえば逃げ場が無く、お互いに傷つけあうしかない。ただうちは周囲の目があったから、紅麗亜のような目に遭わずに済んだだけだ。
「今考えると、あの頃はまだ紅麗亜の母親になろうとしてた。でも、もーどうでもいいや。あたし、悪い母親だよね」
「うちのママは、まだ私のことを諦めてない」
「だろうね」
「私に干渉するのを、人生を乗っ取ろうとするのを、まだ諦めてくれない。咲紅さんは、娘は自分と違う人間だってちゃんと理解してるじゃん。だから私は紅麗亜がうらやましいよ」
咲紅さんは何も言わず、私の頭をそっと撫でた。そして近くに積まれた紙束から大学のパンフレットを引き抜いた。
「志望校変えるなら黙っときな。あいつ、あんたと同じ大学受けるつもりだから」
パンフレットをぐしゃりと握りつぶす。公立のトップ校に通っている紅麗亜ならもっと上の大学でも合格できるだろうに、犬のように私を追いかけてくるその健気さが癇に障る。
「あいつ、どうやって学費出すつもりなんだろうね」
「奨学金じゃないですか。紅麗亜、頭いいし」
「じゃ、生活費は? 東京で1人暮らしするのに、普通のバイトで追いつくわけないじゃん。どーせカツカツになって、最後は身体売るハメになるんだよ」
私は返事をしなかった。劣悪な環境に染まらないのは紅麗亜のいいところだったが、それはある意味、現実が見えていないということでもある。東京での一人暮らしにどれだけお金がかかるのか、きっとそこまで深く考えていないだろう。
「もう大学なんか行かずに、さっさと家に金入れて欲しいんだけどさあ……そうだ、通報すればいいんじゃん! なんで今まで思いつかなかったんだろ」
咲紅さんが手を叩き、満面の笑みを浮かべた。
「通報?」
「あいつ、進学のためにバイト代結構貯め込んでのよ。でもちょっと今金が要りようでさあ、数十万まとまって必要なわけ。ね、わかるでしょ?」
話の意図が掴めず、私は首をひねる。咲紅さんはじれったそうに足をバタバタさせた。
「あいつの学校、バイト禁止なわけ。だからバレたら、校則違反で奨学金が貰えなくなるじゃん? 奨学金が無いと大学に行けないわけだから……入学金自体が要らなくなる! あいつはなんだかんだ甘いから、使い道のなくなった金をあたしに恵んでくれるってわけよ。どお、天才じゃない?」
咲紅さんは満面の笑みを浮かべ、私の肩を抱いた。しかし、さすがにそれは良心が痛む。私は紅麗亜のことは苦手だが、恨みがあるわけではない。
「それは……駄目だよ。ちょっとくらいなら私が貸してあげるから」
「この馬鹿、そんなこと軽々しく言うなっての」
咲紅さんが私を小突いた。
「人間関係ってのはさ、金の貸し借りが出来たら最後、あとは壊れるしかないの。相手のことが好きなら、絶対に金の話はしちゃいけない。だからあたしは、あんたからは絶対に借りないし、そっちも二度と貸すなんて言わないで」
その言葉が嬉しくて、心がぐらぐらと揺れる。でもこれを見過ごしてしまえば、もう元に戻れない気がした。私の目はどこまでも暗く濁って行き、2度と輝くことはないだろう。
紅麗亜に忠告し、バイトを辞めさせなければ。
そう思った。そう思ったのに。
私は企みを止めなかった。
あのキラキラとした目、ママたちと同じ澄んだ目が希望を折られて濁るのを、どうしても見たかった。
そうして時は過ぎ、受験の時期になった。私は結局、志望校を変えたことをギリギリまでママに言わなかった。案の定相当揉めたが、本命を上位の国立にして、あの大学を滑り止めにすることで決着した。結果私は無事に合格し、それまで不機嫌を振り撒いていたママも手のひらを返したようにご機嫌になった。
紅麗亜はというと、バイトがバレて奨学金をもらえず、これまで貯めたお金も全て咲紅さんにたかられ、受験すらできなかった。校則違反を通報したのが自分の母親だとも、それを見過ごしたのが私だとも気づかず号泣する姿を見て多少は心が痛んだが、引っ越しの準備が忙しすぎてそんな気持ちもすぐに消えてしまった。そしてついに、卒業式の日が来た。この学校で過ごした時間はそれなりに楽しかったし、卒業はそこそこ感慨深かったが、泣いて抱き合う同級生をよそに私の頭の中はずっと前から温めていた計画のことでいっぱいだった。
卒業式が終わった途端、ママに何も言わずに電車に飛び乗った。
私はこれから東京に住んで、思いっきりきらきらした生活を送る。素敵な彼氏を作って、海外に留学もする。私のことを腫れ物扱いしてきた地元とはもう、おさらばだ。
だが最後に一つだけ、どうしてもやり残したことがあった。それを試さなければ、私の心は一生ここに囚われたままになってしまう。
友達と遊んで帰るから、ママは先に帰ってて。震える指で連絡を入れ、まっすぐ紅麗亜の家に向かう。彼女はこんな日もバイトだった。流石に半月ほど塞ぎ込んでいたが、それでも彼女は折れなかった。一年間必死で働いて来年また大学を目指すのだと、キラキラした目で話していた。結局あの子は何が起きても輝いたままで、私は濁ったままだった。でももうそんなこと、どうでも良い。
咲紅さんも最近固定のパトロンを見つけたらしく、深夜まで家を空けることが多かった。反対に青木さんはなぜか近頃いつも家にいた。8年前と全く変わらない汚くて壊れかけのドアを開け、不潔な床を踏み締めて中に入る。カーテンを半分閉めた暗い部屋の中で、やはり今日も彼は1人で煙草をふかしていた。深い皺の刻まれた品のある顔に、上下灰色の汚いスウェットが浮いている。
「お、小春ちゃん。卒業おめでとー。これ、お祝い。開けてみて」
彼は私に気づくと、ズボンのポケットから小さな包みを取り出した。中にはブランドの香水が入っていて、それは彼のセンスでも、咲紅さんのセンスでもなかった。何だか無性にイラついて、お礼も言わずに袋を乱暴に破き、香水を振りまく。澱んで悪臭のする部屋に、甘ったるいフローラルな香りが漂った。不機嫌そうに部屋の隅に縮こまる私を見て、青木さんが眉を下げた。
「嫌な匂いだった? ごめんなあ。小春ちゃんみたいな若い子、何を喜ぶのかわからなくて」
「紅麗亜は喜びました?」
「うん。でもあの子優しいからね、気を遣ってくれたのかな」
私はなにも答えず、青木さんの側ににじり寄った。彼は私をじっと見て、煙草の火を消した。いつも完璧にセットしているオールバックの黒髪が、今日は少し乱れていて、白髪混じりの毛束が数本額に落ちて影を作っている。無言を貫く私に、彼が眉尻を下げて困ったように笑うと、垂れた目がますます優しく見えて心臓が早鐘のように打つ。下腹部も、背筋も頭もざわざわして、今にも爆発しそうだった。そして固く目を瞑り、彼の胸に飛び込んだ。
煙草の匂いと、大人の男の匂いが私を包む。自分の心臓の音がうるさくて、何も聞こえない。
彼の厚い身体は一瞬だけ強張ったが、すぐに私の腰に手を回してきた。もう一方の手は蛇のように足を撫でまわし、あっという間に太ももの間に滑り込んできた。彼は何の躊躇もなく私の首筋に顔を擦り寄せ、そのざらざらした感触で頭がくらくらする。彼が私を抱くかは、一か八かの賭けだった。
そして私は、賭けに負けた。
「卒業してその足で、なんて。真面目なのか、不真面目なのかわからないなぁ」
セックスが何かも知らなかった私の身体に、欲望を教えてくれた人。焦がれ続けた理想の男性は今、親子ほど年の離れた私に目をぎらつかせる、ただの変態野郎に成り下がっていた。
彼の加齢臭混じりの体臭に包まれ、煙草のいやは臭いがする熱い息が身体にかかるたび、初恋が薄汚れていくのを感じる。
初めては彼としたいと願い続けていたけど、それと同時に、私を拒否して欲しいとも思っていた。ダメだよ、若いんだから大学で恋しなよ、と言って欲しかった。でも彼はあっけなく私を受け入れ、今は慣れた手つきでブラジャーのホックを外そうとしている。今すぐここから逃げ出して、思いっきり泣きたかった。間近で見る青木の肌や臭いは思いの外不愉快で、老いていて、それなのにみっともなく燃え上がった身体は言うことを聞かず、このまま先に進むことを望んでいた。
「すっかり大人になっちゃって」
「うるさい。黙って」
もう敬語を使う気にもならなかった。彼は両手を上げて笑った。
「ゴムはつけて」
「そんなの持ってないよ。大丈夫、一回じゃデキないから」
私は鞄からコンドームを取り出し、無言で投げた。買うところを誰にも見られないように、隣の県の、この先二度と行くことのない田舎のドラッグストアで、映画に出てくる麻薬密売人さながらの用心深さで買ってきたコンドームだった。初めてのセックスにかける私の熱量を感じ取り、青木は下卑た薄汚い笑みを浮かべた。上品な薄い唇から、煙草のヤニがついた汚い歯が見えた。
「うわ、準備万端だね。ちょっとサイズ小さいけど、まあいいか」
彼はカーテンを閉め切り、いそいそと服を脱いだ。平安時代から続くという、私の高貴な血。貴族だの華族だの呼ばれていたご先祖様たちは、この光景を見てきっと泣いているだろう。あなた達の末裔は今、ピンクのヒョウ柄の汚い万年床の上で、ダニと埃にまみれながら処女を捨てようとしています。
「小春ちゃんのこと、子どもとしか思ってなかったからびっくりだよ。もしかして、初めて?」
私は黙って頷いた。
「こういうのは下手にするより、一気にした方がいいんだよ。大丈夫、おじさんに任せて」
青木に割り開かれた足が、灰皿代わりのチューハイ缶にぶつかり、乾いた音が響く。あ、と思うと同時に、下半身に鋭い痛みが走った。
くそ、何だこれ。
虚しくなって涙が出てきた。あの日から何十回、下手したら何百回と想像した場面。青木から愛の言葉を囁かれながら、ゆっくり優しく、宝物のように愛される。
なのに現実の青木は、私の頭を撫でてもくれなかった。ただ無言で突っ込んで、乱暴に動くだけだった。とにかく痛くて、苦しくて、なのにすごく濡れているのが分かって惨めだった。青木が唇を重ねてきて、そこでようやく、ファーストキスより先に処女を失ったことに気づく。下から見上げる彼はいつもよりおじさんに見えて、この先彼を思い出して一人ですることはもう二度とない、と思う。
昔、女の人生はクソだと咲紅さんが言っていた。こんな風に身体に入られて、好き放題暴かれるのが女の運命なら、確かにクソ以外の何物でもない。
そうだ、咲紅さん。
そこで初めて、彼女に対して罪悪感が湧いてきた。二人は多分恋人同士ではないだろうが、身体の関係があるのは確実だった。咲紅さんのことは大好きなのに、この瞬間までそのことに全く思い至らなくて、我ながら嫌になる。だがきっと彼女なら、私を許してくれるだろう。倫理とか道徳とか、そういうのは紅麗亜のような人間のものであって、泥の中で生きる私たちには関係ないことだから。
青木の生ぬるい舌が、炎症を繰り返して薄くなった私の唇の周りの皮膚をなぞり、端の切れているところを執拗に吸った。粘膜がじかに触れあっている感じがする。そういえば、キスでうつる性病はいくつあったっけ。私の唇の皮膚は弱く、いつもどこかが裂けていて、粘膜がむき出しだ。それなら下にゴムを付けても、意味ないんじゃないのか? 青木が中で往復するのに合わせ、私は保険体育で習った性病の名前を一つ一つ思い出していた。
それから五分ほどして、小さいうめき声ををあげて青木が果てた。痛みと惨めさに塗れた悲惨な初体験だったが、その瞬間だけは一瞬満足を感じた。
青木はしばらく隣で荒い息をしていたが、身体を起こして煙草に火をつけた。している最中は見えなかったが、今ついに、焦がれ続けた彼の背中が見えた。
そこには、河童がいた。何度も夢想して耽ったそこには龍ではなく、歌舞伎役者のような変なポーズをして目をひん剥いた、河童が立っていた。
「まじか。蛙化すぎる」
思わず口走ってしまった。
「カエルじゃなくて、河童だよ」
青木が顔をこちらに向け、ふざけて煙を吹きかけてきた。している最中は最低の変態野郎だと思っていたのに、その笑顔を見るとなぜか急にまた胸がどきどきしてきて、思わず唇を押し当てた。初めて自分からするキスはへたくそで、歯ががちりと当たった。
「痛かったのに、頑張ったね」
青木の手は大きくて、暖かった。一度やったら幻滅して、それで終わりにするつもりだったのに。あんなに苦しかったのに、その痛みがまた欲しくなってきた。後ろから彼に抱き着き、河童にキスをした。
「何してんの?」
部屋がパッと明るくなり、咲紅さんの声が響いた。呆れたような、半笑いの声だった。彼女がいつの間にか帰ってきたことに、私たちは全く気付かなかった。
汚い布団の上で裸になっている私たちを、咲紅さんは頭からつま先までじろじろと見まわした。気まずくて視線を下げると、自分の股の間から血が伝っているのに気づいた。初めての時は本当に血が出るんだなあ、とのんきなことを思う。
彼女がべたべたと歩きながら近づいてきた。青木が持っている煙草を取り上げると、私の目をじっと覗き込む。大きすぎるカラーコンタクトが入った瞳の中に、間抜けな顔をした私が映っていた。
咲紅さんは私の太ももにタバコを押し付けると、心底嬉しそうに微笑んだ。




