「ルンロンちゃんに、言葉を教えた人がいるんだね?」
7
「へー、不思議だねえ」
話を聞き終えたわたあめは、他人事のようにそう言った。
いや、他人事なのだけれども……。
「はてちゃんは、ペット飼ったことある?」
「おじいちゃんには、飼いたいって提案しようとした事もなかったわね」
二人暮らしをする前も、特に何か飼っていたというわけじゃなかったし、今のところ、ペットに縁のない人生だ。朝顔ぐらいなら育てたことはあるけれど。
「……犬くらいなら飼ってもいいかしら、番犬代わりに」
部活をしているわけでもなく、早く帰る日は早く帰るので……慣れてきたとはいえ、未だ一人暮らしの寂しさは身に染みる。意外とアリな選択肢に思えてきた。
……いや、そうじゃない、今は恋のことだ。
「わたしも、つぶあんが入れ替わってたとき、ちょっとやだったなぁ」
「……つぶあんって?」
会話の流れ的に、まさかまんじゅうのこしあんがつぶあんと入れ替わっていた、みたいな話ではないはずなのだけど。
「ペットの犬」
犬飼ってるんだ……というか、なんだろう、泡沫潟家の命名方針なんだろうか。
いや、それよりも。
「入れ替わってた、って……何?」
「んー、わたし、ちっちゃい頃、入院してた時期があったの。大怪我しちゃって」
「大怪我?」
「うん、走ってる車から、転がり落ちちゃって」
まさにオウム返しに聞き返すと、わたあめは、おもむろにシャツの裾をスカートから引き抜いて、ブレザーをべろん、とまくり上げた。
「ちょっ、と……!」
陶器のように白い肌と、細いお腹が視界に入ってきて、反射的に目を反らしかけて……ああ、自分の動体視力が憎い。
「ほら、すごく痛かったの」
肌をさらす事にまったく羞恥のないわたあめの、すべすべとした白い肌に――美術科特待生に対して、こういう例えは不謹慎かも知れないけれど……真っ白なキャンバスに、赤い絵の具をぶちまけたような、大きな大きな傷痕が残っていた。
一度裂けた肉と、剥がれた皮膚が癒着した痕がまざまざと残っていて……じっくり凝視しなくてよかった、と感じてしまうぐらい、惨くて、酷い。
年頃の少女の体に刻まれた疵にしたら、あんまりだ。
「でね、わたしが退院して家に戻ったら、つぶあんが《《違う犬》》になってたんだ」
しかし、わたあめ本人は、傷痕そのものにはあまり頓着していないように、さっさと話を進めてしまう。
「ち、違う犬?」
「入院してる間に、死んじゃったんじゃないかな」
服を再びスカートの裾にしまいながら、あっけらかんと言い放ったわたあめの横顔には、言葉とは裏腹に、悲しさも、憂いも見当たらない。
「でも、つぶあんが居なかったら、退院したわたしが可哀想だと思って、パパとママが代わりの犬を用意したんだと思う。同じ犬種で、同じ色の、別の犬。全然違うのにね」
「………………」
わたあめの洞察力なら、似たような、けれど違う犬なんて、即座に看破出来たことだろう。その時の心境は如何なるものか、私には想像のしようもないけれど。
この会話の流れで、ふわっと出てきていいエピソードじゃないでしょ、それは。
「そ、その犬は……どうしたの?」
「? 普通にお家に居るよ。人懐っこくて、可愛くていい子。細かい仕草とか、似てる所もあるし、多分、兄弟犬とかだったんじゃないかな」
わたしが何か言っても、仕方ないもんねえ、とわたあめはぼやくように呟いた。
「それに、入れ替わってから、六年ぐらい経ったから、今はもう、あんまり気にならないかな」
「そ、そう……」
わたあめ本人が気にしてないのなら、私から言うべきことはないのだけれど……。
なんだろう、それは、すごく気持ち悪い話であるような気がしてならない……。
「それで、はてちゃん。ルンロンちゃんはどうしたの?」
きょとん、とした顔で問われて、はっと我にかえる、そうだ、今は、ヨウムの話。
「え、ええ。流石に少し怖くなって、ここ数日はあまりかまってあげられなかったらしいんだけど」
「だけど?」
「エサを交換する為に籠をあけると、ゴメンネー、って鳴くんですって」
考えただけで、気が滅入る状況だと思う。私だったらノイローゼになるかも知れない。
「へえー、そういう感情表現もできるんだ」
まあ、わたあめは大して驚いてもなさそうに、そんなふうに言うのだけど。
「……ここからが本題ね。ヨウムは誰かが言葉を教えないと喋れない。つまり……」
「ルンロンちゃんに、言葉を教えた人がいるんだね?」
泡沫潟わたあめには、間違いなく好ましいところがある。
とにかく、話が早いことだ。
「何時、誰が、どうやって、何故、ヨウムにそんな事をしたのか」
「わ、なんかすごいね。推理小説みたい」
「5W1Hってほどのものじゃないけどね」
考えなきゃいけないことがそれぐらいある、ってことだ。
「理屈の上では、言葉を仕込もうと思えば、誰でも仕込める状態ではあったみたい」
「ふうん?」
恋の部屋は三階の角だが、日中、母親が掃除機をかけてくれる事もあって、いつも部屋には鍵をかけていないらしい。
「お母さんが教えたとは思ってないんだ」
「それとなく探ってみたけど、知らないって言ってるみたい。こんにちは、とか、お部屋入るね、とか、元気? みたいな声かけは、日頃からしてるみたいだけど」
「お母さんのこと、ずいぶん信用してるんだねえ」
年頃の女子だから見られて困るものの一つや二つはあるだろうけれど、机の引き出しとか、ある程度プライベートな領域は確保してるんじゃないだろうか。流石に私もそこまで踏み込んでは聞いてない。
「少なくとも、そういう悪趣味ないたずらをするタイプではないみたいね」
「じゃあ、お父さんは?」
「可能性としては一番低そう。部活で遅くなる恋よりも、もっと帰宅が遅くて、ご飯食べたらずっとリビングに居て、恋より早くお風呂に入って、恋より早く寝ちゃうみたい」
「そっかぁ。じゃあ、お父さんは、ルンロンに変な事言うタイミングがないんだ?」
「そもそも、娘の部屋に勝手に入る父親は、嫌でしょ」
「嫌だねえ。家庭崩壊の危機だね」
私は思春期を迎える前に父親が居なくなったけれど、祖父はその辺りをちゃんと配慮してくれていたと思う。部屋を与えてもらったこともそうだし、立ち入る事もしなかったし。
……改めて考えると、ちゃんと面倒見てもらっていたんだな、という気持ちがふつふつと湧いてくるもので……。
いや、今はやめよう、次だ、次。
「それでなくても、娘を溺愛するタイプみたいだから……嫌われそうないたずらを、わざわざしないでしょうって」
「兄弟とかはいないの?」
「一つ上のお姉さんと、小学生の弟さんがいるらしいわ」
「おとうとくん」
「四年生のいたずら盛りで、よくお母さんに怒られてるんだって」
「わあ、一番の容疑者だ」
部活も無いし、遊んで帰ってきたとしても、恋の帰宅より早くて、一番何かしそうではある、けれど。
「そうね、でも、彼女曰く、多分そんなことはしないはずだって」
「なんで?」
「ちっちゃい時、ルンロンにいたずらしようとして籠に指を突っ込んで、思い切り噛まれたらしいの」
「うわ」
思わず指をおさえるわたあめ。ヨウムの咬合力がどんなものか知らないけれど、恋曰く、ものすごい血が出て、とんでもないことになったとか。
更におかーさん! おかーさん! と助けを求める声をルンロンが学習してしまい、被害者と加害鳥が同時におかーさん! オカーサン! と交互に叫ぶ地獄絵図になったそうな。
「それが原因で鳥嫌いになったらしくて、恋の部屋に近づかなくなっちゃったんだって」
単なるイタズラという意味では一番濃厚な容疑者だったのだけれど……。
「お姉さんの方は風光学園とは違う高校に通ってて、可処分時間を全部、熱帯魚の世話と鑑賞に注ぎ込んでるらしいわ」
「ねったいぎょ」
「熱帯魚クラブがある学校に行ったんですって」
「ねったいぎょくらぶ」
なんか、そういうのがあるらしい。
お小遣いもバイト代も全て熱帯魚に費す趣味人だそうで。
青春をどう使うかは人それぞれだし……それを言うなら屋上で非生産的な雑談に勤しんでいる私になにか言えた義理ではない。
「姉妹仲は良いから、わざわざ自分を傷つけるようなことはしないはずだ、とは言ってるわ」
ただ一方で、バイトがない日は、吹奏楽部の練習で基本的に帰宅が十八時を回る恋より早く帰宅する事のほうが多いとのことで、ルンロンに何か教えることは可能ではあるらしい。
「それと、その娘の家は二世帯住宅で、母方の祖父母と一緒に暮らしてるわ。日中も家に居るし、この二人にも可能性はあるわね」
わざわざ孫のペットにそんな事をして何になるんだろう、という疑問はあるけれど。
というか、私たちは容疑者(と言うべきかどうかわからないけれど)の人となりを全く知らないし、動機から詰めていくのはほぼ不可能だ。
動機がありそうな人物が居るなら、恋一人で特定可能なはずで、その場合、私にされる相談は原因究明ではなく、誰に一本背負いするかの話になるわけで。
「ふうーん」
わたあめは座ったまま、頭をゆら、ゆら、と小さく揺らし始めた。
出会って一週間ぐらいで気づいたのだけど、どうもこれがわたあめが考え事をしている時の癖らしい。
お互い何も喋らないまま、その動きを目で追って……数分後。
「はてちゃん」
わたあめが、口を開いた。
すべてを見透かし、すべてを見通す時にする、あの柔らかい、確信に満ちた笑みを浮かべながら。
「家族じゃない人が、お部屋に忍び込んだりはしてないよね」
「それはもう警察の仕事じゃないかしら……」
基本的にお母さんは家に居るらしいので、その線はない……と思いたい。
空き巣に入るにしたって、わざわざルンロンにそんな言葉覚えさせたりはしないだろうし……ヨウムが言葉を覚えるにはある程度の反復も必要とのことなので、そんなに頻繁に忍び込まれてたらそっちのほうが問題だ。
「わからないよ、はてちゃん」
しかしわたあめは、ふっふっふ、となにか含みのある笑みと共に言った。
「もしもお母さんが………………浮気をしてたら?」
「人のご家庭の母親になんてこと言うの」
ここだけの話にしたって無礼千万すぎる。
「大体、二世帯住宅で連れ込めないでしょ、浮気相手は」
「母方のおじいちゃんおばあちゃんなんでしょ? 説得済なのかも」
「そんなドロドロの家庭、絶対嫌……」
いくらなんでも救いがなさすぎる。なんだったら、もうペットのヨウム云々じゃない大事件が起こっている事になってしまう。
「でも、可能性は検証すべきじゃないかな」
「この可能性の先に答えってあるのかしら……」
一理もないように感じるけれど……しかし、わたあめのじぃ、という視線を感じる。
「千歩譲って浮気相手がいたとして、その人を両親も暮らす自宅に連れ込んでるとして、娘のペットに変な言葉を仕込んで驚かせる理由ってあるかしら」
「新しいパパになるために、馬を射ようとしているのかも」
「だとしたら将を落とす才能はなさそうね」
恋がターゲットだとしたら逆効果極まりないし、女子の部屋に勝手に立ち入る浮気相手なんて最悪だ。それは……いくらなんでも無理筋だろう。
「でも、家族がしそうにないなら、お客さんのいたずら、っていう線は考えるべきじゃない?」
「……それは、いえ、でも、考えるまでもないんじゃないかしら、絶対無理よ」
来客があったとしても、恋の部屋は三階なのだから、家族の目を盗んで階段を登り、部屋に忍び込み、しかもルンロンに言葉を教える、という音の出る行為をして、バレずに降りてこないといけない。そんなの現実的じゃない。
「あれ、その娘のお部屋って、防音じゃないんだ」
「え?」
「吹奏楽部で、自主練とかもするんでしょ? 音漏れがしづらいように、防音にしてもらってると思ってた。わたしのお部屋もそうだよ」
「…………」
多分、建築年数が想定耐久年数を超えている、隙間風の多い平屋に済んでいる身なので、防音、という概念を全く想定できなかった。
というか、薄々わかってたけど、わたあめの家も、かなりのお金持ちなんだろうな……一口に『代わりの犬を用意した』なんて言っていたけど、それだって結構なお金がかかるはずだし、私が座ってるこのマットレスだって異様に腰が沈むから、多分すごくいい奴だと思う。私が使っているペラペラの布団が紙みたいだ。
「仮に防音だとするなら、部屋に入ったら外からは何をしてるかわからない、って事?」
「そうだねえ、部屋に入れさえすれば隠せちゃうかも」
例えばトイレをお借りします、といってこっそり三階に昇って、恋の部屋に入り、ルンロンに言葉を覚えさせて――これだって、ヨウムがどれぐらい賢いか知らないけれど、数分で発声できるくらいになるだろうか――何食わぬ顔で戻る。
少しお腹が痛かったとかで数分間時間を稼いでそれを行うことは……かなり無理筋ではあるけれど、可否だけで言えば、もしかしたら不可能じゃないかも知れない。
…………けれど。
「…………何でそんなこと?」
そう、結局そこに行き着いてしまう。わざわざルンロンに変な言葉を覚えさせて、それで誰が得をするのだろう。いや、嫌がらせ、と言う意味ではこれ以上なく成功しているのだけれど。
「なんでだろうねえ」
さっきから、なんだかやけに物言いがふわふわしてるな……いや、わたあめがふわふわしてるのはいつものことなのだけれど。
チラ、と横顔を見てみると、やっぱり、わたあめもこちらをじぃっと見ている。
嬉しそうに、楽しそうににやにやと頬を緩ませて。
「…………わたあめ」
「なあに? はてちゃん」
「あなた、もう結論が出てるでしょう」
「えぇー? なんで?」
にやにや顔のまま、すっとぼけた態度でわあ、とざーとらしく驚いて見せるわたあめ。
わからいでか。
自分が解いたクイズの答えに頭を悩ませている人間を見守る時の、あのなんともいえない優越感というか、見守り感というか、そんな顔だった、今のは。
さっきから、私に色んな可能性を提示して、考えさせようとしている節があったし。
「だって、はてちゃんが頼まれた相談事だもんね?」
「……それを言われたら、ぐうの音も出ないけど」
「ぐーぐー。んふふ、困ってるはてちゃんもかわいいね」
「困ってるのは私じゃないんだけどね……」
だからといって、能動的に困らせないで欲しい。今回の場合、求めているのは問題の解決なのだから、答えがわかっているのなら早く教えてもらいたいのだけれど……。
そんな内心すら、わたあめにとっては当然お見通しなんだろう。
ごろん、と再びマットレスに寝転がったわたあめは、心底楽しそうに。
「はてちゃんさ、一度、その娘の家に行ってみたら?」
空に手を伸ばしながら、そう言った。
「結局さ、お家の中に入って、実際にお部屋に行って、ルンロンちゃんを見てみないことには、それが出来るか出来ないかもわからないじゃない?」
「それは……確かにそうだけど」
「わたしの思いつきだって、正しいとは限らないし。想像しか出来ないことに、断言はできないよ」
想像しかできない祖父の内心を、バチバチに決めつけた女が、なにかほざいている。
しかし……正直な所、一理あるな、と思ってしまった。
与えられた情報は又聞きで、恋の主観も強い。ルンロンがどれぐらいのペースで言葉を覚えられるのか、とか、そういう事だってわからないわけで。
吹奏楽部はかなり気合を入れた部活なので、何もなければほぼ下校時刻まで練習しているはずだ。
少し待てば、帰りしなに合流出来るかも知れない。時間帯的には夕飯前だから、相手のご家庭には少しご迷惑かも知れないけど……幸いなことに、我が家に門限はない。
「それに、今日はそろそろ空が曇ってくる予報だから」
言葉通り、少し白色が多くなってきた空を名残惜しむように、わたあめは呟いた。
「今日くらいなら、はてちゃんを貸してあげてもいいかな」
「…………あなた、私の彼氏か何か?」
「あーいらーぶゆー」
にやにやを通り越してにたにたし始めたわたあめの額を、指で弾いた。
みゃいんっ、というちょっと変わった悲鳴があがった。