「じゃあ、また明日ね」
3
日がじんわりと沈み始めた午後五時。さすがに肌寒さが顕著になってくると、わたあめはのっそり体を起こすと、マットレスをんしょ、と下から持ち上げて縦にする。
……立ち上がったのを見て、改めてわかったけれど……そりゃあ、制服がぶかぶかになるはずだ。小学生低学年かと思うくらい、背が低い。
頭の位置が、一六五センチある私の胸元ぐらいってことは……一四〇センチくらい? そんなだから、当然シングルサイズのマットレスを運ぶのにものすごく手間取っていて、頑張って浮き上がらせようとしているけれど、見ていて非常に危なっかしい。
「どこに持って行くの? 踊り場?」
なので、後ろから軽く持ってあげると、わたあめはおお……と目を輝かせた。
「はてちゃん、パワフル……!」
「普通よ、これぐらい」
先導されて踊り場まで運ぶと、わたあめはせっせとマットレスからゴムでかぶせるカバーを取り外し、布をかぶせて、紐でせっせと巻いた。
ああ、一応ちゃんと寝具として扱ってるんだ……。
「いつも大変だから、助かっちゃったあ」
「でしょうね……」
「はてちゃん、握力何キロ?」
「荷物を運ぶのに握力は関係ないと思うけど……五〇キロぐらいかしら」
「ひえ」
立入禁止の看板を、今度は後ろから乗り越えて、階段を降りて、靴箱へと向かう。
先を歩くわたあめの背中は、本当に小さい。段差一つを降りるのにすら、体を弾ませないといけないほど手足が短くて、多少なりとも武の心得がある私からすれば……最初に抱いた印象そのままだ。
軽くて、儚くて、美しくて、すぐに壊れてしまいそうに見える。
私が投げ飛ばそうと思えば、多分、十メートル先までだって放ってしまえそうなぐらい……いや、しないけれど、そんなことは。
「はてちゃん、どうかした?」
私が立ち止まったことを察知したのか、くる、と振り返るわたあめ。
「……ううん、なんでもない」
「よかったあ、投げたりしないでね」
…………本当に、変な子だ。
靴を履き替えて、玄関を出て、校門までの道のりを、歩幅を合わせながら並んで歩く。
入学式の頃は、もうとっくに緑色を覗かせて、雨みたいに花びらを散らせていた桜並木は、本格的に青々とした葉を茂らせ始めていた。
落ちた花弁は、毎日定期的に道を掃いてくれる清掃員さんが片付けてしまったから、もう名残すら残っていない。
……私の門出を見に来る人がいなかった、あの時は。
涙みたいに降り注いでいたはずなのに。
じわ、と浮かんできたものを袖で拭って、私は改めて、わたあめに言った。
「ごめんね、変なところ見せちゃって」
「なんで? わたしは、嫌じゃなかったよ」
不思議な出会いと、不思議な体験。
ほんの数時間前、好奇心からであった変わった少女に、身勝手な考察を聞かされて、泣かされるなんて……想像もしてなかった。
結局、祖父の真意なんて、本当のところ、わかりはしないのだけど……。
思い出を振り返って、考えてみるぐらいはしてもいいのかなと、思った。
…………あれ? いや、ちょっと待った。
「わたあめ。あなた、ノックも挨拶も聞こえてたの?」
「うん」
うん、じゃないが。
「……返事がなかったんだけど」
「だって、空を見るのに忙しくて」
「…………じゃあ、なんで私が来た時に驚いてたのよ」
「それは、いきなりはてちゃんが視界に入ってきたから」
その割には、ずいぶんと間があったような……え、これは私が悪いのかな。
「でも、はてちゃんが来てくれてよかった」
その言葉に、どう返していいかわからず、返事を返せないまま、靴を履き替えて、
「はてちゃん」
校門で別れ際、わたあめは、小さく手を振りながら言った。
「じゃあ、また明日ね」
私が何か言い返す前に。
て、て、て、と、短い足で、跳ねるように、わたあめは歩き出してしまった。
「…………また、明日」
もう聞こえない返事を、小さく呟いて。
その後ろ姿を、私は見えなくなるまで、見つめていた。