「はてちゃんの家族を殺したのは、わたしだよ」
22
わたあめの別荘に行ったあの日から、ずっと考えていた。
多分、そう遠くない内に、こんな事になるんだろうなって。
八月八日の、十七時。
私はわたあめに呼び出されて、私立風光学園の屋上へとやってきた。
普段はやかましい運動部や、遅くまで残っている吹奏楽部の姿は見えず、夏休みの序盤とは裏腹に、酷く静かなものだった。
スポーツに力を入れている私立風光学園は、全国大会の常連だ。
ほとんどの運動部は夏の大会で全国各地に出向いたり、吹奏楽部はその応援に行ったりして……一番、人が少ない時期。
だから、危ないことをしていても、見咎められる可能性が低い……邪魔が入りづらい。
そう、例えば――誰かが柵を越えた、境界線の向こうに立っていても、見ている人が居なければ……咎められることもないのだから。
「はてちゃん」
彼女の名前をそのまま音にしたような、軽くて甘い、ふわふわとした声。
伸ばしっぱなしの髪の毛が、冬の強い風に巻かれて、ぶわっと踊る。
その流れに招かれるまま、今すぐ身体を持っていかれて、投げ出されてしまいそうだ。
ぶかぶかの白い制服の袖は、色とりどりの絵の具で汚れ、かすかにちょんと見える指が伸びて、柵に引っかかる形で、かろうじて彼女を繋ぎ止めている。
「来てくれるって思ってた」
いつも通りの笑顔で。いつも通りの柔らかさで。いつも通りの声で。
「はてちゃんは、優しいから」
わたあめはそう言った。
「わたあめ」
私がなにか言葉を発する前に。
「はてちゃんの家族を殺したのは、わたしだよ」
被せるように、わたあめはそう言った。
拳を強く握りかけて、堪える。駄目だ――今は、まだ。
「気づいてたんでしょ?」
あの日、私はいろんなことを知った。知ったから、考えた。
泡沫潟わたあめの事を、ずっとずっと、考えた。
気になる。知りたい。どうしても。
あの日、私の両親が何で死んだのか。
答えが出ないまま、生きてきた私が、焦がれるように欲した真実は、何処にもないから、代わりの何かで埋め合わせようとする、あの日、生まれた衝動で。
「……………ええ」
だから、わたあめの問いを、私は肯定した。
「そもそも、帰りの車の中で、上江洲さんに昔の事を話させたのは、わたあめでしょ?」
「やっぱり、はてちゃんは、私のことをわかってくれるねえ」
へら、と口元を緩めて笑う、わたあめ。
「はてちゃんには、全部知っててほしいからって、上江洲に頼んだの。はてちゃん、家では大人気なんだよ? わたしがずーっと、はてちゃんの話ばかりしてるから」
「…………それは、少し恥ずかしいけれど」
「久住呂はよくもお嬢様を……って言ってたけど」
「会うのが急に怖くなったわ」
私、わたあめの家に行くって上江洲さんに言っちゃったよ。
……いや、それも、この後次第だろう。
「ていうか……わたしが聞きたいのは、そんなことじゃない」
私は、屋上の中央においてあったマットレスを、わたあめが居る方に向かって、おもむろに、思い切り蹴り飛ばした。
床に敷かれた素焼きのタイルが、高価なマットレスの底面を削っていく、それが摩擦になって、柵には届かなかったけれど。
突然、振るわれた暴力の一端に、わたあめは、だけど動揺しなかった。
「わたあめ、あなたが誘拐されたのは…………」
わたあめは、きっとなんでもお見通しだから、私の言いたいことを、先回りして、先読みして、告げてくれる。本当に……話が早い。
「うん、九歳の時だよ」
23
「つぶあんのお散歩をしてたらね、後ろから車が来て、どんって。つぶあんが轢かれちゃったんだ。お腹を轢かれて、苦しそうだった。わたしも、リードにひっぱられて、転んで、凄く痛かったな」
人ごとのように、わたあめは語る。自分が誘拐された時の事を。
「車から出てきた知らないおじさんが、わたしをそのまま車に押し込んだの。上手くいった、って笑ってたっけ」
わたあめが資産家の令嬢であることを知った上での、狙いすました誘拐。
「ずーっと車の中で、怖いおじさんが隣にいて……夜になって、空も暗くなって、山の中に入ってって、もう、誰も助けてくれないんだ、って思った」
九歳の女の子が、その状況で、どれほど心細かったことだろうと思う。
だけど、泡沫潟わたあめは、もうその時点で、普通じゃなかった。
私の考えが正しかったら、わたあめは、とんでもないことをしたはずだ。
「でも、このまま悪い人たちの所に連れて行かれたら、もう逃げられないな、って思ったの。だから」
ヒントは与えられていた。とっくの前に、見せられていた。
大きな大きな――――お腹の傷。
「走ってる車から、飛び降りたの」
後の調査で、それぞれの車には、二人ずつ人間が乗っていたことがわかっている。
乗用車の方には、私の両親。ぶつかってきた車には、恐らく運転手と、後部座席に一人、誘拐した子供を、見張る役目の誰かが居たはずだ。
だけど、まさか走行中の車両から飛び降りるとは思うまい。気づかれずに鍵を開けて、転がり出ることが出来たのは、きっと奇跡に近かったはずだ。
だから……運転している人間も驚いて、ハンドル操作を誤った。
「わたしは、見てたの」
体を道路に打ち付けて、体を削られて、転がりながら。
泡沫潟わたあめは見ていた。自分が脱出した車が、軌道を変えて。
停まっていた乗用車に、突っ込んで行く所を。
そして――――――。
「わたしは、はてちゃんを知ってた」
自動販売機の横で、車が落下していく様を、私は呆然と眺めていて。
その私を、わたあめは、見ていた。
「だから、はてちゃんが、初めてここに来た時、気づいたんだ。あの時の娘だって」
六年の月日を経て、柔道に明け暮れて、体格や人相も変わってしまっても。
わたあめの観察眼なら、それがいつかの誰かだと、わかってしまった。
「泣いて、叫んで、壊れそうだった、あの娘だって、わたしは、わかってたの」
夢の中で何度も見る景色の中で、私は呆然と、それを眺めている。
だけど本当は、違う。
(あああああああああああああああああああああああああああ)
ずっとずっと叫んでた、ずっとずっと泣いていた。
声が枯れて、喉が潰れて、唾液が出なくなって、血が溢れても、ずっと。
私のせいだと、考えたくなかったから。自覚したくなかったから。
「――――だから、わたあめは、死のうとするのを、やめたの?」
「はてちゃんは、わたしの考えてること、なんでもわかるんだね」
びゅう、と微温い風が吹いて、わたあめの髪の毛が、また、ぶわ、と広がった。
「わたしは、わたしが誰かを殺しちゃったことを、知ってた」
泡沫潟わたあめは、死にたがっている。
「だから、わたしは、どこかで死ななきゃいけないって思ってた」
でも、泡沫潟家は、裕福で、幸せで、満ち足りた場所だ。
誰もわたあめを責めないだろう――仮に事実が明らかになったとしても、だって、わたあめだって、被害者だ。
見えてる世界が違うから、泡沫潟わたあめの世界を、誰も共有できないから。
その感覚に、感情に、誰も追いつけないまま――禊の機会を、奪われてしまうから。
だから、わたあめは、自傷を行う以外の事を、選べなかった。
「だけど、はてちゃんと再会できて、これって、運命だと思ったの」
自分を傷つけることを止めた。だって、それをする権利を持つ者が現れたから。
「わたしの死因は、わたしじゃ駄目だった」
償う機会すら与えられなかった、自戒による自傷ではなく。
「わたしに奪われた人じゃなきゃ、駄目だった」
正当に、泡沫潟わたあめの罪を糾弾できる者。
「だから、わたしの死因は、はてちゃんがいい」
泡沫潟わたあめは、死にたがっている。
「はてちゃんに、空に落として欲しい」
私に、殺されたがっている。
「でも、はてちゃんは優しいから、きっと、わたしがそうしてって言っても、きいてくれないと思ったから」
だから――――受け入れた。
絆して、心を通わせて、共に過ごして、私にとって、かけがえのない存在になって。
「怒っていいよ、恨んでいいよ」
――――――裏切った。
「全部知ってて、よくも騙したなって、憎んで、呪って、責めてもいいよ」
わたあめは、柵から指を離して、腕を広げ、やっぱり、微笑んだ。
「はてちゃんになら、わたしは……大地に落とされてもいいんだ」
痛いのは、嫌だけど、と、結んで。
私は、わたあめの告解を、全て、黙って聞いていた。
「…………言いたいことは、それで全部?」
あの日、目に焼き付いた赤が離れない。
全てを失った瞬間の事が、拭えない。
「うん」
何でも見透かし、見通す、わたあめの目に、私はどう映っているんだろう。
この煮えたぎる怒りが、伝わっているだろうか。
言葉にできない激情を、感じているだろうか。
今すぐ駆け出したい衝動を、抑え込んでいるのが――ああ、きっと通じてる。
だって、わたあめは、この期に及んで微笑っている。
淡く、柔らかに、目を細めて。
……ああ、そうだ。
許せるものか、絶対に。
何があっても、どうあがいても、その感情だけは、変わらない。
そして……小さな口で、わたあめは最後の一言を告げる。
「大丈夫だよ、はてちゃんの罪にはならないよ」
――――だって、屋上には、わたししか入れないことになってるから。
その一言が、限界だった。
――――ボタンをかけ違いすぎて、もう、引きちぎるしかなくなってしまったから。
――――頭に血が上っていくことを自覚しながら。
――――勘違いでも、思い違いでも、間違いでもない、明確な怒りを動力源にして。
――――全てを受け入れようと手を広げた、わたあめの小さな肩を突き飛ばした。




