「わたしの■■は、はてちゃんがいい」
20
日が落ちかけているからか、バルコニーに出ると、海風が若干肌寒い。上着の一つでも持ってくればよかったかも、と思ったけれど、後の祭りだ。
景色を楽しむ為か、椅子とテーブルが設置してあったので、向かい合って座る。
「わたあめ、その……」
なんと言えばよいのだろう。
白黒の空と、水彩のシーグラス。あの二枚の絵に、私は確かに心打たれた。素敵だと思った。感動……したと思う。
けど、私が〝理想の空〟を見て感じたのは、恐怖、に近い感情だった。
吸い込まれたら戻ってこれないような、明るいだけの奈落のような。
けど、それを伝えたところで何になるだろう。何を話せばいいのだろう。
表情からそんな葛藤を読み取ったのか、先に口を開いたのは、わたあめだった。
「わたしね、不思議なんだ」
太陽が水平線の際に差し掛かり、もうほとんど、暗くなりかけた空を見ながら。
「なんでみんな、わたしの絵が好きなんだろうって」
私立風光学園、美術科の特待生、泡沫潟わたあめは、そう言った。
「だって、全部本物よりも、劣ってるんだよ。キラキラしてない、ピカピカじゃないし、ツヤツヤじゃ、ないし」
「そんなこと……」
無い、と思う。だって、シーグラスの水彩と本物を、私は、確かに見比べて。
「そっか」
わたあめは、ふんわり微笑んだ。
「はてちゃんには、そう見えるんだね」
ズキ、と胸が痛んだ。錯覚かも知れないけれど。
ああ、そうだ。
泡沫潟わたあめは、見て、聞いただけで、何でも見透かして、何でも見通してしまう、この娘は。
人と、見ている世界が違うのだ。
わたあめは、現実を超えた世界を描き出しているのではなくて。
わたあめから見た世界を、ただ描いているだけ――だったんだ。
『はてちゃん、絵はしょせん、絵だよ。本物じゃないよ』
白黒の空をぐしゃぐしゃにして、わたあめは言った。あれは、紛れもない本心だった。
「昔から、そうだった。わたしが描くものはね、全部偽物なの。でも、みんなは綺麗っていうの、凄いっていうの、素敵だねって言ってくれるの。わたしには、なんでそれが凄いことなのか、わからないの」
私にとって、大事なのは祖父との繋がりであって――柔道そのものは、アイデンティティにならなかったように。
泡沫潟わたあめにとって、絵は、ただ描けるから描くだけのものであって――その才能を、嫌っていた。
だって、世界はこんなに綺麗なのに、完成するのは紛い物ばかりで、だけどそれを、周りの人は褒め称える。才能を称賛する、天才と呼んで、特別な権利まで、与えられてしまう。
「でもね、わかったんだ。つぶあんが、つぶあんじゃなくなった時」
つぶあん、大怪我をして入院している間に死んでしまって、入れ替えられた、わたあめの飼い犬。
「パパとママは、これで、ごまかせると思ったんだ。つぶあんじゃないのに、ぜんぜん違うのに、一目でわかるのに」
入れ替わった時、ちょっとやだったなぁ、とわたあめは言った。
「皆は、わからないと本気で思ったんだ。そんなふうに見えてるんだって」
――――この人たちとわたしは、見ているものが違うんだって。
「〝理想の空〟はね、二〇歳以下のコンクールで、一番すごい賞を取ったんだって。名前は忘れちゃったけど」
私はそれを、納得してしまう。青と白だけで描かれたこの空は、それだけのものがあると思った。
「偽物の、落ちていけない空なのに」
絵というのが感性を外に吐き出す手段なら……泡沫潟わたあめは、本物に届かない。
周りがどう捉えても、描いた本人が一番自覚していること。
「だから、絵を描くのは、わたし、好きじゃないんだ」
描くたびに、世界を切り取るたびに、人との違いを見せつけられる、自傷行為。
わたあめの見ている世界は……誰とも、共有できないんだ。
「……――――――」
私は、このおでかけを、屋上で過ごすあの日々の延長だと思っていた。
いつも通りの時間を、少し違う場所で過ごす……ちょっとしたイベントの一つ。
だけど、私とわたあめでは、その時間に対する想いが、違った。
わたあめは、私が思っているよりずっとずっと、あの時間を大事にしていた。
わたあめは、私が感じているよりずっとずっと、あの時間を想っていた。
特待生特権で手に入れた学園の屋上、一番空に近い場所。
あの縄張りに居る時だけ、泡沫潟わたあめは、自由でいられる。
私が屋上を訪れたのは、偶然だ。
けれど、境界を乗り越えて、足を踏み入れて、わたあめは私を受け入れた。
わたあめにとって、私は――わたあめ自身が選んだ自由の一部だった。
同じ物を見ているわけではないけれど、通じ合える、友達として。
その私が、言ったのだ。
二人で、どこかに出かけてもいいんじゃない? って。
一人では外出も許されないわたあめにとって、その言葉は、世界を広げるのと同じ意味を持っていたのに。
『私は…………違うと思うな』
その私が、わたあめ自身が絶望した才能に、縛り付けようとした。
だけどわたあめは、何も言わなかった。
それが、私の善意だと、見抜いて、見透かしていたから。
私と過ごす時間を、損なわずに居る為に、嫌いなことを、しようとした。
なんて、傲慢だったんだろう。
『わたし、少し、がんばってみる』
私は、わたあめを励ませたんじゃない。
落ち込んでいたり、失った自信を、取り戻させたわけじゃない。
わたあめにとって、興味を失った行為を、価値を失った徒労を、意味を失った努力を。
もう一度することを、頑張る、って言ったんだ。
私がそれを望んだから……私の為に、頑張ろうとした。
「…………ごめん」
無神経にもほどがある。そんな事にも気づかずに、よかったよかった、なんて、どのツラ下げて。羞恥が体温と連動していたら、多分、私は燃え尽きている。
「ごめん、わたあめ、私、何も考えてなかった」
わたあめの顔が、見れない。消えてしまいたい。
「はてちゃん」
わたあめと、その周りの人しか呼ばない、私のあだ名。
たっぷり十秒待って、顔を上げると……いつも通り。
にやにやと、によによと、からかうような、うれしそうな、そんな笑顔で。
「わたしね、誰かのために絵を描いたの、はじめてだったの」
白いワンピースのポケットから取り出したのは、青い欠片、シーグラス。
「わたしが見てるこれと、はてちゃんが見てるこれは、きっと違うから。ちょっと怖かったよ。はてちゃんに、がっかりされたらどうしようって」
「……そっか、だから」
わたあめは、私が絵を褒めた時、安心して、息を吐いたのか。
わたあめが、初めて人の評価を気にした……絵だったから。
「絵を描くのは、好きじゃないけど……はてちゃんのためなら、楽しかった」
椅子を降りて、て、て、て、と近寄ってきて。
わたあめは、私を後ろから、抱きしめた。
「だから、そんな顔しないで。わたし、はてちゃんのこと、大好きだよ」
「………………うん」
太陽が、ゆっくりゆっくり沈んでいく。後悔を塗りつぶすように、体温を求め合うように、赤らんだ色が消えて、暗い暗い夜が来る。
しばらく、そうしていたけれど、やがて、私を抱きしめたまま、わたあめが小さく呟いた。
「やっぱりわたし、はてちゃんがいいな」
「……え?」
わたあめは、淡く淡く微笑みながら、ゆっくり腕を解くと、ふふ、と笑って。
「わたしの死因は、はてちゃんがいい」
――――――聞き間違えかと思った。
もう一度、聞き返そうと思った。
だけど、その前に、首をこてんとかしげて。
「ね、ご飯、頼もうよ。わたし、お腹すいちゃった」
そう言った。
「う、うん」
それ以上、問い詰められずに、部屋に戻るわたあめを、追いかけた。
テーブルの上に、シーグラスが置かれたままであることに、私は、気付けなかった。




