「はじめて、自分の為に描いた絵なの」
18
壁の一部がガラス張りになっていて、景色を一望できる檜造りの浴室なんてものが備え付けられた別荘を作った人間は、一体何を考えているんだろう。
まあ、水平線の向こうから、望遠鏡でこちらを見ない限りは、覗かれる心配はなさそうではあるのだけど……上江洲さんの話によると温泉をひいているらしいが、私はシャワーだけで済ませてしまった。
ちなみにこの別荘、浴室がなんと三つもあって、わたあめはバルコニー備え付けの露天風呂の方に行っている。わたあめには、
「えぇ、一緒にはいろうよ」
と言われたけど、固辞した。別に含みがあるわけではなく、私がわたあめのあの超毛量の髪の毛を風呂場で見たら最後、徹底的に面倒を見なければ気がすまなくなってしまうことが予期されたからだ。
濡れた服は洗濯機に直行、乾燥まで含めて数時間。下着は手洗いして浴室乾燥だけど、帰る頃には乾いているはずだ。
備え付けのバスローブを借りるのはちょっと罪悪感めいたものがあるけれど……とりあえず、わたあめが出てくる前にお昼ご飯を作ろう。
出前もちょっと考えたけど、今はちょっと衣類の防御力が低いので。
色々食材は用意してもらっているけれど、あまり手間をかけたくないから、サンドイッチにしてしまおうか。食パンをトースターに入れて、トマトを切って、厚切りのベーコンを焼いて、レタスを洗って、パンが焼けたらバターを塗って……待てよ、あの子たしか野菜嫌いなんだっけ。果物も嫌いとか言ってたけど、トマトはどうだ?
……まあ、いいか、無理やりねじ込もう。
「いいにおいがするー……」
そんな事を考えていたら、べたべたと足音を立ててわたあめがキッチンに入ってきた。
「ああ。ねえわたあめ、あなた苦手な食べ物って………ちょっとまったぁ!」
「へ? どーしたの、はてちゃん」
わたあめも私と同じバスローブ姿なのだけど……。
髪の毛、髪の毛が! あの超毛量の髪の毛が!
ざぶざぶに濡れたまま、全く水気を切らないから! 水がぼたぼた溢れている!
「一歩も動かないで、いい!?」
「ふぁい!?」
その場で厳命した私は、ダッシュでバスタオルを取りに戻り、そこから緊急吸水作業を開始する羽目になった。
ソファに座らせて、不満そうだったのでできたてのサンドイッチを与えると、もぐもぐ食み始めたので、その隙にバスタオル三枚を使って、髪の毛からしっかり水分を抜いていく。
「いつもは久住呂にやってもらってるからぁ……」
言い訳がましく呟くわたあめを尻目に、次はドライヤーで先端から乾かしていく。
熱風と冷風を使い分けて、なるべく傷まないように……ううん、さっきの髪型に戻すのはちょっと無理だな、多分シャンプーを全部落としきれてない気がする……。
「久住呂さんって?」
「わたしの、身の回りのお世話のひと」
「ふうん、上江洲さんだけじゃないんだ」
まあ、お世話と行っても異性にできることはある程度限りがあるだろうから、同性の人もそりゃあいるか。
「久住呂は、スーパーメイドさんなんだよ」
「現代では絶対に聞かない二つ名ね……」
今朝方の二つ結びは、きっとその久住呂さんが物凄く頑張ったに違いない。この毛量をしっかりまとめ上げて、ヘアスタイルという概念まで持っていけたのは技巧と努力の賜物だ、尊敬する。
「はい、これでよし」
まあちょっと湿ってるけど……完全に乾くまでやってたら日が暮れてしまう。
自分の分のサンドイッチをかじる。うん、即興の割にはなかなか美味しい。
「あ、そうだ。嫌いなものとか入ってなかった?」
「うん、大丈夫」
ちまちまとハムスターのように少しずつ食べながら、わたあめ。
「はてちゃんがつくってくれたから、美味しいよ」
正面からそう言われると、ううん、ちょっと照れる。
軽い雑談を交えながら食事を終えて一息つくと、ふわっとした眠気がやってきた。
……そうだ、結局、ちゃんと寝れてないんだった。シーグラス探しで体力を使って、シャワー浴びてご飯食べたら、誰でもこうなるか。
「ね、この後はどうする? 少し部屋で休んで…………」
「くぅ」
「………………えっ、嘘でしょ」
私が少し思案している間に、わたあめはふっかふかのソファに身を預け、目を閉じていた。は、早くない?
……でも、私が多少なりとも疲労を感じてるのだから、わたあめもそうか。
まあ、ちょっと休む時間を設けても、良いのかも。
ベッドで横になるほどでは、ないけれど……。
微睡みに身を投げてもいいかと思ったとたん、急激にまぶたが重くなるのだから、不思議なものだ。空調は暖かくもなく、寒くもなく、体が冷えることもない、と思う。
規則的で穏やかな寝息をメトロノームにして、もう逆らわずに目を閉じる。
意識が溶けていくまで、そう時間はかからなかった。
19
「…………んぅ」
まぶたの向こうから、ちくりとした光を感じた。
ぼんやり目を開けると…………ああ。
西日が窓から差していて、太陽がゆっくりゆっくり、落ちていく所。
青空はもう遠く、夕暮れが水平線の境界を、今まさに越えようとしている所だった。
……ああ、嫌な空の色、燃え広がる、炎みたいな色。
ずっと青空だけが広がってくれていたらいいのに――――。
けれど、目を焼く光に少しずつ慣れてきたら、別のものが、視界に映った。
広いテーブルに腰掛けて、わたあめが後ろを向いて、座っている。
ぱちゃぱちゃ音を立てて、水を汲んだバケツで手に持った筆を洗って、傍らのパレットから色を掬って、何かを塗り込んで。
それを何度も繰り返す。筆から伝う、色のついた水が袖の中に流れ込んでいって、バスローブの裾を汚していく。ああ、あの制服は、こうやって汚れていったんだ――――。
「わた、あめ?」
それは、それは小さな呟きで、絵を描いて、集中してる状態のわたあめには聞こえないだろう、と思った。
だけど、彼女は、あ、と声を上げて。
「はてちゃん、おはよう」
振り返りながら、そう言った。
西日の逆光を、ふわふわとした髪の毛がカーテンみたいに遮って、薄っすらと透けて見えて――ぼやけた視界が明瞭になり、だんだん意識がはっきりしてくる。
「ね、これ、どう?」
私が目覚めたのを確認したわたあめは、椅子からひょいと立ち上がって、今まさに色を塗っていた画用紙を持ってきて、私に見せた。
「――――え」
寝起きで浴びるには、情報量が、あんまりに多い。
描かれたものが何であるかは、すぐに分かった。
底の浅い硝子の器に盛られた、色とりどりのシーグラス。
よく見たら、モデルとして、テーブルの上に、同じものが置いてあった。
水彩だ。淡い色の重なりを使って、くすんだシーグラスの輝きを、色を塗るのではなくて、光を削り出すようにして、描いている。
青、黄、緑、白……同系色の色だって、何一つ同じものがなくて。
三角,四角、丸……様々な形が、それぞれの透明を持っている。
あのスケッチは、白と黒で、色すら思い浮かべられるほどだったけど。
わたあめが、〝色〟を使うと、こんなにも、キラキラとした世界を切り取れるのか。
「…………凄い」
語彙力がないから、褒め称えるべき言葉がわからなくて、そんな声しか出てこない……けど。
「凄いよ、わたあめ。とっても綺麗」
私はその絵を見て――吸い込まれるような透明感に、美しい煌めきの可視化に。
……思わず、ほっとした。シーグラスに見惚れていたわたあめの横顔を、思いだす。
描きたいと思うモチーフを、見つけられたんだ。
だったら、今日のお出かけは、大成功じゃないか、夏休み最初の思い出に、こんな嬉しいことはない。
「よかったぁ」
わたあめは、その私の言葉に……大きく、息を吐いた。
安心したように、ほっとしたように。
(……?)
その笑顔に、何故か違和感を覚えてしまう。何だろう、この感じ。
「はてちゃん、そろそろ洗濯物、乾いたんじゃない?」
「えっ、あっ」
その言葉で、はっと我に返る。見惚れていたのもそうだけど……。
壁掛けの時計を見ると、もう午後六時半近く。後二時間と少しで、お迎えがくる。
「着替えよ。夕ご飯は、出前でもいいかな。まだあんまり、おなか空いてないかも」
「そ……うね、そうしましょう」
使い終わった画材をほったらかしにして、わたあめはぱたぱたと階段を上がっていく。
……片付けたいけど、どうやって処理するのが正解なのかわからないな。
一旦、脱衣所に戻って、乾いた服に手早く着替える。ありがとう、着心地の良かったバスローブ、出来れば家に持って帰りたかった。
リビングに戻っても、まだわたあめの姿はなかった。手持ち無沙汰になってしまって、もう一度、シーグラスを描いた水彩画を手に取って、テーブルの上にモチーフと見比べてみた。時間帯が違うから、窓からの光の入り方も違うのだろうけれど……実物よりも、絵のほうが、やっぱりキラキラしていて美しく見えるのは、贔屓目だろうか。
誇張して表現するのも、画法の一つなのかも知れない。
透明っていうのは透き通っているということだ。
不透明な画用紙は、当たり前だけど、向こうが見えない。けれど、絵の具を重ねて塗り拡げると、存在しない〝透明感〟が生まれて――現実を超える。
「…………なんだか、凄いな、わたあめって」
何でも見透かしてしまう、見通してしまうあの瞳で見ると、世界はこんな風にキラキラと見えるのかも知れない。
ぼー、っと絵に見惚れてしばらく。
……わたあめが全然降りてこないな。
……あのワンピース、一人で着れるのかな。
じわじわと不安になってきて、一度絵を置き、階段を上る。
「わたあめー、大丈夫―?」
広い別荘だけにいくつか寝室があるのだけど、そのうち一つの扉がわずかに開いて、隙間から明かりが見える。
「わたあめー?」
ゆっくり扉を開いて覗き込むと……よかった、着替えを終えたわたあめが、ベッドに腰掛けていた。胸下の紐を結べていなくて、制服の時以上にてるてる坊主みたいだけど。
「ほら、後ろ向いて、結んであげるから」
室内に入っても、わたあめは微動だにしない、こちらを見ない。
……これは、集中しているわたあめだ。視線は、壁に向けられていて、私もそれを追いかけて、目をやった。
……豪華な額縁に収められた、一枚の絵が飾ってあった。
さっきほどの画用紙とは比較にならない、大きなキャンバスに、幾重に色が塗り重ねられた……中学校の授業で少しだけ触ったことがある……油絵だ。
そこに描かれていたのは、空、だった。
ただ一言で、私たちはそれを青、と呼ぶけれど。
縁の青は薄く、中心を起点に濃くなっていって……そのグラデーションの狭間に、一体どれだけの色彩が刻まれているんだろう。
濃淡の違いで、光の入り方で、隣にあるものに影響されて、何十何百何千何万と分岐する――人間に知覚できる全ての青が、そこに詰まっているんじゃないか、なんて。
そんなふうに、思ってしまった。
渦巻く雲が、その青を遮って、流れを生むことで、その空には奥行きが生まれた。
まるで、ぽっかり天に開いた、大きな大きな穴のよう。
身を投げだしたら、重力が逆さになって、落ちていってしまうかのような。
説明されたわけじゃないけれど――私は、確信した。
これは、わたあめの絵だ。わたあめが描いたんだ。
空に落ちていけたらいいのに、と。
わたあめは、口癖のように言うけれど。
それは、独特の感性を持つ彼女が語る、何かの比喩だと思っていた。
私が変な事言わないの、と言うと、わたあめは、えぇ、と不満げにしたり、にへら、と笑ったりしたけれど。
違ったんだ。わたあめは、ずっと本気だった。
屋上を占有し、寝転んで、あらゆる邪魔を排除して、視界の全てを青空で埋めて、空に向かって手を伸ばす。
あれは――――絶対に届かない場所への、わたあめの憧憬だったんだ。
何を思ってこの絵を描いたんだろう。何を感じてこの空を描き出したんだろう。
絵から視線を外して、わたあめの顔を見るのが怖かった。
「わたしがね」
だから、先んじて言葉を発したのは、わたあめだった。
「はじめて、自分の為に描いた絵なの。タイトルは、〝理想の空〟」
わたあめにとっての、理想の空。
それは――――落ちていくための、空。
「はてちゃん」
ぴょん、とベッドから立ち上がって、わたあめは言った。
「ちょっと、おはなししようよ」




