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8.
日曜日、午後二時。
僕は寮の近くのファミレスの隅の席で、ドリンクバーのジンジャーエールをストローでかき混ぜていた。片耳のイヤホンに耳を澄ますと、LINE通話の向こう側、寮の部屋の音声が小さく聞こえてくる。
『入って。散らかってるけど』
『お邪魔します。……へえ、こんな感じなんだ、寮って』
『狭く見える? でも、意外と快適だよ』
スマートフォンは、永くんの服、普段彼が着ることはほとんどないだるっとしたパンツのポケットの中に入っているから、音量を最大まで上げても会話はよく聞こえない。僕は一応の暇つぶしに持ってきた文庫本を開きつつ、けれどももちろん集中なんてできないままに、小さな声に必死で耳を澄ませた。
『なんか飲む?』
『何があるの』
『お茶のペットボトル。冷蔵庫共有だから、とってこないとだけど』
『あー、とりあえず一本あるから大丈夫。おかまいなく』
『了解』
ぽんぽんとテンポのいい会話は、僕と慧くんの会話をそのまま外から聞いているかのようだった。永くんと僕の会話がピッタリ合うことを考えれば少しも不思議なことではなかったけれど、なんだか複雑な気持ちになる。
永くんは『上手くやれる気がしない』なんて言ってたけど、そんなこと、あるはずないのだ。僕と仲良くなれる慧くんは、永くんとだって、当たり前に仲良くなれるはずだった──ただ、僕に先に出会ったというだけで。そんな気持ちがもやもやと湧き起こり、僕はずずっとジンジャーエールを啜る。ごそごそ音がして、音が少しくぐもって、永くんがどうやら座ったらしいことがわかった。
『……で、だ』
ふたりは今、どんな姿勢で部屋にいるのだろう。昨日必死で掃除した部屋の、一生懸命コロコロをかけたラグに、ふたり並んで座っているのだろうか? 僕と永くんがいつもそうしているみたいに? わからない。やっぱWEBカメラを買ってこっそりつけるべきだったかももしれない。ううー、と頭を抱えて目を閉じる僕の耳に、永くんの、でも確かにいつもの永くんのものじゃない声が聞こえてくる。
『最初に、言い訳させてあげてもいいけど?』
……この言い方、永くんじゃない。
永くんだったら、もっと冷たく、切り捨てるみたいに言うだろう。永くんは僕より端的で、僕よりずっと容赦がないのだ。そして永くんには、僕の話し方、こんな感じに聞こえているのか……。永くんがちゃんと『演技』をしていることを感じ取り、僕は思わず姿勢を正した。
本気なんだ、永くんは。
『言い訳?』
そんな永くん(演じる僕)に応じる慧くんの声は、いつもどおりの、少しの笑みを含んだ余裕のあるものだった。『わかんないの?』と応じた永くんの声はちょっとムッとしたみたいな色を帯びていて、それがまた僕っぽいなと思う。
『この間、『顔』とか言ったことについてだよ。弁明させてあげるって言ってるの』
『ああ、それか』
慧くんは得心したように軽く頷き、『弁明って言われてもな』と、どこか面白そうに言う。
『遠の好きなとこが顔なのはほんとだからな……』
『……あくまで、そういうスタンスで行くんだ?』
『いやスタンスもなにも、事実なんだって。一目惚れだから』
『……入学式で見かけた、って言ってなかったっけ? 僕のこと』
僕とおんなじ顔をした、僕じゃない永くんの前で、あくまでそう言い張ろうと言うのか。……同じ不信感を抱いたのだろう、永くんが『信じられない』を言外に滲ませながら問う。慧くんは『うん』と頷いた。
『入学式でさ、目立つ赤白頭が居るなと思って眺めてたら……遠が、すごい楽しそうに笑ってて。その顔に落ちたっていうか』
落ちたってなんだ、落ちたって。……というか、と、僕はちょっと口元を抑えた。──『楽しそうに笑ってて』?
(……それって、)
慧くんの声が、どうしてだろう、いつもより甘ったるくなっているみたいに聞こえる。頬が熱くなっているような気がする。
それって。
(……『顔』、か?)
僕と永くんは一卵性双生児で、顔立ちそのものはよく似ているけれど、性格は結構違うとよく言われる。そして同様に──その性格が現れる『表情』も、かなり違う、という自覚があった。永くんが笑うときは片方だけ唇を曲げるみたいにして『ニヤッ』と笑うし、僕はあっぴろげに笑いがちなのだ。
だから。……だから? 緊張に高鳴っていた心臓が、どくんどくん、今までとはおそらく違う理由で、今までよりずっと高く鳴り響く。
『……あの顔がこっちを向いたら、絶対幸せな気持ちになるだろうなと思った。それが理由』
まさしくその『幸せ』のものみたいな声で、なんだか、たいへん恥ずかしいことを言われている気がする……いや待って、これ本当に僕が聞いていいやつだろうか? 咄嗟にイヤホンを外すかどうか迷った僕の耳に、永くんの勢い込んだ『わ、』が聞こえる。……わ?
(! ……『わかる~~~!!』の『わ』かもしかして!?)
なにせ僕は永くん馬鹿で永くんは僕馬鹿なので、お互いお互いの笑い方が大好きだ。僕だって、『永の笑い方ってかっこいいよな』って言われたら絶対『わかる』っていう。だけど今はだめだろ! この兄、弟ネタにチョロすぎて心配になるというか、大丈夫か!? こんどはハラハラで口を抑えた僕の耳に、慧くんの『わ?』の声が入ってくる。どうにか堪えたはいいけどどう誤魔化すんだ。緊張しながら耳をすましていると、どうやら態勢を立て直すことに成功したらしい永くんの、少し上ずった声が聞こえた。
『い、いや……わ、笑った顔が魅力的なのなんて、誰でもそうじゃん。説得力ないよ!』
『……なんか今日、手厳しくない?』
『き、厳しくなって当然だろ!』
『うーん……でもなあ……。はじめて声かけたとき、じっと見てきた猫みたいな目が可愛かったとか、厳しいこと言うときもにこにこしてるタイプなのも可愛いとか、ころころ表情が変わるとこが可愛いとか……なにを言っても結局『顔』になるというか』
『……うん? いや、それ、『顔』かなあ……??』
『顔だろ。見てて飽きないし、どんな顔だって可愛く見えるんだから』
『うわあ』
今の『うわあ』、完全に素だっただろ永くん──と思いながら、僕は肘をついて両手で顔を覆った。本当に──本当に、何を聞かされているんだ、僕は? 言っている慧くんのほうが楽しくて幸せでたまらないみたいな、声なものだから、僕はそれがいつものからかいを含んだものでもないこともすぐに分かってしまう。
慧くんは、たしかに本心を告げている。僕が可愛くてたまらないのだと、きっと、僕の方を見ている時たまにする目を少し眇めたような笑みで言っているのだ。
でも。
(……でも。今、慧くんが言ってるのは、本当のことだけど。……だけど……)
だけど──と、思い至った途端、さあっと冷気にさらされたみたいに、全身の熱が引いていく。
『だけど』だ。慧くんの言葉にきゅうっと胸が掴まれたみたいになった、そのどこか甘いような痛みが強いほど、反動として起きた痛みも強くなる。
心臓が握りつぶされるみたいな、息ができない気さえする痛みだ。
苦しい。嬉しい。
嬉しくない。──喜べない。
喜べる、はずがない。
(だって、……今の慧くんは、それを、『永くん』を見ながら言ってる)
慧くんは今、あの優しい眼差しを、僕ではなくて、永くんに向けている。──今の『本当の』言葉すべてを、永くんのことを『可愛い』と思いながら言っているのだ。そんなのってないだろ。なんだよそれ。どれだけ言葉を並べられたってこれじゃあ無意味だ。
どれだけその言葉にときめいたって、ときめく僕が馬鹿みたいなだけだ。そうだ、と、僕はやっと、目を背け続けていた事実に気がついた。
馬鹿は僕だ。──大事なのは、慧くんが信じられるかどうかなんかじゃなかった。最初から。
大事なのは。
『……ふーん』
だけどもう、すべてが遅い。すべてが遅いことを突きつけるみたいに、永くんのつまらなそうな声が聞こえる。つまらなそうな──何かを、企んでいるような声だ。
『……でもさ、それって、言ったら何だけど、子ども相手みたいな感想だよね。猫とか言ってたから、ペットとかも近いか』
なにを言い出す気だ。
『そうじゃない、って。……小動物に対する『可愛い』とは違うんだとしたらさ』
……なにを、する気だ?
『慧くんは、僕のこと、抱きたいって思うの? やっぱり』
永くんが今、一体何をしているのか──なにせ永くんのことなので、僕にはわかってしまうのだ。見えなくても。やめろ馬鹿、と叫びだしたくなった。やめろ、やめてくれ、僕の。
(僕の慧くんに、手、出さないで……!)
──なんて、今更気づいたって、本当に、何もかもが遅いのに。泣きそうになりながらイヤホンのついた耳を片手で覆う。
何も聞きたくない、でも、何も聞き漏らしたくない。沈黙が、いち、に、さん、よん──なぜか数えた秒数が5を超えた時、慧くんの声が聞こえてきた。
『……これさあ』
呆れたような声だった。
『君が今こうやって男に迫ってること、『橘先輩』に、言いつけてもいい?』
今の五秒は──そうか、と、僕は気がついた。
今の五秒、慧くんは永くんの目を見つめていた。そして永くんはきっと、慧くんの目を見つめ続けていることが出来なかった──というか、なんなら最初から目を合わせることが出来ないでいたのかもしれない。耳が痛むような擦過音と、がたがたとなにかが崩れるような音。永くんが慧くんの側から飛び退いたことがその音でわかる。
そうして、遠くなった慧くんの声が、かろうじて僕の耳まで届く。
『やっぱりというか、まあ、そうだよな。最初から変だとは思ってたんだ。──『僕よりシャイな』永くんだろ、君』
『……なんで……』
『色々あるけど、まあ、遠に聞いたらいいよ。多分もう、わかってるから。……で? 遠は? 聞いてるんだろこれ。それとも、どっかにカメラある?』
『……僕の独断だとは思わないんだ?』
『思わないよ。だって、わざわざこのために染めたんでしょ、髪』
ほんとうにかろうじて聞こえてくるだけの慧くんの声からは、彼がどんな気持ちでいるのかを推し量ることは不可能だった。呆れているだろうか、怒っているだろうか。そのどちらもが享受すべき感情だった。呆れられていたとしても、怒られたとしても構わなかった。
ただ、──ただ、見捨てないでいてくれたら、それだけでいい。
『遠』
少し張り上げた、僕が聞いているのを確信している声が、僕を呼ぶ。
『話をしよう、って言ったのはそっちだろ。早く来て』
待ってるから。
慧くんはそう言って──その声はひどく優しくて、僕はなんだか泣きそうになりながら、ファミレスの伝票を引っ掴んで立ち上がった。
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