6-1
6.
今日の講義はあまり人気じゃなくて、『レジュメさえ集めて試験をパスすれば単位がもらえる』という評判もあってか、開始五分前になっても教室は閑散としていた。僕は小さくあくびを噛み殺し、ちらりと隣の席を伺う。
『恋をしなよ、遠も。俺とさ』
……とか言っていた慧くんが、涼しい顔で座っている。そのあんまりいつもどおりな顔を、僕は思わずじーっと見つめた。
「何? 寝癖でもついてた?」
「……ううん。いつもどおり格好いいよ」
「いきなり何。照れるな」
ちっとも照れてる顔じゃない。僕はなんだか釈然としない気持ちになった。昨日のあれは……全然そんな感じじゃなかったけど、やっぱり、冗談だったのだろうか? むすっとしていると、慧くんの指が僕の髪を軽く撫でる。
「遠はなんか可愛いな、今日。……意識してくれてる? もしかして」
すっと耳元に唇が寄ってきて、囁かれた言葉にぴゃっと跳び上がる。何? 何されたの今??
「すっ」
「す?」
「スケコマシ!!!!」
「遠って、たまに語彙が古いよな……」
「少女漫画みたいな台詞言ってくるやつに言われたくないな!?」
可愛いだの意識してくれてるだの、その顔じゃなかったら許されないぞ。いやその顔でもギリ許されないかも。威嚇する猫みたいになる僕に、慧くんは「ごめんごめん」と言って笑った。
「なんか面白くて、つい。俺、好きな相手はからかいたくなるタイプだから」
「……そういうの、令和的によくないと思いまーす」
「遠的には?」
「僕的にも別に楽しくない」
「じゃあやめとくか」
慧くんはどこまでも余裕綽々で、その余裕がどうにも信用ならないのだと今気づいた。永くんのことを思い出した。永くんは僕に比べると落ち着いているというか淡々としている方で、でも、そうであるはずの永くんは、橘先輩の前ではあんまり落ち着いていなくて、呼ばれればすぐにとんでいくし、橘先輩の一挙手一投足が気になるみたいにじっとその挙動を伺っている(さすがにじっと見ていたりはしないし、本人は隠しているつもりだと思うけど)。しかし、慧くんにはまるでその手の可愛げというものが感じられない。僕はじーっと慧くんを見て、「あのさあ」と神妙に口を開いた。
「慧くんてさあ、僕のことが好き? ってことでいいんだよね?」
「うん? そうだけど」
「どこが好きなの」
「え?」
「僕のこと。なんで好きなの」
慧くんはちょっとおもしろそうな顔をして、「そうだな」と少し考えた。
「なんで、は、ちょっと難しいけど。『どこが』は言えるよ」
「……どこ?」
なんだろう。自分のいいところを聞く機会なんてほぼないから緊張する、と思いながらじっと見た先で、にこりと笑って慧くんは言った。
「──顔、かな」
「…………は?」
めちゃくちゃ低い声が出た。
顔? 一卵性の双子の片割れに向かって今「顔が好き」って言ったかこいつ? 本気で? 問い詰めてやろうかと思った瞬間に教室の扉が開き、教授がやってくるのが見えて思わず舌を打つ。
レジュメが配られてくるのを受取って隣の慧くんに渡すとき、彼のほうを見なかったのは、僕の精一杯の意趣返しのつもりだった。
この講義、一般教養科目のひとつである『哲学概論』は、高校倫理の延長のような授業だった。ソクラテスもプラトンも読んだことはないけれど、いろいろな『考え方』を聞くのは、理解できるかはともかくとして面白い。睡魔に負けている学生も多い中、僕はレジュメに視線を落とした。
「論理的思考とは、物事を理由や根拠に基づいて、矛盾や飛躍なく考えるための力のことで……」
眠気を誘うと評判高い教授の声でも少しも眠くならなかったのは、僕が真面目な学生だから、ではもちろんなかった。隣で頬杖をつき、なんなら今にも寝落ちそうになっている慧くんを横目で見る。
──『絶対に信じられるものが、どこよりも安心できる居場所が欲しくて恋をする』と、慧くんは言った。
僕はレジュメをちらりと見下ろした。教授の声が、『演繹法』と『帰納法』について、ごく一般的な内容を読み上げている。一般的な原則から具体的な結論を導き出す、具体的な観察から一般的な法則を導くそれぞれの思考法。……例えば、と僕は考える。
例えば、これらの『論理的思考』で、恋という命題を解き明かすことは可能だろうか? 人が恋をするのは安心感のためだと、居場所を作るためだと、──故に『恋をすることで安心感や居場所を得ることができる』と、導き出すことができるだろうか? 答えは考えるまでもなかった。
できるわけがない。
『恋』がこの世で最もと言っていいほど不確かな感情であることは、ありとあらゆる物語が、ありとあらゆる歴史が、あるいは現実社会のデータが証明している。もはや三組に一組のカップルが離婚する時代──は日本の話だっけ? どうだっけ。ともかく、と、僕の冷静な部分は冷静に告げる。
夢物語だ。調子の良い、僕の弱みに付け込んだただの口説き文句、そう考えるのが妥当な台詞だ。馬鹿にされている、と怒ってさえいいかもしれない。
けれども僕がそうできないのは──彼の『告白』を無碍に出来ないのは、僕にとっての慧くんがとっくに『大事な友人』であるからだったし、彼の言葉が少なくとも本気ではあると、流石にそれはわかるからだった。彼は本気だったし、そう考えれば、僕が弱っているタイミングを狙っていることそのものが、彼の本気度を証明しているようにも思えた。
(……いや、でも)
と、そこまで考えて、僕はきゅっと眉根を寄せる。
(『顔』って言ったんだよな、さっき)
吊り気味の目に童顔の僕の顔は、たしかに可愛い系ではあるけれど、一目惚れされるほどのものという自信はまったくない。それになにより、慧くんがはじめて僕を見たという入学式で、僕のとなりには、全く同じ顔をした永くんが居たはずなのだ。それなのに『顔』? じゃあ永くんでも良かったんだろうか、僕が同じ学部だったから僕を口説いているだけで? そう思ったらとたんにムカムカしてきて、僕はすっかり眠りに落ちそうになっている慧くんの手をシャーペンで強めにつついた。
「……ッて」
なに? という顔で軽く睨まれ、僕はつんと視線をそらした。講義に集中していないほうが悪いに決まっている──別に、いつもだったら起こしたりしないし、寝てても問題のない講義ではあるけど。慧くんは不可解な顔をしたまま、それでも講義中なので、何も言わず視線を前へと向ける。
もし、『恋をすることで安心感や居場所を得ることができる』という命題が、少しは真実であったとしても。
そこには条件があるはずだ、と僕は思った。すべての恋がそうでないことは明らかだから──『そういう恋』には、条件がある。
少なくとも。
僕でも永くんでも良いような理由で僕を好きになる──そういう相手とは、そんな恋は、できるはずがないんじゃないか?
面白かったら☆評価/ブクマ/一言感想など、応援いただけると励みになります! よろしくお願いいたします。




