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5.
わあー、と、僕は間抜けにその高い建物を見上げた。
「……田舎者なこと言っていい?」
「どうぞ?」
「タワマン、はじめて見た……」
慧くんはあははと楽しそうに笑った。
「そんな大したもんじゃないよ、狭いし。でもまあ、いらっしゃい」
「お邪魔します」
そもそも敷地内に入るまでの門で鍵が必要で、建物に入るためにも鍵が、そして広いエントランスを抜けてエレベーターで上がって各部屋にも当然鍵が、家に入るために一体いくつ鍵が必要なんだ。僕はお上りさんそのままの顔でこっそりあたりを見回しながら慧くんについていき、慧くんは「どうぞ」と僕を家に通した。
東京・湾岸エリアのタワマンから見える景色は、僕には、すごいのかどうかもよくわからなかった。知らない世界だ、という気だけがひしひしとした。出される飲み物が普通の麦茶じゃないなんだかお洒落なお茶であることも、ふかふかのソファーも、大きな壁掛けテレビも、それこそテレビの中の世界みたいだ。
(……どうして、こんなことになったんだっけ?)
今日はなんの予定もない日曜日で、別に、元々慧くんと遊ぶ約束をしていたわけじゃなかった。けれどもなんだか話の流れで。
「謎解きイベントだっけ?」
そうだ、謎解きイベントだ。僕ははっとして頷いた。
「そうそう。永くんがさ、うきうきして出かけて行っちゃって」
橘先輩と。
という部分は口にせず、僕は小さく溜息を吐いた。別に、永くんとだって約束していたわけじゃなかった。というかそもそも、僕らは『約束』みたいなことをあまりしない。しなくてもお互い暇ならお互いを遊び相手にする、そういう習慣がついているからだ。
そして今日は、永くんのほうが暇じゃなかった。ただ、それだけのことなんだけど。
「……正直、慧くんに誘ってもらって良かったよ。課題のことも忘れてたし」
「そうそう、課題な。ノーパソ持ってきた?」
「持ってきた。もーさくっと終わらせよ……」
慧くんと一緒にとっている選択授業で来週提出のレポートがあって、ひとり部屋でだらだらしていた僕のもとに『暇ならうちで一緒にやろう』と連絡が来たのが、永くんがうきうきと出かけていった直後のこと。僕は二つ返事で慧くんの誘いに乗ってここにやってきた、というわけなのだ。
「で、終わったら遊ぼう僕らも」
「謎に対抗してるな。別にいいけど、何して遊ぶ?」
「スマブラとか?」
「いいね」
このおしゃれな家にあるのかわからないけど、と思いながら言ったら慧くんがさくっと頷いてくれたので、僕は俄然やる気になった。スマブラは永くんとやり込んだゲームのうちひとつで、まあまあ自信があるのだ。「よし」と気合を入れてパソコンを立ち上げ、書きかけのレポートのファイルを呼び出し、持参してきたレジュメを広げる。慧くんは準備よく『大学で借りてきた』という参考文献を机の上に置いてくれて、それからしばらくは真面目に課題をこなす時間になった。授業の内容を思い起こし、たまに「~って~っていう意味だっけ?」みたいな確認を入れていきつつ、二時間程度でどうにか形を仕上げる。お互いに一読して軽いツッコミを入れあい、言い回しや誤字脱字を修正し、僕は大きく体を伸ばした。
「……よーし、できた! ってことで!」
「はいはい、お疲れ。珈琲でも淹れる?」
「淹れるって、え、まさかのハンドドリップ!? あらゆるお洒落なものがある家だ……」
「いやごめん、コーヒーメーカーだけど」
「十分お洒落だよそれでも。いただきます」
慧くんは一旦キッチンに引っ込み、僕はファイルがきちんと保存されていることを確認してパソコンを閉じる。そしてちらりとスマートフォンを見る──連絡は、ない。今頃橘先輩と楽しくやっているんだろうな、と思うとなんだか憂鬱になり、僕は小さく溜息を吐いた。
「……そんなに気になるなら、ついていけばよかったんじゃない? 遠も」
こと、と、ソファー横のサイドテーブルに珈琲のカップが置かれて、慌てて視線を上げる。
「うーん……僕、謎解きあんま得意じゃないからさ。結構高いし」
「ふうん? まあ、楽しめないものに金払いたくはないよな」
「それ」
慧くんはこの部屋が示すとおり僕とは別世界の住人なのだけど、普段それがあまり気にならないのは、金銭感覚の根幹の部分が──少なくとも、『かけたくないところにはかけたくない』という最低限の部分が──共有できるという理由もあるよなと思う。僕はしみじみ頷きながら珈琲を一口飲み、それから「うまっ」と目を見開いて慧くんを見た。
「え、美味しい。すごい、家でこういうの淹れられるんだ?」
ソファーのとなりに座った慧くんが、「親が好きなんだよ」と苦笑する。
「だから多分、豆がいいんじゃない? 知らないけど」
「ええー、それ、勝手にいただいちゃって大丈夫なの……てか、手土産とか用意するの忘れてた完全に」
「いらないって。今日はそもそも帰ってくるの夜中だし」
「……そうなの?」
両親が留守にしている、という話は事前に聞いていたが。僕が首を傾げると、慧くんは軽く頷いた。
「観劇が趣味なんだけど、夫婦揃って。大体そのあと飲んで帰ってくるから」
「……お洒落だー!」
そしてラブラブだ。出てくる情報ぜんぶフィクションみたいだな、と感心する僕に、慧くんが笑う。
「遠、今日だけでそれ何回言うの? ……まあ、お洒落なのは家と親であって、俺じゃあないけどね」
「慧くんだってお洒落、っていうか、格好いいよ」
この空間に馴染んでいる──いや、彼の家なのだから当然なのだけど──慧くんが、僕にとっては一番お洒落で格好いい。お世辞も忖度も抜きで、相変わらずの甘そうなミルクティー色の髪とスマートな黒のシャツとの慧くんの姿は、そのまま雑誌から抜け出してきたかのようだった。僕も慧くんに紹介してもらった美容室で髪だけは手入れしているけれど、とても彼みたいに格好良くは見えないだろう。ほんと、なんでこんなスマートな人が、僕の友達なんてやってるんだろうな。思いながらまじまじ慧くんを見ていると、ふと、彼の目が真っ直ぐに僕を見返してきた。
「……?」
なんだろう。なにかついてる……わけではなさそうだ、ばっちり目があってるし。まさか目になにかついてるってわけでもないだろうし。慧くんはすっきりと精悍な一重の目をしていて、綺麗な黒目に自分の姿が映っているのを見ると、なんだか妙にどきどきとした。特別童顔というつもりはなかったけれど、慧くんに比べると子どもっぽいような気がする、どこか間抜けにも見える自分の顔。……慧くんには、僕の顔は、どんなふうに見えているんだろう? 急にそんなことが気になって軽く瞬くと、ふと、息を漏らすみたいに慧くんが笑った。
「……遠って、真っ直ぐ人の目を見てるよね。いつも」
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