44、
「リアム……」
低く、静かに響く声が、空気の膜を破った。
背筋を這うような悪寒。俺は反射的に振り返る。
──そこにいたのは、キースだった。
だが、その姿は見慣れた兄のものではない。
その瞳には、かつて俺を包んでいた温もりの欠片すらなかった。
代わりに宿っていたのは、赤黒く燻るような狂気。
理性の火が焼き尽くされた後の、純粋な“執着”の色だった。
「兄様……どうしてここに……?」
震える声が喉から漏れる。
けれどキースは、まるで俺の問いなど耳に入っていないかのように沈黙し、次にレジナルドを見据える。
その目が細くなる。強い怒りが、はっきりとそこに宿っていた。
「リアム。僕がいると……何か、まずいことでもあるのかい?」
語尾は優しいのに、声音は冷たい。
その二律背反に、心臓が強く脈打つ。
「兄様、違っ──!」
弁解しようとした俺の声をかき消すように、キースの足元から黒い波動が広がる。
部屋の空気が、がらりと変わった。
まるで城の壁までもが彼の怒りに共鳴し、ひび割れそうなほど、重く、揺れる。
「リアム。僕が、どれだけ君を大切にしてきたか……君は知っているよね?
それなのに、どうして“僕以外の誰か”と、こんな場所で……会っているの?」
低く、鋭い声。言葉のひとつひとつが、胸に杭のように打ち込まれる。
疚しいことはない。それでも、誰にも告げずここに来たことを──後悔せずにはいられなかった。
蝋燭の炎が一つ、また一つと掻き消されていく。
床が軋み、窓がガタガタと鳴った。
そのすべてが、彼の“怒り”の表出だった。
「キース、やめろ!」
レジナルドが俺の前へと躍り出る。
咄嗟に腕を広げて俺を庇うようにしながら、怒声を放った。
「リアムはお前の所有物ではない! 彼には、彼の意思がある!」
その言葉が──導火線だった。
キースの瞳に、明確な拒絶と敵意が灯る。
闇の気流が一気に吹き荒れ、まるで部屋そのものが飲まれていくようだった。
「……所有物じゃない、だって?」
キースの声が震えた。怒りにではない。
哀しみに似た、底なしの激情に。
「違う。リアムは僕のすべてなんだ──僕の命より、大切な存在だ!!」
叫びと同時に、彼の右手が宙を裂くように振り上げられる。
そして、次の瞬間──
──黒い稲光が閃いた。
雷鳴のような衝撃音と共に、レジナルドの身体が吹き飛ぶ。
部屋の奥に投げ出され、重い音を立てて床に倒れた。
「先輩!」
俺は絶叫した。駆け寄ろうとする、けれど──足が、動かない。
空気そのものが鎖となって、身体を縛っていた。
キースの力だ。俺を、引き寄せるための。
「兄様、やめて……っ!」
ゴオオ……と風が唸った。
金で縁取られた豪奢な窓枠が小刻みに震え、白いレースのカーテンが、まるで凱旋の旗のように高らかに舞っている。
室内に吹き込んだ突風に蝋燭の灯はかき消され、今はただ、満月の冷たい光だけが床に影を落としていた。
ここは王城の一角──本来なら、この異音に気づいた兵たちがすぐ駆けつけてくるはずだ。
だが、廊下は静まり返っていて、人の気配は一切ない。
視線を巡らせれば、床に倒れ込んでいるレジナルドの肩がわずかに上下していた。生きている。それに、ほっと胸を撫で下ろす。
そして今、意識があるのは──この部屋で、俺と、彼のふたりだけだった。
この異常な静寂と状況からして、目の前の彼が何かを起こしたのだろうと察しはついた。
けれど……理解が追いつかない。
「……なぜ、あなたが」
見上げたその人影に、恐怖はなかった。
ただ、混乱だけが胸の内に広がっていく。
どうして、彼がここに?
この王城に?
しかも、こんな登場の仕方で──。
そんな展開は、俺の知る限り、なかったはずだ。
俺の問いに、彼は静かに手を差し伸べてきた。
そして、壮絶なまでに美しい笑顔で、ひと言。
「迎えに来たよ」
ただ、それだけの言葉が、空間すべてを支配する。
そこで、俺はようやく思い出す。
ああ、そうだった。
彼は、“キース”だった。俺の兄であり、この物語『ノエル』の攻略対象。
そして──“トゥルーエンド”に至る鍵を握る、魔王という存在だった。
俺はようやく、この物語の最深部に到達しつつある。
そう、今この時に。
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