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35、

連れ帰られたデリカート侯爵家は、驚くほどに普段と変わりなかった。

屋敷内の空気も、使用人たちの様子も、まるで何事もなかったかのように整っている。


──たぶん、キースが取り繕ってくれたのだろう。


俺が誘拐されたなんて話が広まれば、即座に「お家でお勉強!」コースまっしぐらだ。

兄なりの配慮で黙ってくれているのだと分かっていた。


馬車の中には替えの制服まで用意されていて、俺は改めてキースの周到さに脱帽するしかなかった。

けれど……その配慮に甘えている以上、俺も平常を装わなければならない。


あれこれ気を遣う余裕なんてないのに。


「勉強で疲れた」という建前で、俺は早々に自室へと引き上げた。


安心できるはずの場所。

それなのに、胸のざわつきは収まらなかった。


ベッドに倒れ込み、目を閉じる。だが、すぐに瞼の裏にあの暗い部屋がよみがえる。

暴漢たちの顔。ディマスの嘲り。あの刃の感触さえ思い出せそうだった。


「……くそ」


吐き捨てても、何も変わらない。


理不尽な八つ当たりに巻き込まれただけだ。

俺が何をしたというのか。


怒りとも恐怖ともつかない感情が、ぐらぐらと胸の奥で膨れ上がる。

布団を蹴飛ばして、ベッドを降りた。冷たい床が足を刺しても、どうでもよかった。


……キースは、どうしてるだろう。


俺が戻ったあと、ろくに話もしていない。

馬車の中では必要最低限の会話だけだった。


思い浮かぶのは、いつも通りのあの穏やかな笑顔。

レジナルドに助けられたことには、もちろん感謝している。


けれど……もしも、キースが助けてくれていたら──

そんな“もし”が頭をもたげてくる。


……ほんと、俺は。


この期に及んで、まだ曖昧で、我儘で、情けない。


無理やり深く息を吸って、頭に浮かぶキースの顔を打ち消そうとする。

それなのに、目を閉じても、浮かぶのは兄の姿ばかりだった。


……もう、顔を見るだけでもいい。

そうすれば、この胸のざわつきも、少しは落ち着く気がした。


俺はそっと扉を開けて、静まり返った廊下へと出た。



夜更けの館は、静寂に包まれていた。

見回りの時間帯を外していたこともあり、廊下には誰の姿もない。


足音を忍ばせて歩いていると、向こうから微かな灯りが揺れた。

とっさに身を縮める。


──……兄様?


俺がぽつりと呟いたのと同時に、その灯りが近づき、夜着姿のキースが姿を現す。

彼もまた、足音を殺してこちらへと歩いていた。


「リアム……眠れないのかい?」


その声はいつもと変わらぬ優しさを含んでいた。

けれど、その瞳の奥には、普段は見せない鋭さのようなものが潜んでいた気がする。


「兄様も……ですか?」


問いかけると、キースはふっと微笑んだ。


「ああ。君のことが心配でね。……様子を見に行こうと思っていたところだよ」


足が止まり、俺のすぐ前で彼が立ち止まる。

このまま「僕もです」と答えられたらどれだけ可愛げがあったろう。

でも、俺はどうしても、それが言えなかった。


「少し話でもしようか。僕の部屋で」


そう促されて、俺は小さく頷く。


「……はい」


肩にそっと置かれた手は、いつものように温かかった。

けれど、その体温の奥にある何かが、違っていた。



キースの部屋は、いつもと変わらず整然としていた。

深い藍色の絨毯と、艶やかな木の調度。暖炉の炎が静かに揺れている。


どこか落ち着く香りが漂っていて、まるで時間が止まってしまったかのような静謐さがある。

けれど──胸のざわつきは消えていなかった。


「座って」


そう言われ、俺はためらいがちにソファへ腰を下ろした。

普段なら、キースは隣に座る。けれど、今はそうせず、暖炉の前に立ったまま黙って火を見つめている。


「……今日は、怖い思いをしたね」


背を向けたまま、静かに呟かれたその言葉。

声に滲むのは、悔しさと、自責の念。


「……兄様のせいじゃありません。それに……すぐに来てくれて……」


言いかけた俺の声に、キースは静かに言葉をかぶせた。


「……レジナルド殿下のほうが、早かったけれどね」


その一言に、胸がきゅっと締め付けられる。


キースはゆっくりと振り返り、俺の前に膝をついた。

まっすぐに見つめられて、視線を逸らせない。


「リアム、僕は君を守りたい。……どんな状況でも、君が安心して笑っていられるように、僕が支えでありたいんだ」


その言葉には、強い意志と、深い想いが込められていた。

けれど──なぜだろう。

その優しさの奥に、かすかな痛みのようなものが見え隠れしていた。


「……僕のこと、情けないと思うかい?」


意外な問いに、俺は目を見開いた。


「……そんなこと、あるわけないじゃないですか」


俺は首を振って、言い切った。

あの状況で来てくれただけでも、どれだけ心強かったか。

遅かったなんて、そんなこと……。


「……優しいね、リアムは」


キースの手が、そっと俺の髪に触れた。

その指先の温もりが、じんわりと胸に染み込んでいく。


しばらく沈黙が流れたあと、彼は立ち上がり、俺に手を差し出した。


「おいで。今日はここで、眠るといい」


その言葉に、俺は小さく頷き、差し出された手を取った。


「……兄様……」

「大丈夫。君が安心できるように、僕がここにいるよ」


導かれるように、キースのベッドに入る。

ふわりと温かい香りに包まれて、肩の力が抜けていく。

兄はベッドの傍らに腰を下ろし、俺の手を優しく握ってくれた。


その手の中にいるだけで、少しずつ、胸のざわつきが和らいでいくような気がした。

閉じかけた瞼の隙間から、キースの顔が見える。

柔らかく微笑んで……けれど、その目の奥には、苦しさを滲ませていた。

唇が額に触れる。

あたたかく、そっと優しく──でも、どこか切実なキスだった。


……キース……?


意識がゆっくりと闇に沈んでいくその瞬間まで、俺の胸の奥で何かがふるえていた。


読んでいただいてありがとうございます!

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