30、
「兄様、さっきはありがとうございます」
放課後。昼に助けてくれた礼を言いに、俺はキースの研究室を訪ねた。
紙束を整理していたキースが顔を上げ、柔らかく笑う。
「気にしないでいいよ。ノエル君とセオドア君が、息を切らせて呼びに来てくれたんだ」
……ああ、だからか。
昼の移動中、ディマスに声をかけられる少し前から、二人の姿が見えなかったのを思い出す。
ありがたい話だ。正直、俺ひとりではどうにもできなかった。
「しかし……困ったものだね。登校初日にして、あの噂だ」
キースも、俺と同じように自宅療養(という名の“有給休暇”)を取っていたため、学園の異様な空気は知らなかったようだった。
面食らっているのが表情からもよく分かる。
……うう……本当にどうしたもんか。
いっそ目の前にいるキースと婚約してしまえば、状況は丸く収まるのかもしれない。
──でも、それってそのまま結婚コースだろ……?
とはいえ、父や母が新しい婚約者候補を探してくれるとは到底思えない。
あの人たちは、もう完全に「キース一択」で固まっている。
今から別の恋人を作って誤魔化すってのも無理があるし……レジナルドとの噂があれだけ広がってちゃ、そもそも他に相手がいない。
──結局、選択肢は絞られる。
俺と結婚したいって公言してるのなんて、キースか……リンドンくらいだし。
いや、リンドンは、ない。全力で、ない。
キースだって、俺にとっては簡単な選択肢じゃない。
嫌いとかじゃなくて、もう、根本的な性的嗜好の違い。
たぶん、俺って所謂「受け」なんだと思うし……いや、そういう問題か?
「実際のところ、リアムはどう思っているんだい?」
とん、と紙を机に置いてキースが立ち上がる。
俺の前まで歩み寄ってきて、軽く首を傾げた。
怒ってはいないけど、あきらかに“本気”の顔だ。
「どう、とは……」
俺が言葉を濁すと、キースは静かに続けた。
「王太子妃になりたくないって言っていたけれど……この噂は厄介だ。殿下自身が否定していない以上、下手をすれば、そのまま正式な婚約に進んでしまうかもしれない」
「ま、まさか。僕なんて、ほとんど社交界にも出てないのに……」
俺が目立たぬように振る舞ってきたのは、そのためだ。
派手に動けば、父の派閥──筆頭侯爵家の後継として、王妃候補に担ぎ上げられるのは目に見えている。
それを避けるために、存在感をできる限り抑えてきた……はずだった。
「社交界に出てないことなんて、もう関係ないよ。デリカート家はこの国で最も力のある家のひとつ。君の父上は、民の人気も高い。──そんな家の嫡子を、王太子が気に入っている。それだけで十分だ」
「いや、それは……恋愛って意味では──」
「リアム。勘違いしてはいけない。王と王妃に必要なのは、恋愛ではなく、信頼と協調だよ。王が共に歩めると判断した者が、妃になるべきなんだ」
キースの声音は、教師としてのそれに近かった。
冷静で、理詰めで、だからこそ逃げ場がない。
「君にはそれだけの資質がある。学業でも、立場でも、家柄でも。そして殿下は、それを“信頼に足る”と判断したように見える」
「……そんな……」
俺は、言葉を失った。
反論したくても、何ひとつ論拠がない。
全部、正論だ。
……ぐうの音も出ないとはこのことだな。
キースはふうっと息を吐くと、俺の頬に手を伸ばした。
掌が触れた瞬間、すこしだけ鼓動が早くなる。
「僕が……嫌いかい?」
静かに、けれどまっすぐに問われて、俺は目を見張った。
「君が本当に、僕のことを嫌だと言うなら──諦める。その上で、王太子妃になるのか、なりたくないのか。もし“なりたくない”なら、僕が君のために、相手を探すよ」
「そ、それは……」
言葉が、喉の奥で詰まった。
……卑怯だな、俺。
キースのことを“男だから”って理由で避けようとしていたくせに、
ここで「嫌い」って言ってしまえば、確実に距離を置かれる。それが、怖かった。
言葉を飲み込んだ俺を、キースはしばらく見つめて──やがて、困ったように笑った。
「……嫌とも、良いとも言ってくれないのか」
優しく息を吐いて、再び頬を撫でる。
指が、そっと俺の顎に触れ、顔を持ち上げた。
目を合わせるのが怖くて、反射的に視線を逸らす。
だけど、その指は逃がしてくれなかった。
「……本当に君は。なら、いっそ……試してみようか」
「……試す?」
──何を、って言う間もなく。
唇が、重なった。
俺の返事を聞くよりも早く。
迷いもなく、ためらいもなく。
温度が、息が、落ちてくる距離の中で──
俺はただ、呆然と目を見開いた。
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