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BLゲーム『ノエル』。
美麗なスチルと、演技力に定評のある声優陣によって一躍話題となった、通称“問題作”だ。
そんなゲームの中に、なぜか俺は転生してしまった──しかも、よりにもよって悪役ポジションで。
「リアム様」
名を呼ばれて振り返ると、そこには見慣れたメイドのアンが微笑んで立っていた。
「もう、お出かけの時間ですわ。馬車の用意も整っております」
その手には、今日から使用する新しい革製の学生鞄。
目に馴染んだ彼女の姿を見て、ほんの少し胸が落ち着く。
──リアム・デリカート。
それが、今の俺の名前だ。
リタルダンド王国の侯爵家に生まれ、齢は十六。
目を覚ましたときは、まだ十歳にも満たない幼子だった。気がつけば、あれから七年が経っている。
幸運だったのは、この世界が案外“前世”と似ていたことだ。
通貨の単位は「ラーレ」に変わっていたが、物価水準はほぼ日本と同じ。
季節は四季、暦はグレゴリオ暦、時間も24時間制で、長さの単位はメートル法。
このあたり、ゲーム運営の“都合”が透けて見える設定で助かった。正直、文化も制度も丸ごと異なる異世界だったら、俺の神経はとっくに擦り切れていただろう。
大きく異なるのは──この世界には“魔法”が存在していることだ。
炎、風、地、水、雷──五大属性に加えて、聖と闇の系統魔法。
魔力量というステータスが存在し、貴族ほどその値が高い傾向にある。まさにRPGでいうMPのようなものだ。
この魔力を宿した“魔法石”が、生活インフラにまで応用されている。
たとえば、水の魔法石を蛇口に組み込めば水が出るし、火の魔法石を竈に組み込めば料理もできる。
侯爵家ともなれば、その辺の設備も十分に整っていて──率直に言えば、前世の日本と大差ない生活水準だった。
スマホこそないが、雷属性の魔法石を用いた通信機器が存在している。もちろん高価なので、庶民の手には届かないが。
そして俺は、そんな世界に少しずつ馴染みながら、今年ついに王立学園へと進学することになった。
……本来なら、ここで「やった、モブ万歳! 平穏な学園生活を送るぞ!」と叫ぶところだ。
だが──現実は、そう甘くはなかった。
俺が転生したのは、“リアム”──そう、『ノエル』に登場する悪役令息だったのだ。
そう、主人公をネチネチと執拗に虐める、物語の敵ポジション。
そしてその末路は、高確率で断罪→陵辱→雌堕ちという、悲劇的かつ鬼畜なルート一直線。
選択肢ひとつで、リアムは簡単に“堕ちる”。救済ルートなんてものは存在しない。
この事実を知ったとき、俺は心底嘆いた。
あまりの絶望に床に突っ伏して泣いた。
そしてアンが淹れてくれた甘めのココアが、やけに沁みたのを覚えている。
俺は女の子が好きだし、尻を男に弄られる趣味なんてないんだよ……!
頼むから、お情けで“普通の人生”を歩ませてくれよ……!
だが、嘆いたところで運命は変わらない。
ならば、変えるしかなかった──フラグそのものを、根こそぎへし折るしか。
それからの数年間、俺は血の滲むような努力を積み重ねた。
ゲーム内の設定によれば、リアムは幼い頃からわがままで高慢。
まずはそこを矯正するところから始めた。
使用人たちにはスライディング土下座で謝罪し、以後は丁寧で慎ましい言動を徹底。
精神年齢が20歳を超えていたこともあり、この辺りは意外とスムーズだった。
勉強も礼儀も、徹底的に叩き直した。
一部の使用人は、リアムを裏切る存在として登場するが──そうならぬよう、信頼関係を築く努力も怠らなかった。
疎遠だった家族とも向き合い、距離を縮め、現在では“円満な侯爵家”を名乗れるほどに。
幼少期にリアムが虐めていたらしき同世代の子たちにも謝罪し、関係を改善していった。
結果──今の俺は、“天使のようなリアム様”として侯爵家内外で評価されている。
ゲーム的に容姿が優遇されていたのも、大きかった。
もしこれで顔面偏差値が並以下だったら、今頃蔑まれルート一直線だったに違いない。運営、ありがとう。今回は本気で感謝してる。
「リアム様?」
アンの声にハッと我に返る。いつの間にか、思考が過去を遡っていたらしい。
「うん、行くよ。兄様はもう出た?」
「いいえ、今日はリアム様とご一緒されると。下でお待ちですよ」
「えっ!? 兄様って講師でしょう? 早く行かなくて大丈夫なの……?」
走ると品格を疑われるので、最大限に上品かつ急ぎ足で部屋を出る。
目指すは、侯爵家の広々としたエントランス──
──そこに、彼はいた。
キース・デリカート。
俺の兄であり、王立学園の魔法教師。
そして……ゲーム内での“攻略対象”の一人だ。
セミロングの黒髪に、琥珀色の切れ長の瞳。
190センチ近い長身に、整った顔立ち──完璧なまでの造形美。
この人だけは、画面越しでも「格が違う」と思わせる迫力があった。
股下の長さとかもう……何メートルあるの? 誇張抜きで“異次元”である。
「そんなに急がなくても、大丈夫だよ。ゆっくりおいで」
低めのウィスパーボイスが耳に触れ、俺は思わず震えた。
声まで良いのかよこの兄……ッ!!
周囲の使用人たちが腰を砕かれてるのも納得だ。
俺は気品を損なわないよう気を配りつつ、階段を下りてキースの前へと歩み寄る。
「すみません、兄様……! 待ってくださるなんて思ってなくて。遅れてしまいました……」
頭を下げる俺に、キースは静かに手を差し伸べて言った。
「僕が勝手に待っていただけだから。リアムは気にしなくていいんだよ?」
「……ありがとう、兄様」
その手を取って顔を上げると、彼がふっと微笑んだ。
ああ、こういうとき本気で思う。努力してきて良かった、と。
両親は現在、外交任務で国外にいるが、夕方になればどちらかから連絡が来るはずだ。
かつての冷え切った家庭が、今では子ども想いの温かい家に変わっている──全部、俺の努力の賜物だ。
「さあ、行こうか」
キースにエスコートされ、並んで屋敷を後にする。
開け放たれた扉の先には、家紋入りの馬車。四頭立ての立派なそれが、朝陽を受けてきらめいていた。
学園まで、40分ほどの道のり。
──今日は、入学式。
そして、『ノエル』の物語が始まる日。
主人公・ノエルとの運命の出会いが待つ、始まりの日だ。
隣を歩く兄に視線を向けると、キースが気づいて微笑んだ。
その笑みに背中を押されるように、俺はひとつ深呼吸をする。
ここまで準備はしてきた。何としても、断罪も雌堕ちも回避してみせる。
もう一度、息を吸って──
俺は、運命へと踏み出した。
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