エンゲージリングに纏わる水車落し
水車落し
レスリングで用いられる投げ技の一種
大技!!
高校生活最後の練習試合は実は伊織との真剣勝負だった。
10-8で私のテクニカルフォール勝ち。
“志学館”進学組に遜色ない実力だったという自己満足を胸に私は今日でレスリングを辞める。
そう、キッパリと!
だって伊織はこれから良き指導者の下でますますその実力を伸ばしオリンピックを目指すのだから、中途半端にレスリングにしがみ付けば、こちらが惨めになるだけだ。
今日の試合に伊織に勝てたのだって、彼女と私では『立ち位置』が違ったからかもしれない。
彼女には守るべき未来があって、私にはそれが無い。
だからこそ、私は“故障するかもしれない”と言う恐怖を取っ払った果敢な攻めを行う事ができ、その結果、こんな練習試合如きで故障する訳にはいかない彼女に勝ててしまっただけの事なんだ。
私はジャージを脱ぎ、テーピングがしてある左足のアキレス腱のアイシングを始めた。
と、物凄い勢いで私の部屋のドアが開いた。
兄妹の二人暮らしのアパートだ!
“強面”の私にこんな事ができるのは一人しか居ない。
「お兄!!」
背中を向けたまま言葉で刺すと
「スマン!」とすごすごドアを閉めるお兄
バレたか……
あの、温和なお兄がこれほどの勢いでやって来るのだから推して知るべし!
『お前に聞きたい事がある』
ドアの外からお兄の声
せめてお兄の結納が終わるまではバレないようにと気を付けていたのだけれど……
しらばっくれるか開き直ってか
とにかく何としてでもお兄には幸せになってもらわないと……
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私のお父さんとお兄のお母さんが再婚したのが私が小6の時、当時高校生だったお兄はバイト以外は常に図書館に居るような文学少年で……選手時代から指導者までずっとレスリング漬けだった父とはまったく違うタイプの男性だった。
父はお兄の事を『腐ったうらなりみたいなヤツ』とどこかで軽蔑していたけれど、何か嫌な事や上手く行かない事がある度に酔いどれて周りに当たり散らす父なんかよりよっぽど男らしいと私は思っている。
現に、こんな素行の父とはすぐに別れてしまったお兄のお母さんは再々婚して今では新しい家族と幸せに暮らしている。
誰からも愛想をつかされた父は深酒運転の末に中央分離帯に自ら突っ込んであっさり死んでしまった。
他に身寄りのない私はレスリング特待生で入学が決まっていた高校への進学も諦めて、養護施設に近い公立高校を受験するしか無くなっていた。当然、女子レスリング部など無い高校で“私のレスリング”はここで終わるはずだった。
それを拾い上げてくれたのがお兄だった。
「新しい家族とは馴染めないから」と高校卒業と同時に独立したお兄は足蹴く児相や関係各所を訪問し説き伏せた。
その根気と誠意に関わった人すべてがほだされたのだ。
そんなにまで自分に心を傾けてくれた人の事を好きにならずに居られようか?!
一緒に住むのはあくまで“兄”と“妹”だから。決して“男女”の理由では無いと世間一般に示さなければお兄に迷惑が掛かる。
この三年、私は自分の恋心は胸にしまい込む代わりに“アスリートの鎧”を自らに課した。
鏡を見るたびに自分の“乙女心”が怖気づく様に……
高三になり、女子レスリングの名門“志学館大学”へのスポーツ特待の話がわが校にも舞い降りた。
勿論、私も候補としてエントリーされたのだが、最終的には選考から外された。
インターハイなどの戦績では他の生徒より勝っていたのに……
突き詰めれば突き詰める程、『精神面の弱さ』という意味不な“解答”しか得られず……
その源は私の人格とはまったく異なる「父の悪行」のせいだと今年になってから知った。
アパートの玄関に私が獲得した優勝の盾やトロフィーを幾つも飾っていたお兄は私が“志学館大学”のスポーツ特待生になる事に何の疑いも持っていなかったので
「今度はお兄がお嫁さんもらう番だよ!でなきゃ私が安心できない!」と言う私の声に押されて何度かお見合いをし、とうとう結納まで漕ぎ着けたのだ。
今更、すべてがご破算になったなどと口が裂けても言えない!!
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「私、今スッポンポンなんだかんね! スケベにドアを開けようとしないで!!」
「じゃあ何か着ろ!!」
「何よ!偉そうに!」
「それが保護者に言う言葉か?!」
「お兄は弱っちいから言葉で言ってあげてんじゃん!」
「強い弱いは関係ねえだろ!」
「お父さんがよく言ってたわ!『牧夫みたいな意気地無しのヘナチョコになるな!!』って」
「お前もオヤジと同じくオレをバカにするのか?!」
「そうよ! だって私より遥かに弱いモン!」
「そうか……オレはお前の人生の一大事を相談するには頼りないんだな。
立派なもんだ!皮肉で言ってるんじゃない。お前の荷物の送り状を見たよ。保安検査官になるのか?航空会社の系列会社で寮もあるキチンとしたところじゃないか!……お前は自分の身の振り方もちゃんと自分で決められる大人だ! 悪かった! オレが口を挟む筋合いじゃないな」
「だったらもういいでしょ!お兄は自分の頭の上の“男やもめのハエ”を追いなよ!」
口からポンポン出る憎まれ口とは裏腹に、私の涙は鼻や喉に容赦無く流れ込んで来る。
本当はお兄ほど強い人はこの世に居ない。
お兄ほど大切な人はこの世に居ない。
お兄ほど好きな人はこの世に居ない。
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碧の海の色をフワフワ浮かぶ入道雲に落とした様な、素敵なクリーミーグリーンの小さなケースがテーブルの上に置かれていた。
例え鏡に映るシルエットが逞しくても
私だって心は普通に女の子
思わずそのジュエリーケースを手に取って開いてしまう。
ダイヤを中央に置き繊細な細工が施されたプラチナのエンゲージリングに私は目を奪われた。
私の大切なお兄は……この指輪をフィアンセさんに渡すんだな……
私はお兄から指輪は貰わなかったけれど……
いいんだ!!
この三年間、惜しみない愛情をたくさんたくさん貰えたから
そう、心の中で何度も繰り返していたら
別れがもっと辛くなって
ジャージの裾を、また涙で汚してしまった。
私がトレーニングのトの字もしないで……
家の中があんまりしんとしているので気になったのだろう
お兄がひょいと顔を覗かせた。
「へえ~お前でも指輪に興味があるのか?」
「失礼ね~!! そりゃあるわよ!」
「ハハハ! じゃあちょっと着けてみたら?!」
「いいの?」
「別に構わんさ!まだ何の刻印も彫ってるわけじゃなし! 魂を入れる前の仏像みたいなもんだ!」
「アハハハ!何それ!」
左の薬指に着けて、窓から差す陽にかざして見ると
この世の物と思えないくらいに輝いて見えた。
この先、万一何かの間違いで……この指に指輪が飾られる事があっても、こんなにも美しく輝く事はないだろう
ありがとうお兄!
最後まで素敵な想い出を私に残してくれて……
じゃあ、指輪を返すね……
……
…………
???
!!!
あれっ?!
!!!!!!
えっ?!
マジ!!??
抜けない!!!!
指輪が~っ!!!
元々私の指にはほんの少しだけ小さいかなとは思っていたけど
それでもすっと入ったのに!!
抜けない!
抜けない!!!!!
最初こそ心配そうな顔をしていたが、
どうやっても抜けない指輪にオロオロしている私の顔を見て
お兄は吹き出した。
「一華が“指輪ホイホイ”に引っかかってジタバタしている」と大笑いした。
それでも私が涙目で「何とかして!!」と泣きつくと
「分かった! スマホ取って来る」と席を立った。
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てっきり指輪を外す方法を検索するとか、ショップに問い合わせるのかと思ったら、事もあろうに!!
お兄は先様へ婚約の破棄の電話を入れたのだ!!
その理由が凄まじい!!
「ブライダルチェックをしたら私は極めて“種なし”の可能性が高く、子供を持ちたいというあなた方のご期待に添えそうにありません」
私が自分の事も忘れてあんぐりと口を開けているとお兄は「令和の中村モンドにはなりたくないからな」とウィンクした。
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その時、かなり苦労して引き抜いた指輪は……こうして今も私の左の薬指に居る。
もう現役を離れて3年……
私の左の薬指もほんの少し細くなったのかもしれない。
リサイズした指輪が回ってしまう事があるから……
そんな話を夕餉の団欒にお兄にすると
「幸せ太りならいくらしても大丈夫だぞ!」って言ってくれるけど……
それはゼッタイダメ!!
だって少しでも女の子らしくウェディングドレスを着たいんだもん!!
そうでなくても
「結婚した後でも、オレの事、『お兄』って呼び続けても構わんぞ」
なんてのたまうお兄は、乙女心に疎いのだ!!
こちとら色々“妄想”してその都度顔を赤らめているのに……
心の中でちょっとだけ愚痴りながら指輪の向きを直す。
そして左手の指をピン!整列させ、リビングの明かりにかざして見ると……
キラキラ光る指輪の向こうに素敵な素敵なお兄がいてくれる!!
だから私のご機嫌は、あっと言う間に直ってしまうんだ!
因みにこのエンゲージリングの裏に刻印された記念日は、外ならぬ“指輪ホイホイ”の日付が記されている。
とにかく時間切れ(-_-;)<m(__)m>
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