第九章 まんなか
さあ!
今日から忙しい毎日が始まる
朝から意気込んだ気持ちごと
入学願書をポストへ投函し
仕事を軽やかに終えると
さっそく申込んだプール教室へと向かった
エレベーターの扉が開き
足を一歩踏み込むと
たちまち懐かしいプールの匂いがした
17種類から選ぶ定番のアイス自動販売機もあり
レッスンが終わった後の
まだ髪の毛が濡れているちびっ子達が
とりあえず服を被り頭を半分だけ出した状態で
アイスを買うために列に並んでいる
幼い頃に通っていたプール教室とは別の教室なのに
全てが懐かしく思える
フロントでお勧めされるままに
水着一式を買いそろえ
案内されるまま更衣室で着替えをすませた
授業が始まりプールサイドに並んだ
習いに来ている人の顔ぶれはというと
おじいちゃんと、おばあちゃんと、おばちゃんと、
おばちゃんと、おばちゃんと、たまにおっちゃん
不安いっぱいのままコーチからみんなに紹介され
小さな声で「お願いします……」と言ったが
対して何の反応もなく
すぐさまぞろぞろとプールへ入った
「じゃぁ、まず4本行きましょうか」
コーチがそう言うと
おじいちゃんおばあちゃん達が
一斉にゴーグルを装着し
次々と間隔を空けてクロールを泳ぎ始めた
何がなんだか分からないまま
自分の前のおばあちゃんがスタートしたものだから
泳げるのかも分からないまま泳ぎ始めた
苦しくて苦しくてやっとの思いで
25メートル泳ぎ切ったら
もう前のおばあちゃんは
ターンして遠ざかっていくし
自分の後にスタートしたおばちゃんは迫ってくるし
焦って息切れしたまま無我夢中でターンした
なんとか50メートル泳ぎ着いたと思ったら
また前のおばあちゃんは
ターンして遠ざかっていくし
自分の後ろのおばちゃんは迫ってくるし......
それを繰り返し
25メートルを4本泳ぎ終えたところで
ようやく泳ぎは止まった
水を飲んで吐きそうなのも
鼻水が出ているのも
息切れがひどく倒れそうなのも私だけ
「じゃあ、次は平泳ぎで4本行きましょう。」
コーチの言葉に気を失いかけた
「吉田さんはあっちでバタ足の練習をしましょう」
端のコースへ移動し
バタ足を教えてもらえることになった
「私、イルカのトレーナーを目指してて
泳げるようになりたいんです!」
酷いクロールを見せた後に
こんなことを口走ったので
笑われるかと思ったら
コーチは顔色一つ変えずむしろ真面目な顔で
「すぐに泳げるようになります」とだけ言い
バタ足を促す仕草をみせた
コーチの自信とも私への激励とも取れる言葉に
一気に不安が吹き飛び安心と敬意を覚えた
子供の頃は良く分からないまま泳いでいたが
コーチの丁寧な指導のおかげで
泳ぐ時のコツがあることを知り
なんとなく掴めそうな気がした
授業はあっという間に終わり
久しぶりに体を使った疲れと心地良さとで
一気に眠気が襲いかかる
フロントにあるベンチに座り
誰もいなくなったプールをガラス越しに眺めた
少しすると一緒に授業を受けていた
おばちゃん3人組が着替え終えて出てきた
「お疲れさまでした」
声をかけるも返事はなく
3人で顔を見合わせては
こちらをチラチラと見ながら帰って行った
(嫌な感じ……)
次に更衣室から出てきたのは
とても綺麗なフォームで泳いでいたおじいちゃんで
よっこらせと言いながら私の横に座った
「気にせんでえーよ。
あの子等、コーチのことが好きやから
コーチを取られんように
新しいの入ったらいつも辞めさそうとすんねん
放っといたらいい。」
余計不安になってしまったがそれは置いといて
泳ぐ時のコツを教えてもらった
イルカになった感覚で泳げばいいらしい
上手く想像できないが
明日はチャレンジしてみようと思う
おじいちゃんに挨拶をしてプール教室から出ると
外は真っ暗で肌寒い
ご飯を作る気力もなく外食で済まそうと思ったが
明奈は彼氏と忙しいだろうし誘う人もいない
ライムの顔が浮かんだがそれは叶いそうにない
そしたら突然寂しさが襲ってきて空を見上げたら
小さな小さな星が微かに見えるだけで
なんだか自分と重なって見えた
ーもっと光ってみせるー
疲れと寂しさを奮い立たせ
スーパーで買物をしてからやっとの思いで
家に辿り着いた
すぐさまお米を炊飯器にセットし
1番大きな鍋に水を入れて沸騰させると
冷蔵庫の中のあらゆる食材を
ザク切りにして鍋へと放りこむ
冷凍保存していた晶子お手製豆腐を
やっと使い切ることができた
具材を煮込む隙にシャワーを済ませ
有らぬ格好で頭にタオルを巻いたまま
鍋に味噌を投入
何も気にせず素早く出来るのは
独り暮らしの特権だ
ドライヤーで髪を乾かし終えると
丁度ご飯が炊き上がった
炊きたてのつやつやご飯と具沢山の豚汁
作るのが面倒なときはこれに限る
お腹いっぱい食べたら
残りは一食分に分けて冷凍保存
そして今日も
ライムと会うのを楽しみに眠りにつく
.
.
.
そんな生活も数ヶ月経ち
アスファルトから湯気が出るほどの
うだるような暑い日
私は泳ぐことが大好きになっている
まだまだイルカのような感覚までとはいかないが
とにかく泳ぐことが楽しくてたまらない
もちろんドルフィントレーナーを目指している
現在は専門学校の寮へ移り住み
新聞配達をしながら勉強に励んでいる
学校を飛び込み見学したときに案内してくれた
鬼顔の竹村さんが実は
ドルフィントレーナー専属の
熱血コーチだったことには驚いた
まあ
プール教室で一緒だったおじいちゃんが
若い頃ドルフィントレーナーだったことを
知った時ほどではないが
毎日ヘトヘトになるけれど色んな気づきがあり
とても充実した日々を送っている
トレーナーになるためにはどうすれば良い?
真剣に考えてみるとできることは沢山あって
たとえ小さなことでもやればやった分だけ
1ミリ位は確実に前へ進んでいる
忙しい中ふとしたときに突然
寂しさが襲ってくるときがある
孤独感とでもいうのか
何かに突き進んでいくということは
自分のハンドルをしっかり握ることになる
進む、止まる、降りる、方向、
全てが自由で自分の判断
同志に助けられたり励まされることはあっても
ハンドルを握っているのは自分自身
疲れたからといって
甘えてばかり息抜きばかりしていては
前へは進まない
とはいえなんやかんや言いながら
色んな人に支えられて楽しく過ごしている
ライムとも相変わらず毎日顔を合わす
今後
百合真木子のようにライムが振ったサイコロで
諦めてしまうような
もしくは諦めざるを得ないようなマスに
止まることがあるかもしれない
今だから想像できる
真木子はきっと歌を目指したことも
妊娠を知り子育てに専念するために
歌を諦める選択をしたことも
自分の判断であり
何の後悔もなかったのだろう
止まったマスに何が書かれてあったとしても
その指し示された運命というものの先で
どう感じ何をするのかは自由なのだから
先日シンガーソングライターのYURIから
歌入れを終えた「まんなか」のCDが届いた
ライムと私を含むファンの人達からの
待望の声に応えてくれたYURIは
プロを目指すために小さな事務所と契約し
拠点を東京へと移すらしい
東京へ行く前に
アマチュア活動最後のLIVEをするから
来て欲しいとチケットが2枚同封されていた
ライムと一緒に行きたいな
なんて叶いもしないことを思いながら
どうすればライムにCDを聞かせてあげられるのかと
奮闘している
曲を取り込んだ携帯を
ガムテープで体に固定してみたり
CDを流しながら眠ったりしたけれど
上手くいかない
一向に答えは見つからず
聞かせてあげられないままだ
LIVE当日
仕方なく1人で会場へと向かった
ストリートライブで聞いたことのある曲から始まり
会場全体を包み込む歌声と
スポットライトを浴びるYURIが
神秘的で見惚れているうちに
あっという間にラストの曲になってしまった
全てのライトが消え会場が真っ暗になる
静まり返った空間に響き始めたピアノの旋律
「まんなか」だ!
ゾワッと体中の毛が逆立ったのではないだろうか
生で聴くYURIのまんなかは
体中に響いて気がつくと涙が溢れていた
そしてライブは大歓声にて幕を閉じた
「優子!あの子!同じ声だったよ!」
「え!?」
「だから!真木子とあの子の声が同じ声だったの! ビックリしたよ!凄いよ!」
「ライム!?なんでここに居るん!?」
「ああ!行きたいって思ったら来れたよ!優子!」
警備員さんが外に出るよう注意しに来るまで
私達は興奮気味に喋り続けた。
どうやってライムが人間の世界に来れたのかは
よく分からないが
それからというもの
ライムは自分の世界へ
戻れなくなっていたりするわけで
世の中分からないことだらけだし
こんな不思議なこともあるんだな
くらいに思っている
それにライムがこっちに来てからは
サイコロを振っていないけれど
私の毎日は存在し続けている
そして同じ世界で一緒に居られることを
私もライムも喜んでいたりする
そんな二人のこれからの物語はまた別のお話で
忙しい日々の中
静かに自分の心に耳を傾けてみると
心のまんなかは気づいてほしいと
ノックしているかもしれない
それがどうしようもなく溢れたときに
ラフィーは起こり
サイコロを振る神様に出会えるかもしれない
あなたのまんなかには
どんな物語があるのだろう