吉田さんとオレ その六 前編(一~十五)
六
ここ一週間ほど、吉田さんは万屋の銭湯に来ていない。何かのトラブルにでも遇ったのだろうか。吉田さんに電話しても、全然つながらない。とても心配だ。それとも、金玉をとっくに切除してしまって、男湯に入るのをためらっているのだろうか。吉田さんは恥ずかしがり屋?いや、待てよ・・・。この場合は、どうなるのだろうか。金玉とチンコを切除して吉田さんが正真正銘の女になり、正々堂々と女湯に入っても、吉田さんゆえに通報されて警察に逮捕されるのがオチだ。
今夜は珍しく、万屋に早く着いた。でも、午後十時を過ぎている。吉田さんは来ているだろうか。脱衣所で服を脱いで、脱衣所と風呂場を仕切っているガラス戸をゆっくりと開けると、聞き覚えのある金切り声が聞こえてきた。
「フォー!僕のタマちゃん、まだついてるで!フォー!フォー!フォー!!!」
吉田さんだ。いや、吉田さん以外の何者でもない。
「吉田さんじゃないですか!どうしたんですか?最近、全然来なくなって。俺、心配していたんですよ」
「こうちゃん、ごめん!ごめんな!実は、僕の姉ちゃん、危篤やってん。滋賀にある実家に帰ってたんよ。乳ガンやな。で、緊急手術はうまくいったけど、姉ちゃん、おっぱい切除して、精神的に萎えてしまってな。ほんと、弱弱しくなったわ。で、うちの両親はな、とっくに死んでしもたし、姉ちゃんを看病できる身内は僕しかおらんのよ。病院でずっと看病してたけど、残りの入院期間は、看護師さんが責任をもって世話してくれることになったから、大阪に戻ってきてん!」
「そうですか。大変でしたね」
「だからな、こうちゃん。僕な、見ての通り、まだタマが付いてんのよ!」
「分かりました。でも、何気に自慢気に、チラッと金玉を見せなくても大丈夫ですよ」
吉田さんのお姉さん、意識ははっきりとしているそうだ。術後の経過も順調だが、夫に先立たれ、今では身寄りもないそうで、吉田さんは故郷の滋賀に帰らざるを得なかったのだ。
「あとな、姉ちゃんにタマを取る話したら、一瞬でショック死してしまうんとちゃうかと心配してしもて・・・。知ってると思うけど、僕らの世代って、考え方が古いやろ?トランスジェンダーとか、普通に理解できへんねん。だから、タマはまだ元気にぶら下がっております。まあ、姉ちゃんに配慮したレディーファーストってやつやな!」
俺だって、いきなり、吉田さんからもくもくの湯けむりの中で金玉を切除する話を聞かされて、正直驚いた。吉田さんのお姉さんがこの話を聞いたら、間違いなく耳を疑うはずだ。俄かには理解できないだろう。吉田さんの言う通り、今はまだ言わない方が良い。トランスジェンダーの問題は、玉なしの男が男湯に入るべきか、それとも女湯に入るべきかのそんなちっぽけな問題ではないのだ。さらに本人だけの問題ではない。本人の周りの人たちを全て巻き込む大問題だ。男と女の狭間で揺れ動いてきた吉田さんは、もう六十年以上もどっちつかずの心と体の状態で周りの人たちの反応も気にしながら、迷いながら生きてきたのだ。
俺は、男として何の疑いもなく三十年以上も生きてきた。これからも、それは変わらないだろう。俺は男だ。吉田さんも男だ。俺たちは、いつまでも男湯の中で、裸の付き合いを続けられるのだろうか。
それから数日が経った。吉田さんのお姉さんは亡くなってしまった。吉田さんは、葬式の喪主を務めることになり、一週間ほどまた万屋に来なくなった。吉田さんは今、本当に迷っているのかも知れない。もし本当に金玉を切除して後悔したならば、俺はとことん3D金玉の制作に協力してあげようと心に誓った。3D金玉は、システムエンジニアとはあまり関係がないので、とりあえず会社の近くにある書店で、3Dプリンターの入門書を三冊購入して勉強を始めた。