吉田さんとオレ その三 前編(一~十五)
三
満点の星空を眺めながら、もくもくの露天風呂に浸ってくつろいでいると、遠くでバサバサともの凄い大きな音がした。一瞬、何だろうと思ったが、脱衣所と風呂場とを区別するガラス戸を開いた音であることに間もなく気付いた。すると今度は、間髪を入れずにいきなり高齢者と思われる甲高い大きな声が、銭湯中に響き渡ってきた。
「キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ、キンタマ!!!キーン、タマタマ!!!ひぇぇぇぇぇ!!!チンチクリン!!!勃起したらあかん!勃起したらあかんねん!!助けて、チョンマゲェ!!!!!」
ひたすら遠くで「金玉、金玉、金玉!」と大きく張りあげた金切り声は、徐々に徐々にではあるが、確実にこちらへと近づいてくる。これまでのリラックスした気分とは打って変わって、恐怖心に苛まれた。全身ぬくぬくで、顔から噴き出す心地よい汗は、冷や汗へと変わり始めた。さらに、露天風呂から噴き出すもくもくの湯けむりのせいで、その得体の知れない老人と思われる人物の姿かたちを確認することはできず、いっそう恐怖を掻き立てた。
露天風呂は、他の風呂場とは隔てられており、その間にはガラス戸があった。弱々しいガラス戸が、変態老人と俺とを分かつ最後の砦のように感じられ、体は凍りついてきた。部屋の天井が筒抜けになっている露天風呂は涼しい。でも、この全身を駆け抜ける涼しさ、いや肌寒さは満点の星空や初夏の夜風の仕業ではない。
露天風呂には、他に老人二名が浸っていた。露天風呂は、湯けむりを逃がすように天井がない構造になっていると思われがちだが、却って露天風呂と外気との温度差が湯けむりを作り出し、ここから変態の姿かたちは到底見えない。いざという時は、このお二人の長老と協力して、変態と戦わねばならないと覚悟した。俺はもうすっかり、血の気が引いて気が気でなかったが、この長老たちは全く何食わぬ顔でいつもの露天風呂に浸っているようだ。さすがは老練の為せる業だと、変に納得してしまった。
ガラガラ!ズトーン!!!
最後の砦は破られた。と同時に、露天風呂に入ってきたロン毛の全裸の爺さんは、右手と左手を使い、ケロリンの桶二つで股間と尻を強く押さえつけている。右手でケロリンを股間に強く押し当て、左手はケロリンを肛門目がけて強く押さえつけている。ケロリンで恥部をサンドイッチしながら、俺たちが浸かっている露天風呂の前で立ち尽くし、こちらを睨みつけてきた。この爺さんは、一体何をしでかしたのだろうか。右の鼻の穴から、鼻毛と鼻血が出ている。露天風呂の中には、老人二人と俺だけ。変態は、老人、俺、老人となめ回すように見ては、何度もこちらを品定めするかのようなギラギラとした目つきでいきり立っている。そしてまた、金切り声を上げ始めた。
「フォー!」
「フォー!」
「フォー!」
「フォー!」
「モッコリ、フォー、フォー、フォー、フォー、フォー!!!」
「ベトナム料理も、フォー!!!!!」
「同情するなら、金玉、取っておくれ!!!」
奇声は、露天風呂中に響き渡った。
俺たち三人で戦うしかない!居合わせている老人二人に声を掛けようとすると、二人して
「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・。じゃあね、若造!」
とか言って両手で合掌しながら、ブクブク、ブクブクと、露天風呂の湯の中に海の藻屑と消えていった。
俺は居ても立っても居られず、番頭に通報しようと覚悟して、露天風呂から飛び出そうとしたその瞬間、
「あら、ひょっとして、新人さん?新人さんよね?新婚さん、いらっしゃ~い!」
と、変態から間の抜けた言葉をかけられて、俺は想わず面食らってしまったのだ。