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吉田さんとオレ その二 前編(一~十五)

 「ゆ」と書かれた赤い暖簾の前で立ち止まった。入口には、豆電球が一つだけ取りつけられていて、暖簾の周りだけがパッと明るい。どこかノスタルジーな感傷に浸ってしまう。俺は、今夜も疲れ切っているのだろうか。入口に貼られているポスターを見ると、ここは午前二時まで営業しているようだ。こんな時間なのに、どこからともなく、おじさんやおばさんたちが吸い寄せられるように暖簾を潜っていく。俺のようなサラリーマンらしき若い人たちも、ちらほらと吸い込まれていく。日中の初夏の日差しとは打って変わって、この時間帯になると涼しく、昼間の雲一つない青空を踏襲している満点の星空には、夜空に向かって背伸びした銭湯の煙突からもくもくと白煙が吹き出していた。

 今から銭湯に入れば、終電に間に合わないだろう。帰りは、タクシーになってしまう。入浴料とタクシー代を合わせれば、今夜の俺の「残業代」は吹き飛んでしまう。でも、この銭湯に吸い寄せられている人たちの顔を見ていると、みんな、どこかすがすがしい顔をしていて、ここには俺の全ての残業代を払うだけの何かがあるように感じられ、無意識というか、何のためらいもなく、俺の手は暖簾をかき分けた。

「いらっしゃい」

 番頭の男が声を掛けてきた。

「すみません。今日初めて、ここに来ました」

「あ、そう。じゃあ、銭湯代とタオルとバスタオルのセット、それから、小さい石けんとシャンプー。あと、髭剃りも要りますかね。合計で七百二十円、お願いします」

「八百円です。お釣りをお願いします」

 ふっくらとした中年の番頭に代金を渡すと、そのまま脱衣所に通された。脱衣所のあちらこちらに「盗難は、あなたの責任です。貴重品は、番頭にお預けください」と大きな文字で、それも手書きの赤字で書かれた紙が貼ってある。最近、脱衣所で窃盗事件でもあったのだろうか。俺は、問答無用で財布とスマートフォンを番頭に預けて、ロッカーの前で服を脱いだ。周囲を見渡すと、シャツからネクタイを緩めるサラリーマンがちらほらいる。風呂上がりに、全裸でコーヒー牛乳をごくごくと飲んでいる高齢者もいる。みんな、手慣れた様子だ。銭湯の常連だろうか。

 それにしても、銭湯に来るのは何年ぶりだろう。昔、俺が小学生の頃、両親に連れられて、銭湯に行くことはあった。それも決まって日曜日に。中産階級の中の下ぐらいのサラリーマン家庭で育った俺は、休みの日にこれといった娯楽が家になかった。今思えば、安上がりで済むちょっとした休日の楽しみということで、両親が無理くり編み出した苦肉のエンターテイメントだったのだろう。そんなことを思い出しながら、脱衣所と風呂場を区切っているガラス戸を開けると、モサモサっと、湯けむりが顔に覆い被さった。

 銭湯には、露天風呂にジェット風呂、電気風呂。それに、水風呂や「幸せ風呂」なんかもある。風呂のレパートリーは豊富なようだ。ガラス戸の出入り口付近にあるかけ湯を終えると、奥からのもうもうと立ち込めてくる湯けむりの中を分け入って、早速、風呂に浸かってみた。ふー。湯加減は、疲れた身体と頭がすっきり冴えわたってしまうぐらいの熱さだ。その後、露天風呂やジェット風呂、水風呂などを順に入ることで、俺はいい感じの茹でダコになって、あのさっぱりとした風呂上りの心地を得られるだろう。この熱い湯加減も、慣れてしまえばこっちのもので、風呂からもくもくと吹き出す湯けむりは、同じ風呂の中にいる他の客の顔をひた隠し、周囲を気にすることなく、自分だけの世界に浸る時間を提供してくれている。ふー。熱い。いや、慣れれば暖かい。午前七時から午後十一時三十分まで。今日も本当によく働いた。会社の近くに、こんな癒しの場所があったなんて・・・。もっと早く銭湯に来ればよかったと、口惜しくなってしまった。

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