副業警官佐藤庄一は働きたくない
今にも空が泣き出しそうな暗い朝だった。
真冬の新宿駅構内で、牧島悟はうずくまっていた。
通路脇に座り込むスーツ姿の牧島の前を、通勤中のサラリーマンや通学中の学生が何人も通り過ぎていく。
声をかける者は誰もいなかった。みな忙しかった。
ある者は目が合うとすぐに顔を背け、またある者は露骨に嫌そうな顔をした。
そして大多数は目もくれず通り過ぎていく。
牧島は顔をより強く膝に埋めて、通勤用のバッグを抱きしめた。
冷たい床から体温が奪われ、牧島の体は芯から冷えた。
「うう……うううう……」
嗚咽が漏れる。
助けて欲しいわけじゃなかった。ただどうしようもなく動けなくなってしまった。
牧島はこれから仕事があった。
行きたくない、大嫌いな仕事だった。
そして仕事が終わったあとも仕事があり、そのあとも仕事だった。
毎日毎日仕事があった。
だからもう、やるしかないのだ。どうしようもない。
三年前、日本政府は副業とのダブルワークを全業種で認めることを決めた。
それ以来、社会人の多くが副業を持つようになった。
残業規制もあり、最初は自由な働き方をと世間的には随分と歓迎されていた。
しかし、実態はきれいな看板と裏腹のものだった。
企業はこぞって人件費を抑制し、メインワークの給料は一斉に下がった。そのため、副業をせざる得ない人間が増えたに過ぎなかった。大人になった者は、否応無しに副業を持ち、昼となく夜となく働く社会が到来した。老いも若きも働き続ける社会となった。
牧島はこれから新宿のとある薬品メーカーで働き、夕方からは建設現場で働くことになっていた。そしてまた朝になると新宿に戻って働く。
きりがなく続く社会の歯車としての自分。
真冬の朝の新宿は冷えた。震えてくる。
でも働かないといけない。働き続けないと、社会には存在できない。
立ち上がらないと、働かないと、体は動いても心は殺されてしまう。
だったらやらないといけない――!
しかし――。
体に力が入らなかった。
歩けなくなり、うずくまった四十過ぎの男に、手を差し伸べる者はいなかった。
誰も彼も、牧島を無視した。三百万人が乗降する新宿駅で、働かない男は誰にも相手にされていなかった。
誰にも、必要とされてない。
いずれは駅員に連れ出される運命だろう。彼らが牧島に声をかけるのは、単に仕事であり、牧島を駅から放り出すためだ。そこに優しさのようなものは一切ない。機械的に異物を排除する。
「あの……ちょっといいですか」
頭上から若い男の声がした。駅員が来たのだろうと牧島は思った。
ここを追い出され、どこへ行けばいいのか。いっそトラックに轢かれて異世界転生でもしたい気分だった。そういうのが流行っているらしいことは聞いた。新宿だから、電車か? とにかく死んでしまいたい気分だった。
「う、うるさい! 俺がどこにいてもいいだろ! 誰にも迷惑はかけてねぇ!」
牧島は顔を上げて叫んだ。
しかし若い男は不思議そうな顔で男を見つめ返してきた。
「もちろんです。あなたはどこに居てもいい。ですから僕も、ちょっと失礼しますね」
そう言って、若い男は隣りに座ってきた。
「お、おい!」
新手の追い出し法か? 同じ目線で話しかけて、穏便に出ていってもらうってことか? 同情して、話を聞いて、気持ちよく出ていってもらうのか。そんな表層をなぞるだけの優しさには騙されない。
しかし若い男の服装はよれたコートを着た貧相な身なりで、とても駅員には見えない。
若い男は、そのまま隣に座ってそれまで牧島がしていたように膝に顔をうずめた。
まるで牧島に興味がなく、電車の席が空いたから隣に座っているかのようだった。
な、何なんだこいつは。気になる。
「……何してんだあんた?」
牧島が尋ねると、若い男は少しだけ顔を横に上げて言った。
「見てわからないんですか。働きたくないんです!」
若い男は、涼やかな声でそう返した。
「働きたくない……だって?」
牧島は驚愕に目を見開いた。そんなこと、許されるはずがない。
そもそも働かずにどうやって暮らすというのだ。なんだこいつは。ニートか? 例え本人が働かなくても、誰かがこいつを養っているのだ。健康ないい大人が、働かないなんてありえない。
牧島は苛ついてきた。こっちは毎日身を粉にして働いているというのに、こんな若造が堂々と働きたくないと宣言するなんて。
「あんた、社会を舐めてんのか。働きたくないなんて、よくも言えるな」
牧島はどこから湧いてくるか分からない苛立ちを若い男にぶつけた。それは牧島自身の言葉だったのか、あるいは牧島が社会から投げつけられた言葉だったのか。
「ちゃんと働け」
すると、若い男は迷惑そうにうずめた顔を牧島に向けてきた。
「あの、すいません。今ちょっとヤバイんで、あとにしてもらえますか……あ!」
若い男は何かに気付いたように短い声を発すると、慌てて顔を膝に埋めた。どうも若い男は牧島の話を聞くどころではないようだった。
朝の新宿駅構内の人間は、どんどん増えていく。そこに、一際大柄の男がドタドタと走ってやってきた。通勤通学の者とは明らかに違う雰囲気だった。トレンチコートを着込んだ大柄でいかつい男だった。男は、誰かを探しているようにぐるぐると周囲を見渡していた。その形相には、怒りの感情が見えた。
一瞬、牧島と男の視線が交錯した。
その男の目には、侮蔑の光が宿っているように見えた。朝の新宿駅でへたり込むホームレスかと思ったのかもしれない。だとしたら、許しがたい誤解だった。
トレンチコートの男は、牧島の前で首を巡らせたあと、また駆け出して行く。
「おい。行ったぞ」
男が去ったのを見届けて、牧島は若い男に声をかけた。
若い男は恐る恐る顔を上げると、辺りにトレンチコートの男がいないのを確認して、大きく息を吐いた。
「ああ、危なかった」
「あんた、追われてるのか? あいつは何だ?」
牧島の経験上、日本では追いかけ回されている方が大体悪い。ひったくりや、泥棒の類いだろうか。
「あの人は、警察です」
若い男は平然と言った。
びくりと牧島の体が震えた。
警察に追い回されている人間を見て、牧島はごくりとつばを飲んだ。
見たところ悪人には見えない、なまっ白い肌をした優男だ。どことなく頼りない印象を受ける。二十代前半で、働き始めたばかりといった感じだ。
「何をしたんだ?」
牧島が尋ねる。
若い男は、顎に手を当てて考え込んだ。
「……よく考えたら、まだ何もしてないです」
犯人はいつもそう言うものだ。
何もしてない男が、警察から追いかけられるはずがない。人は見た目には選らない。こう見えて、この若い男は凶悪な人間なのかもしれない。とはいえ、牧島は若い男を警察に突き出す気にはなれなかった。こういうときの一番の処世術は関わらないことだと、牧島は短くない人生で学んでいた。
「そりゃあ。災難だな」
それだけ言って、牧島は視線を外した。
若い男は通り過ぎてゆく人並みをぼんやりと眺めていた。
「ああ、働きたくないなぁ」
若い男はつぶやいた。
こいつはまた勝手なことを……!
と牧島は思ったが、凶悪犯かもしれない人間に強くは出れない。そもそも牧島自身、それを言う立場に今はないと思い至った。
だから、少しだけ素直な気持ちが出たのかもしれない。
「……そうだな」
そういうときも、あるかもしれないと、牧島は思った。
すると、若い男は牧島に向き直った。目が輝いている。
「ですよね! いやぁ、近頃分かってくれる人がなかなか居ないんですよ。僕はただ働きたくないだけなのに。あなたなら分かってくれると思ってました!」
この男は、牧島が同類なのだと言っているようだ。
そうじゃないと、牧島は思った。
たまたま今こうして座り込んでいるだけだが、決して同類ではない。
社会で働き、人々の役に立ち、金を稼いで、認められることが、大人だ。
いや、それが人間だ。
若いのにプラプラと遊び歩いているようなやつは、違う。
牧島は毎日働いてきたのだ。
若い男は牧島の様子を上から下までジロジロと見た。
「でも、あなたは少し休んだほうがいいですよ。かなり疲れているみたいだ」
若い男は言った。
「俺が、疲れているだって?」
「ええ、だから座り込んでいるんでしょう。目の下のくまもひどい。手足がしびれていますね。胃腸もやられているようだ」
笑顔でしゃべりつづけた。なんだこいつは。医者か?
「あなたの仕事は、きっと大事なことです。でも、あなたはもう少しあなた自身の体を労ってあげてください。じゃないと、保ちませんよ」
若い男は静かに話し続ける。牧島の中に、また怒りが湧いてきた。
お前に、何が分かる――。
こんな奴と、自分は違うのだ。警察に追われて逃げ回るようなやつとは。社会の落語者とは。
「俺は、お前とは違う」
牧島は強い口調で言った。若い男の笑顔に、少し影が差したように見えた。
「俺はまだ、働ける。働き続けることができる。今は、少し休んでいるだけだ。俺はいつも始業の二時間前には出社している。だから、少しくらい休んでも、始業には問題なく間に合う」
牧島はバッグを強く握った。若い男は、何とも言えない悲しげな表情を浮かべた。
「そうですか。お体は大丈夫ですか」
気遣うような若い男の言葉を、牧島は無視した。
「若いの。仕事はちゃんとしているのか」
「……働いてます。不本意ですが」
若い男は自嘲気味に笑った。
警察に追われながら働いているとはお笑い草だ。どうせ碌でもない仕事だろう。
「お前はちょっと体調が悪いくらいで仕事を休むのか?」
「まあ体調が悪ければ、休みますね」
若い男の言葉を牧島は鼻で笑った。
「これだから近頃の若い奴らは困るんだ。いいか。仕事ってのは決して休んではいけないんだ。好き嫌いじゃない。お前が仕事をしなければ、誰がお前の仕事を回すんだ。誰が社会を回すんだ。余程のことがなければ、仕事は休まないもんなんだ」
「余程のこと……ですか」
「そうだ。熱が四十度出たとか。交通事故に巻き込まれて重体とか。自身の生死に重大な問題が生じたときだけだ。親が死んだくらいじゃ休むべきじゃない。お前が休んだところで、どうなるっていうんだ? 死んだ人間が生き返るか?」
駅の床に座りながら、牧島はまくしたてる。通行人たちは、気にせず通過していく。
黙って聞いていた若い男が、口を挟んだ。
「じゃあ例えば、友人の結婚式はどうでしょう。あと自分の子供が生まれるとか。休んじゃだめですか」
あっけらかんとした若者の口調に、何を聞いていたのだろうと牧島は呆れた。
「論外だ。逆に何で休む必要があるんだ? 祝電でも送っておけば祝いの気持ちは伝わる。お前がどこに居ても子供は生まれる。関係ない」
この若者は自分をおちょくっているのだろうか。
「……なるほど。じゃあ旅行に行くとかはどうでしょうか。海外に行くから、ちょっと長めの休みが欲しいとか」
「許されるわけが無いだろ!」
牧島は大声で叫んだ。通行人が怪訝な表情を浮かべるが、そそくさと通り過ぎていく。
「そんなものはお前の都合だ! 仕事とは何の関係もない! そんなことで休むやつは社会人失格だ! いや、人間失格だ! 恥を知れ!」
若い男は牧島の剣幕に驚くでもなく、怖がるでもなかった。やっぱり哀しそうな表情で牧島を見ていた。いくら打っても響かないヤツだ。
こんなヤツが増えたら、この国も終わりだと牧島は思った。
随分話し込んでしまった。早く会社に行かないといけない。
牧島の体には怒りが満ちて、力が入るようになっていた。
今なら、行ける気がする。やれる。
「じゃあ……」
若い男は続けた。その目に静かな炎のような輝きが揺らめいていた。
次に妙なことを言ったら、殴ってやろうかと牧島は考えた。
若い男は穏やかな表情で言葉を繋いだ。
「会社が爆弾でふっ飛ばされたらどうでしょうか。仕事に行く必要は、ありますか……?」
「なん……だって……?」
牧島は反射的にバッグを胸元に引き寄せていた。
「だから、会社が爆弾テロの標的になって、建物ごと吹っ飛んでしまったら社員としてはどうするのがいいんでしょうか」
牧島の体が無意識に後ずさった。
「そ、そんなことは荒唐無稽な妄想だ。起こるはずがない」
「もし起こったら、あなたはどうしますか?」
若い男は先程と変わらず穏やかな声で話しかけてくる。
「か、会社がなくなってしまったら、仕事も何もないだろう。出来ないんだから、仕方ない」
「休むということでしょうか」
「ないものはどうしようもないだろう!」
牧島は叫びだしていた。息が上がってきた。
何なんだこいつは。何を、知っている?
若い男の表情は終始穏やかで、どこか優しげであった。
「さっきも言いましたが、あなたは休んだほうがいい。爆弾テロがなくても、自分の意志と、自分の都合で」
若い男は手を伸ばしてくる。牧島の、バッグに。
「触るなぁ!」
牧島は伸びてくる手を振り払った。
「近付くんじゃねぇ!」
牧島はバッグを抱え込みながら立ち上がる。
かなり大声が出ていたのか、通行人たちも牧島たちを見ていた。若い男も立ち上がった。
牧島の目は血走っていた。
「てめぇ! 何なんだよ! どうして邪魔するんだ! 俺は、やるしかねぇんだよ」
「大丈夫です。やるしかないなんてこと、ないですよ。どんなときも違う道があるものですから」
取り乱す牧島に比べ、若い男はあくまで冷静だった。
「俺は働かないといけないんだ! 働き続けないと! お前みたいになるわけにはいかないんだ! だから!」
牧島はバッグを握りしめた。
そうだ。会社で爆弾が爆発すれば、仕事どころじゃない。誰も働けない。もちろん、自分も働けないのだ。それは仕方のないことなのだ。働き続けたいのに、働けないのだ。誰にも文句は言わせない。誰かがやってくれればよかったが、誰もやらないから、自分でやるだけだ。
昼間勤めている薬品メーカーでニトログリセリンを盗み出して、夜の建築現場で余った珪藻土と混ぜて爆弾を作った。
一週間前、河川敷で爆発テストもした。
それほど爆発力はなかったが、会社を休業に追い込むには十分だ。
夜には建設現場に爆弾を仕掛ける。
つまり明日から自由になるんだ。どうしようもない理由で。
周到に用意してやってきた。痕跡は残さない。誰にも気付かれてないはずなのだ。
「……あなたのやっていることは、間違っている。だから止めに来ました」
若い男は手を差し出した。
「バッグを渡してください。あなたの罪は、まだ軽い。爆弾を作っただけなんだから。あなたはまだ、何もしていない」
なのにこいつは、すべてを知っている。こんな若造に、追い詰められているなんて。
「てめぇ、何者なんだ!? ニートの犯罪者じゃないのかよ!」
「ニートの犯罪者……? えーと確かにニートにはなりたいですが、犯罪者ではないです。働かないのを犯罪としたなら、犯罪を志向しているとも言えますけど……」
「訳の分からんことを……! お前の仕事はなんだ! 言ってみろ!」
どんな仕事をしているか、それはこの社会ではとても重要だった。
牧島にとっては、世界の全てと言ってもよかった。
どんな仕事で、どれだけ稼いでいるかが、牧島悟が考える人間の価値だった。
「……僕は庄一。佐藤庄一です。仕事は警察官です。まあサブワークの副業ですけどね」
庄一はそう言って、警察手帳を牧島に見せた。
「働きたくないというあなたの気持ちはよく分かりますが、やり方がよくない。僕と一緒により良い働かない社会を目指そうじゃないですか。協力しますよ」
庄一はにっこりと笑った。
牧島はバッグを床に置いた。どさりと鈍い音がした。
庄一は目を見開いた。
次の瞬間、牧島は庄一に殴りかかっていた。
「俺は働きたいし、働けるんだ! ただ、どうしようもない理由で働けなくなるんだ! それを邪魔するなぁぁッ!」
振りかぶるような大振りの拳だ。武道の心得がある警察官なら、難なく躱すだろう。しかし、庄一は――。
「ぎゃばはぁっ」
思いっきりぶん殴られて床に転がった。庄一は運動が得意ではなかった。周囲に居た通行人も、さすがに異常に気付いたようだった。みなが二人から距離を取って逃げていく。
「はは! 見たか! 弱い癖に調子に乗りやがって! そこで寝ていろ。これから俺は大事な仕事があるんだ」
牧島は勝ち誇るように笑うと、先程置いたバッグを手にとった。
「これさえ爆発すれば、俺は仕事が出来なくなる。仕方ないんだ! じゃあな!」
会社へ向かって駆け出そうとする牧島。
「待ってください! あなたは目標をすでに達成しています」
それを止めたのは庄一だった。牧島は振り返り、疑いの目を向けた。
「何だと……?」
庄一は殴られた頬を押さえながら、膝立ちになっていた。
「いつつ……。痛い……だから嫌だったんだよなぁ。はぁ。牧島さんはもう目的を達成しています。だから、爆弾を爆発させる必要なんて、ない。さっき何もしてないと言いましたが、少し違いました」
「どういうことだ……?」
「すごく耳寄りな情報ですよ。あなたは爆弾を爆発させず、しばらく働かなくて済みます」
なんだそれは。一体どういうことだ。働かなくて済むなんて。宝くじでも当てようってのか。
「そんな方法あるわけねぇ! 爆弾を爆発させて、仕事自体を無くさなければ、俺は、俺は」
「あなたは、逮捕されます。爆発物取締罰則は爆発物の製造や所持を固く禁じています。それであなたの悩みはしばらく解決しますよ。仕事なんてさせるわけがない。あなたがいくら働きたいと思ってもね」
「あ……」
牧島はバッグを落とした。そのまま膝から崩れた。
次の瞬間、人の波の中から男がなだれ込んできた。
牧島が気付いたときには、流れるような動きで牧島を押さえつけた。
「見つけたぞ牧島! お前を逮捕する!」
万力のような力で抑え込まれて、牧島は一切抵抗できなかった。
先ほど佐藤庄一を探していたトレンチコートの男だと、牧島は気付いた。
本物の警察官の力だった。そうか。こいつはずっと、自分を探していたのだ。
とても抵抗できない。
いや、するつもりもなかった。
逮捕してくれるのだ。それなら、いいか。
「濱中警部! 建設現場の方は!?」
庄一は言った。
「大丈夫だ! まだ仕掛けられては居ない! てめぇ庄一! 勝手なことしやがって」
「すいません! でももう大丈夫だと思います。彼は抵抗しません」
「バカ! こいつは凶悪犯だぞ! さっさと爆弾処理班を呼んでこい!」
「分かりました!」
庄一は駆け出した。近くに来ている爆弾処理班のところに向かう。
走りながら、後ろを振り返ると、牧島は濱中警部に手錠をかけられていた。
一切抵抗する様子もない。
いや、むしろ……。
牧島は穏やかな顔で眠っているように、庄一には見えた。
翌日、庄一は昼休みに職場近くの喫茶店に呼び出されていた。
冬の中で、妙に温かい日だった。
「イカれたヤツだよ全く。取調室でやけに生き生きしてやがる」
濱中警部はため息と共に、煙草の煙を吐き出した。
「それだけ仕事が辛かったのかもしれません。真面目すぎるところがありましたから。働きすぎでしたし」
庄一はコーラを飲んで、ハンバーガーを食べていた。
「けっ! そういうヤツが一番始末に終えねぇんだ。こう……思い込んじまうからな」
濱中は両手を顔の横でスライドさせた。
「でもまあ大惨事になる前に止められてよかったです。牧島さんが爆弾設置に躊躇する心があったから、何とかなりました」
実際、あのまま爆破されていたらとんでもないことになっていただろう。
牧島が作った爆弾の威力は、牧島の想定以上の破壊力があった。
「しかしよぉ。お前はなんであいつが牧島だって分かったんだ? 警察で持っている写真とは似ても似つかねぇ姿だったじゃねぇか。ろくに眠らず働き続けると、ああなっちまうのかね」
警察が掴んでいた牧島の写真は、すでに三年が経過していた。
この三年で随分老け込んだらしく、とても四十歳には見えなかった。
六十と言っても、信じていただろう。
「警察の写真は古いものですから。そこまで充てにはしてなかったです」
「じゃあどうして」
「助けてくれと言っているような、そんな気配がしたんですよ。何となく、ですが」
牧島の勤めていた会社でニトログリセリンの量が減っていた。
不審に思った社内の人間が警察に通報したのだ。
資料のミスか、担当者の勘違いか。
書類は巧妙に偽装されていたが、庄一が調査を進めていた結果、盗み出されていたものだと判明した。
一週間前に起こった河川敷での爆弾騒ぎから、警察は爆弾の成分を分析した。爆弾に用いられた珪藻土は、建設資材に使われるものだった。盗まれた化学薬品メーカーで働き、建設現場での仕事に従事している人物として、牧島悟が浮上した。
「近頃増えてきてるな。ダブルワークを利用した犯罪がよ」
濱中警部は煙草をふかしながらぼやいた。
「時代なんですかね。二つの職能を悪用すれば、今までにない悪事が出来ますから。消防署員兼保険会社の男が火災を事故認定して保険金をせしめたり」
「ああ、あったな。どいつも余裕のないツラをしてやがる」
かつては専業がこなしていた仕事でも、副業が認められるようになった。
パイロットと魚屋、占い師と科学者、動物園の飼育員と脳外科医。サッカー選手と保育士、神父と証券マン。政治家と漫画家。
二つの職場で活躍し、これまでにない実績を残す者もいた。
しかし光もあれば、闇もある。
庄一は無意識に昨日殴られた頬を撫でた。
「痛むのか?」
濵中警部はぶっきらぼうに言った。
「少しですが」
「さっさとふん捕まえちまえばよかったんだ。ノロノロと喋っているからぶん殴られるんだよ。気合が足りねぇんだ」
濱中警部は熱いコーヒーを飲んだ。
「彼と話したかったんです。同じ働きたくない者として」
「けっ! 馬鹿なこと言ってやがる。……しかし、動機もお前の読み通りだったな。俺には理解できん」
「カウンセリング、しっかり受けさせてくださいよ。彼はまだ、戻ってこられる」
「どうだかね。一度壊れちまったもんは、そう簡単にはいかねぇぞ」
「働く場所だけが、生き場所じゃない」
「じゃあどこだよ」
「それ以外の場所。そこに戻れるかもしれない。それが第一歩です」
「そんな場所、あるのかね」
「ありますよ」
庄一は確信しているように言った。
専業警察官の濱中には見当も付かなかった。
「どこだか知らねぇけど、ぶっ壊れる人間を増やしたくはないな」
「同感です」
庄一はハンバーガーを食べきると、残っていたコーラを飲んだ。
軽く手を合わせて立ち上がる。
「ごちそうさまでした」
昼食は濱中のおごりだった。
「おう。また何かあったら呼ぶ。警察とは別の視点が必要なんだ」
濱中は二本目の煙草に火を付けると、庄一に向けて手を挙げた。
「勘弁してくださいよ。本業だけで結構大変なんですから」
「まあそう言うな。警察の仕事も楽しいだろう」
濱中が煙を吐くと、庄一は嫌そうな顔をした。
「早く家に帰りたいです」
そう言って、庄一は店を出た。
午後の仕事が終われば、明日は休みだった。
通りには柔らかな陽が差していた。
気持ちが軽い。
休日に期待を膨らませながら、庄一は職場に戻った。