水の都市:ヘンネル
水は、その言葉から想起される以上のものである。と大昔に誰かが言った。水の都市、水は生命の象徴というだけでなく、偏在性の象徴でもあり、そしてまた局所性の象徴でもある。
或る所、ある時代に水の豊かな美しい都市があった。
名前はヘンネルと言ったが、この名前を一体だれが付けたのか検討も付かなかった。
気づいた時には、ヘンネルという名前が付けられていた。だからヘンネルという言葉や語源にどういう意味があるのか誰も知らなかったのでただ純粋に“水の都市“と直接言った方が人々にはピンときた。
ヘンネルは都市という名前ではあるけれど、都市というにはこじんまりしていて、空から見るまでもなく近くの山からでもそれは小さく見えて、時折ミニチュアか何かの様に見えることさえあった。
その小さな都市の中で人々は、そこで生活し、人生を謳歌していた。ここの人々の生活は常に水と共にあった。
水が生きるために不可欠であるという意味ではなく、もっと多くの意味で彼らは水と共にあった。
だからこの都市に住む人は水が生活に不可欠であるという意味以上に水を愛していた。水が彼らを愛していたかどうか、それは分からない。
都市の真ん中には黒い巨大な球体のオブジェクトがあった。
“エカント”と呼ばれるそのオブジェクトはまた噴水の出る大きな水場の中にあった。
“エカント”は古い言葉で真実という言葉だと代々父から子へ伝えられてきた。
球体のオブジェクトは下からの水の強力な圧力で浮いていて、常に回転していた。
方向は決まっておらず、完全なデタラメに回っているように見えた。
その周りには、ぐるり円形に水の噴出口があって“エカント”に向かって水が出ているのだが見る時間によってその模様が違うような緻密に繰り込まれた仕組みになっていた。
原理を知っているものは誰も居なかった。みなが信じているところでは、この都市を作った最初の人が象徴として考えたというらしかった。
その辺り、つまり中心街はこの都市で最も賑わう場所で、土日や祝日に限らずいつも大勢の家族連れや遠くから来た観光客で騒々しいほどにぎわっていた。
周りにはレストランから土産物屋、靴屋までありとあらゆる店が立ち並んでいた。
そうすることで子供が噴水の水場で遊んでいる間大人はショッピングを楽しむことが出来るし、子供一緒に食事をしたりした。
ヘンネルが“水の都市”と呼ばれるのは噴水が綺麗であるからではない。それはもっと別のところ、すぐ見える別のところにあった。
この都市では車は一台も見られない。
たったの一台も・・・。
そればかりではなく、電車も路線バスも無く、勿論地下鉄も無かった。
この都市の構造からして作るのが不可能なのだ。
だが、その代わりにこの都市には舟があった。いたるところに舟があった。
ただ乱雑に水の流れがあるわけではなく、水の流れは極めて秩序。
真ん中の水場を目印にそれを囲むようにまず大きな水の流れが一つあった。
それは舟が数台同時に通れるような広さで、流れは常に穏やかだった。
その周りを同心円状に一つ、二つ、三つと、ぐるりと囲むように大きな水の流れがあって、そこからまたさらに街の至るところにつながっているのでこの都市に住む人は買い物に行くにも、学校に行くにも舟に乗っていくことが出来た。
この都市の近くには海は見当たらなかった。ただ、常に水だけがあった。
ケイティはベッドにもたれ掛かりながら絵本を読んでいた。
時折読むのを中断して足をパタパタさせた。
部屋の壁は可愛らしく明るいピンク色一色で彩られていて、壁にはケイティの好きなアニメのキャラクターの絵がたくさん貼ってあった。
ケイティの服もピンク色だった。
“今日も元気で行こう”と英語で書かれていた。
ケイティの今読んでる本は左のページに簡単な絵、右のページには文字という作りになっていてケイティは目をキラキラ輝かせて読んでいた。
ケイティはこうして絵本を読むのが好きだった。
今日は土曜日、天気も良く風も穏やかだった。
ケイティは先月七歳になったばかり。なのだが、外に出て遊ぶよりも、おままごとをして遊ぶのよりも、一人で本を読むのが好きだった。
小学校で習ったばかりの知識を活かして頑張って読み解いていくのはとっても楽しかったし、全く別の世界に見たり出来るのはいつでも新鮮だった。
部屋にはそうした本がたくさんあった。
親も外にもう少し出て遊んだりしてほしいと思わないでもなかったが、何かあるたびに本を、それもケイティが好きそうなのを買ってきてくれた。“プールの中に入った時見たい”と度々思った。
数多くある絵本のでもケイティの特にお気に入りはハンス・アンデルセンという人が「人魚姫」だった。人魚の伝説を描いたもので、ケイティは何回も何回も読み返していた。どのページにも人魚の絵が書いてあった。人魚は綺麗でケイティの憧れだった。小さくあったり、大きくあったりと大きさは違ってもどこかしらにはきちんと描かれていた。楽しませるように隠れたように書かれていたものもあったが、ケイティはぜんぶ見つけた。
「人魚姫」の大筋はこんな風だった。
一人の美しい人魚が人間の王子に恋をした。
ある夜嵐によって王子の乗る舟が難破して、王子は海に投げ出されてしまった。
その人魚は助けようと王子を水辺まで運んだ。
しかし人魚であることを知られてはいけないので、遠くから見つめることしかできなかった。
偶然通りかかった修道女が彼を連れて行った。
人魚は、王子のことが忘れられず海に住む魔女に頼んで人間の姿になることが出来たがその代償として声を失った。
王子は、修道女の事を毎日考えたがその女性を見つけることは出来ない。
人間の姿になった人魚は王子と仲良くなったが、声が出せないため本当のことを伝えることが出来ない。
ある日、王子に縁談が持ち上がった。
王子は一度は拒否するが、相手がその修道女であると分かると喜んで了承した。
人魚は王子の幸せと自分を愛してほしいという二つの間で揺れる。
人魚は王子の幸せを壊すことが出来ず悲しみに暮れ、泡になってしまう。
泡になった人魚はしかしそのまま消えてしまわず、風の精に生まれ変わり空へと昇った。
人魚の目には幸せそうな二人が写っていた。
おしまい
「ケイティー」と下の方から声がした。
ケイティは読むのに集中していて気づかなかった。彼女は、自分が人魚で海を泳いでるのを想像していた。
「ケイティー!」ともう一度声がした。今度は先ほどより大きな声で聞こえてきた。
今度ばかりはケイティも気づいて返事をした。
「は~い」
その高い声は良く響いた。人魚は浜辺に打ち上げられた。
“いいところなのに”ケイティは思った。
一度本の事になるとほかの事をすっかり忘れてしまってほかの事などどうでも良くなってしまうのだ。
本を丁寧にたたむと、ケイティはドタドタと勢いよく階段を駆け下りていった。
一回のリビングでは、父親が待っていた。ちょうどマフラーをコートの襟の中に入れているところだった。準備万端と言った感じだった。
「パパ!」ケイティは満面の笑みで言った。
「おやケイティ」
「十一時に出るといったろ?」
“あ、そうだった”
ケイティはようやく思い出した。
ケイティは、昨日の晩父親と中心街に遊びに行くことを約束したのだった。
中心街にはケイティお気に入りのおもちゃ屋さんがあった。そこに行くことがケイティの二番目に好きなことだった。
「約束は守らないとダメだよ。ケイティ」
とケイティは急にヘンな顔をして、ただただ黙り込んだ。
「もしかして、また絵本を読んでいたのかい?」
父親が言った。
「うん、そう」
“やれやれ”と父親は思った。“昨日の晩は、そのことではしゃいでいたのに“
ケイティは、ここで初めて少し申し訳なさそうな顔をした。
「何回も読んでるだろう?」
「うん。でも面白いから、まだ何回も読むわ。」
そうしていつもの押し問答が始まった。
勿論、負けるのはいつも父親の方
「分かった分かった。降参だよ。」
父親は、笑いながら両手を上げた。
するとケイティは何かに気付いて、首をブンブン振り回した。母親の姿がどこにも見えなかったのだ。
“変だわ”
「ねえ、ママは?」。
「うん?ママは、用事で朝早くから出かけたよ」
鏡を見てマフラーの崩れを治しながら言った。
「そうなの?」
ケイティの母親は、学校の役員をやっていて今日はそれに呼ばれたのだった。
それも、昨日の晩直接母親から聞いたはずだった。
ケイティの父親はそれは言わなかった。言っても仕方が無いと思ったからだ。
「そうだよ、それよりはやく支度してきなさい。外に舟を待たせてあるから」
「は~い」
「パパは外で待ってるよ」
「分かった」
ケイティはまたも階段を駆け上がりをバックハンガーに掛けてあったリュックを掴んだ。
本は入れようとしたが角の部分が入らなかった。ケイティはしぶしぶ諦めた。
そしておもちゃとお菓子を急いで詰め込んで、また階段を駆け下りた。
家の玄関を出ると、太陽が燦々と輝いて見えた。
玄関の外はちょっとした船乗り場の様になっていて舟が一隻止まっていた。
全ての家に一つの船乗り場がついてあったがケイティの家の乗り場はちょっとだけ豪華だった。
父親は乗り込んで、漕ぎ手と何やら親し気に話している。
ケイティは駆け寄り、父親はケイティに手を貸して乗るのを手伝った。
舟は揺れていて、子供には少し危なかった。が、ケイティは両足で飛び乗った。
「こら、危ないよ。ケイティ」
“ふふ~ん”ケイティは満面の笑み
「行きますよ」
と漕ぎ手が言って、舟は出発した。その光景は磁石同士が離れる様子に少し似ていた。最初は力を必要とするが、それを超えると不思議なほどスムーズに離れていくのだ。
舟は慎重に進んで水面に綺麗な波面を作り、ケイティは自分のうちが小さくなっていくのをじっと見つめた。
実はケイティの家は、父親が自ら設計して作ったものだった
そればかりでなく、この付近も彼が作った、ないしは手伝った家が数多くあった。ケイティの父親は大工なのだ。
だから父親は周りには尊敬されていたし、ケイティもそれを快く思っていた。誰もが父親の顔を知っていた。
まあ多少喧嘩はしてもそれはケイティがまだ幼いからであって(勿論ケイティ自身はそんなこと思ってなかったが)、眠りに入る前に“自慢の父親だ”と思わない日は無かった。
そのくらい大工という職業はこの街で尊敬される職業だった。
何故なら水との親和性を保ちつつ、人々に住む場所を与え、街の風景を美しく作り上げるからだ。
そうすることで、町全体が活気に満ち、淀んでいた空気が一気に晴れる。
水との親和性というこのキーワードはこの街では非常に重要だった。家は確かに水を押しのけるけれど、それは排他的であるからではない。それは家であるからだ。
「今の人はすぐに、何かを売ったり買ったりといった商売をしたがる」とみんな思っていた。
確かにお金はケイティの父親も口には出さなかったがそう思っていたに違いない。それはともかく、中心街に向かうにつれ段々賑やかになって来ていた。すれ違う舟も多く、いつもの街だった。だが“今日の波はいつにも増して、緩やかだ“と漕ぎ手は思った。
何かが起こりそうだという予感のようなものがその波にあった。
だが、ケイティも父親もそんなことお構いなしだった。ケイティはワクワクしっぱなしだったし、父親はそんなケイティを見てほっとしていた。父親はギラギラ照り付けている太陽を一瞥した。
中心街についてお金を払うと「どうも」と言って頭を下げ舟はまたどこかへ行ってしまった。中心街は賑やかでいろいろな声が聞こえた。子連れもいたし、カップルもいたし、老夫婦も居た。“エカントは?”ケイティの父親はエカントを探した。今日“エカント”は東の方向に向けて回っていた。“そういう日もあるだろう”隣にいたはずのケイティは居なかった。ケイティはもうすでに走り出していた。
来た時の水路を基準にして、三番目の店。
ケイティが中に入ると、カランカランと音が鳴った。人はケイティの他には誰も居なかった。
そこには不思議な空間が広がっていた。中はほの暗く天井からはいくつもの色の布がぶらさがっていて、木でできたお人形(その人形の多くは曖昧な表情をしていた)や数珠つなぎになった宝石がいくつも置いてあった。子供には見合わない場所だ。
音を聞いておばさんが出てきた。
おばさんは何度も来ているケイティの事を知ってるに違いないのだが、買う時以外いつも無口で何も喋らなかった。
ここからでは眼を開けているのかそうで無いのか分からなかった。
ケイティは新しいものが無いか見て回った。ふとケイティは片隅にそっと置かれてある水晶に気が付いた。それはいくつもの品物の後ろに隠れる様にして置いてあった。完璧な球体で、薄い水色をしていた。
スノードームのように中に白い靄のようなものが見え、ケイティは中を覗き込んだ。その時、父親がようやく店に来た。しかし音は鳴らなかった。全てはもう遅かった。
ケイティが覗き込んだ途端、街全体が恐ろしい勢いで回り始めた。街の全ての水があふれ、上下がさかさまになった。水は形を自在に変えながら街のすべてを覆っていった。
「なあ、いつまであんな怪物と戦わなくてはいけないんだ。」
男は、上で暴れている巨大な機械の怪物“フランケンシュタイン”を眺めながら言った。男の眼は、空を眺める時のそれだった。
圧倒的なものを眺める時のそれ。
そこに関心は無かった。
肩には最新鋭の機関銃。
デカい音がして、ビルの崩れる音がした。“フランケンシュタイン”が巨大な腕をまたひとつ振ったのだ。
「さあな」隣の男が言った。隣の男はがれきの中で偶然拾ったマーブル(ビー玉)を手の親指と人差し指で転がしながら見つめていた。その男は隣を一瞥して、ため息をついた。
二人は上半分がキレイに欠けてる二つのビルの間の狭い隙間にいた。そのおかげで“フランケンシュタイン”からはバレてはいない。しかしそれも時間の問題だった。
男はタバコをふかした。一通り楽しんだ後、隣に渡した。隣の男は無言で受け取ったがタバコは短く、かろうじて指で挟めるほどだった。
そこから無言の間が長く続いた。
「さて、行きますか」男は重い腰を上げて、体の筋肉を伸ばし始めた。隣の男は何も言わなかった。
“フランケンシュタイン”が吠えるような音を発した。音はビルを伝って響いた。
二人は歩き始め、男はなんでもなかったようにマーブルを放った。