一条時雨の死
ーーー5年前の冬。
東京は寒波に見舞われ、雪が降っていた。
人通りの多い道を除き、あたりはすでに純白で覆われている。
蛍は複数の警察官に囲まれ、連行されようとしていた。
激しく抵抗したと見え、警察官らも蛍自身も傷だらけだ。
「ったく、手こずらせやがって、このガキ」
警察官の一人が忌々しげに蛍を背後から蹴飛ばした。
蛍は小さく呻くと、背後の警察官を鋭く睨んだ。
「おい、やめとけ。それ以上やるとさすがにまずい」
他の警察官が蹴とばした警察官を諫めた。
(こんな奴ら殺そうと思えばいつでも殺せる……でも、もうどうでもいい)
蛍は自分の人生にうんざりしていた。
別に今日死んでもいいし、明日突然死んでもいい。
ただ腹が減るから仕方なく日銭を稼ぐ。
生きているというよりは、永遠に繰り返す日々をやり過ごしているに過ぎなかった。
「すみません、彼は何をしたんでしょうか」
そこに突然、青年が話しかけてきた。
すらりとした長身に、低く涼やかな声。
誰も口にこそ出さないが、その場の誰もが内心はっとするような、整った面立ち。
詰襟の学生服にマントを羽織り、頭には学帽。
おそらく彼は大学生であると同時に、良家の子息であるということは明白だ。
警察官の1人が口を開く。
「何って、職務質問したら突然殴りかかってきたんだよ。君の知り合い?」
青年が蛍の方に視線を向け、ほんの一瞬だけ視線が交わる。
蛍はふと相手に違和感を覚える。
(こいつの匂い、普通の人間と少し違うな……一体何者だ?)
大学生は警察官に笑顔を見せた。
「はい、友人です」
蛍を含めた全員がえっという顔をする。
「僕は一条時雨と言います。彼を引き取ってもよろしいでしょうか」
ぽかんとする警察官の一人が口を開いた。
「一条ってまさか、あの一条財閥の……」
時雨はよそゆきの笑顔ではい、と言った。
「兄がたまに警視総監殿と会食をさせていただいているとか。いつもお世話になっております」
警察官たちは明らかに動揺し、顔を見合わせた。
「……渡せ」
警察官の一人がそういうと、蛍は開放された。
いつの時代も大人は権力に弱い。
時雨と蛍は警察官が去るのを見送ってから、2人で歩き出した。
「……おいお前。なんで俺を助けた」
蛍は訝しんで時雨に尋ねる。
時雨は少し考えたあと口を開いた。
「なんとなく俺と似てる気がしたから」
蛍はその言葉に思わず言葉を荒げる。
「はあ?いいとこのボンボンと俺のどこが似てるってんだよ」
時雨はちらりと蛍を振り返った。
「……多分君にも俺のことが『わかる』だろ?」
意味深な言い方だがそれが何を指しているか、蛍にはわかってしまった。
先ほどから感じる一条時雨の違和感。
それはおそらく彼が、「純粋な人間以外の何か」だからだ。
……自分と同じように。
「君、名前は?」
蛍は突然現れたこの男を信用していいものか悩んでいた。
もしかしたら自分を何かに利用するために、近づいたのかもしれない。
けれど、この一条時雨という男からは何の悪意も感じられない。
それに自分と似た境遇の人物と会うのは初めてだ。
正直、興味がないといったら嘘になる。
蛍は時雨から目をそらし、ぼそりと呟いた。
「……土屋蛍一郎」
時雨は振り向き、にこりと嬉しそうな笑顔を見せた。
「いい名だ」
蛍は心の中に、不思議な感情が湧いてくるのを感じた。
そんな風に名前を褒められたのは、初めてだったからかもしれない。
*****
病院のベッドでは、喉元を刀でざっくりと貫かれた一条時雨が横たわっていた。
彼の口からはごぼりと大量の血が溢れ出る。
時雨は目を見開き苦悶の表情を浮かべる。
「ぐ……!」
もはや言葉を発することもできず、口をぱくぱくさせる。
両手で刀を抜こうともがくものの、彼の手に傷がつくだけで何の意味もなさない。
そうしているうちに彼の意識はあっという間に遠のいてゆく。
そして、ついに。
青年はがくりと力尽きた。
それを見届けた隼人は時雨の体からずるりと刀を引き抜く。
彼はつまらなそうに動かなくなった時雨の顔を見つめた。
達成感と同時に、虚しさを感じていた。
「案外あっけないものだな……」
隼人は刀にべったりとついた鮮血を布団に押し付け拭う。
その時扉の方からカタン、と音が鳴る。
隼人がぱっと振り向くと、そこには蛍が呆然と立っていた。
「……これ、どういうこと?」
蛍は血まみれで横たわる時雨を見つめたまま、呟くように言った。
彼の鼓動は早鐘を打ち、手はわなわなと震えだす。
「……一条さんなら、死んだよ」
隼人は何でもないことのように言ってのけた。
しかし刀を持つ右手には自然と力が入る。
「は……?」
誰に言うでもなくそう言うと、蛍は隼人を睨みつけた。
彼の瞳は今まで見せたことがないほどの怒りに満ちている。
「……死んだって、何?殺した、の間違いじゃないの?」
蛍がミシミシと体を変形させ、巨大な獣に姿を変えていく。
次の瞬間、彼は隼人の喉笛めがけ勢いよく喰らいついた。
隼人と化け物はその勢いのまま窓ガラスを突き破り、3階の窓から飛び出す。
激しい物音に職員が駆け付けるが、そこはあまりにも異常な現場だった。
大きく割れた窓ガラスと、血まみれで動かない患者の姿。
「け、警察……!警察を呼んで!!」
そう誰かが叫んだ。
階下では蛍と隼人が激しくもみ合っている。
植栽の上に落下したため重症は免れた隼人だったが、
木々の枝で引っかかれた皮膚は生傷だらけになっている。
先刻とっさに犠牲にして首を守った左腕は、
すでに骨が砕かれ使い物にならなくなっていた。
「この……化け物が……っ!」
隼人は刀を大きく振り回し、なんとか距離を取ることに成功した。
しかし蛍の強烈な怒りの炎はますます燃え盛り、彼の心の全てを支配してゆく。
もはや自分が傷つくことなど全く意に介さない。
ただ目の前の敵を殺すこと、それ以外はどうでもいいことに思えた。
(時雨さんを殺した。あの、時雨さんを。僕は……俺は、こいつだけは絶対に許さない)
獣はフーフーと牙をむき出し荒い呼吸をしたかと思うと、隼人めがけて再び突進する。
隼人はすんでのところで身をひるがえし攻撃をかわす。
しかし獣はすかさず隼人の後ろの木から跳ね返り、彼の背後を狙った。
蛍の脳裏には時雨の穏やかな笑顔が浮かぶ。
(守れなかった。あんなに優しい人が、こんな形で死んでいいはずがないのに……!)
悲しみを覆い隠すように、彼の全身は怒りで震えていた。