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ただいま

(半年……いえ、それ以上ね。父様心配してるかしら……してるわよね。あんな手紙だけ残して出て行って、連絡すらできなかったんですもの……)


翌朝蝶子は自宅へと速足で向かった。

東の空から柔らかな太陽の光がさしている。

家を出た頃に比べるとだいぶ空気は冷え乾燥していたが、長いこと北の山にいたので少女の体感的にはむしろ暖かく感じた。

東京に戻ったら早めに顔を見せておきたかったものの、思った通りにはならなかった。

もっとも彼女の中では時雨が心配で、父に顔を見せたらすぐにまた病院に戻るつもりでいる。


(いえ、病院に戻る前に光の君の家へ行って、桃を届けなければ。ああ、やっと東京に戻ってきたのに全く落ち着かないわ)


それにしても、と少女は眉間にしわを寄せる。


(一条財閥のお坊ちゃんなのに、連絡してかけつけたのは執事とお女中さんの二人だけっていうのは、どういうこと?親族の方が誰も来ないなんて……会社の経営ってそんなに忙しいのかしら。考えたら私は時雨殿のこと何も知らないのね。だって彼、自分のことあまり話さないんだもの。私はもっと、知りたいのに……)


蝶子は小さくため息をついた。

ああだこうだと考えているうちに、自宅の門が見えてきた。

なつかしい景色に、胸がじんとすると同時に不安も強くなる。

今の時期は花などはないが、庭の常緑樹はどれもきれいに丸く刈られている。

蝶子は庭がいつも通りきちんと手入れされていることに少し安堵した。

やがてちりちりと小さな鈴の音が聞こえたかと思うと、黒猫が門の隙間からするりと出てきた。


「ビビ!ああ、会いたかった。私のこと覚えてる?蝶子よ」


ビビはにゃっと短く鳴くと、小走りで近寄ってくる。

蝶子がかがんで手を伸ばすと、嬉しそうに体を擦り付けた。

つやつやの毛並みをなぜながら、蝶子は優しく胸に抱きしめる。

小さく温かい生き物は、はりつめていた少女の心に安らぎを与えていた。


「お嬢様?」


門が音を立てて開くと、ハルが出てきた。


「ハルさん!あの、わ、私その……」


突然現れたハルに何を言えばいいか考えがまとまらず、彼女はしどろもどろする。

ハルは駆け寄ってきて、蝶子の肩をしっかりとつかんだ。


「ああ、よかった!生きてる、幽霊じゃない。心配したんですよ!でも生きて戻ってきてくれた。本当によかった」


ハルは涙を浮かべた瞳でまじまじと少女の顔を眺めた。


「ビビが急に外に出たがったから、もしかしてと思ったんです。今旦那様を呼んできますから、早く中へ」


蝶子は促されるままビビと一緒に家に入る。

少し古びた木の香りが彼女の鼻をくすぐった。


(ああ……うちの匂いだ)


長年見慣れた玄関の、丸いガラス灯や西洋風の壁紙に、赤い絨毯、柱の傷。

飾られた調度品も以前とほとんど変わらない。

彼女の中でやっと帰ってきたのだという実感がわいてくる。


中からバタバタと慌ただしい足音が近づいてくる。

蝶子はそれが父のものだとすぐにわかり、体を強張らせた。


「蝶子……!」


少女の前に姿を見せた父は、痩せたせいか以前より老け込んで見えた。

心なしか白髪も増えたように感じる。

父は目を見開いて娘を見つめた。

少女は長く伸ばしていた黒髪を短く切ってしまったし、今はとてもきれいとは言えない身なりをしている。

きっと驚いているだろうし、なんだその格好は、と憤慨しているかもしれないと蝶子は思った。


「お、お父様、ごめんなさい。本当に悪かったと思っているの。だから怒らないで頂戴」


蝶子は父の雷を避けるべく先手を打つ作戦に出たのだった。


「……」


恭介はしばらく黙っていた。

やがてうつむくと、震える手で目頭を押さえた。

しんとした玄関で、彼が鼻をすする音だけが響く。

父が、泣いている。

そう気づいた蝶子はそのことにひどく驚いた。

少女はこれまで父の涙を見たことがない。

彼女の記憶の中でおぼろげに残る母の葬式でも、父は泣いている姿を決して娘に見せなかった。

きっと父は他の誰かに弱っている自分を見せたくない人なのだと思っていたし、それができる人なのだろうと蝶子は考えていた。

そんな父が涙を堪えることができず、人前で肩を震わせているのだ。


「お、お父様……」


自分のせいでこれほど父を弱らせているとは思っていなかった蝶子は、おろおろする。


「……早く上がって着替えなさい。ハルさん、お湯と食事の準備を」


恭介は声をひっくり返しながらそれだけ言うと、よろよろと奥に下がってしまった。

これはおそらく彼が今できる、精一杯の強がりなのだろう。


「は、はい、旦那様。さあ、お嬢様居間へ」


少女は抱いていたビビを降ろすと、履物を脱ぎ、廊下を歩く。

恭介の姿があまりにも衝撃的で、頭の中で何度も反芻してしまう。

同時に申し訳ないという気持ちが湧いてきた。


(父様は大人の男の人だから、強くて泣いたりしないのだと思っていた。でも大人になったからって、男の人だからって、強いわけじゃないのかもしれない)


蝶子はぼんやりとそんなことを考えていた。


「……あ、ハルさん。そういえば隼人帰ってきてる?」


少女は確認しなければならないことを思い出し、尋ねた。

ハルは困惑したような表情を浮かべる。


「そのことは私もお聞きしたいと思っていたのですが……お嬢様は、隼人と一緒ではなかったんでしょうか?」


蝶子の心臓が嫌な予感で急にどくどくと脈打ち始める。


「隼人は昨日、先に帰したはずなのだけれど……まだ帰ってないってこと?」


ハルはこくりとうなづいた。

蝶子の顔から血の気が引く。


(隼人は私の言いつけを守らず帰らなかった。ということは、まだ時雨殿を狙っている……!)


いてもたってもいられなくなった少女は踵を返して玄関へとかけ戻る。

ハルは声を上げた。


「どこへ行くんです、お嬢様!」


蝶子は慌ただしく皮靴に足を突っ込んだ。


「駅前の大学病院に行ってきます。時雨殿が危ないかもしれないの」


絡まっている靴ひもに苛立ちながら雑に編み上げて蝶々結びに縛る。

すると騒ぎを聞きつけたのか、再び恭介が玄関に戻ってきた。


「あの男の元に行くのは金輪際許さない」


怒気をはらんだ声で、きっぱりと蝶子に告げた。


「中に戻りなさい」


恭介は強い口調で少女に命令する。


「今行かないと、時雨殿の命に関わることなの。それに、それに、もしかしたら隼人が人を殺してしまうかもしれないのよ!」


ハルさんがそれを聞いて青ざめる。

恭介は硬い表情を変えない。


「絶対にだめだ。なぜそんな危険がある場所に娘を行かせる必要がある?病院には私から連絡しておく。お前は家から出るな」


蝶子は必死に食い下がった。


「私の責任だから、私が止めなきゃいけないの。父様、お願いだから行かせて」


少女は父に懇願する。


「蝶子。もしお前が勝手に出ていくようなことがあればハルさんには暇を出す」


恭介は娘に脅しを突き付けた。

彼女にただ外出を禁止したところで言いつけを守らないことを知っているからだ。


「そんな、どうしてそんな卑怯なことを言うの?」


蝶子は握りしめたこぶしをわなわなと震わせる。


「それは自分で考えなさい」


恭介はそう言い捨てると部屋に戻っていった。

蝶子は父に対する怒りで顔を真っ赤にして眉を吊り上げる。


「お嬢様……隼人が人を殺すかもしれないというのは、どういうことでしょう」


ハルはおずおずと蝶子に尋ねた。

少女はハッと我に返り、一度深呼吸をする。


「……突然人が変わったようになってしまったのよ……私にも全くわからないのだけれど……」


ハルはしばし瞳を泳がせたあと、しわの刻まれた手を胸元でぎゅっと握りしめ、蝶子に向き直った。


「私はあの子を信じます。隼人は優しい子です。人を殺せるような人間じゃないですもの」


ハルは瞳を潤ませながら、気丈に笑顔を見せる。

その表情の作り方はどことなく隼人と似ていた。


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