誰も救えない
隼人が時雨の体から刀を引き抜くと、時雨はがくりと地面に伏した。
鬼斬りは鬼の高い治癒能力を阻害する。
いつもなら迅速に傷の修復が始まるが、今回はそれがない。
時雨の胴体の傷口からは鮮血がじわじわと溢れ出て止まらない。
隼人は動けない時雨にとどめをさそうと再び刀を振り上げた。
その途端、何かがものすごい勢いで横っ腹に突っ込んでくる。
予期せぬ衝撃で隼人は倒れ、手からは刀が離れてしまう。
隼人を突き飛ばしたのは誰あろう、蝶子だ。
青年に馬乗りになった少女は、目にいっぱいの涙を浮かべている。
「隼人!自分が今何をしたかわかっているの?あなたは今、友人を殺そうとしているのよ」
隼人の襟ぐりをつかみ、今にも噛みつきそうな勢いで蝶子は怒鳴った。
しかし青年は表情を変えずにこう言った。
「アレは鬼です。友人などではありません。そこをどいてください」
蝶子は隼人の頬を力一杯ひっぱたいた。
彼の口端は傷つき、血が滲んだ。
隼人は蝶子を押しのけると再び立ち上がり、刀を拾った。
少しずつ三人の周りに野次馬が集まり始める。
蝶子はその中の一人の男性に目を合わせ、早口で伝えた。
「すみませんが倒れている彼を病院へ。お礼は後ほどさせていただきます」
そう言い終わるや否や、少女は青年の前に立ち塞がる。
「彼を殺したいならまずは私を倒してからになさい」
蝶子は刀を抜き、その切っ先を隼人に向けた。
時雨は数人に抱きかかえられるようにして運ばれてゆく。
隼人はそれを追おうとするが、蝶子が絶対に通さないという気迫で進路を阻んだ。
「どいてください。じゃないと俺は多分、あなたを殺してしまう」
蝶子はなぜ急に彼がこんなことをするのか全く理解ができず、混乱していた。
いつも自分を大切にしてくれた青年が、自分を殺してでもあの人を殺そうとしている。
蝶子はその事実に衝撃を受けた。
様々な感情が昂り、少女の瞳からは堪えきれない涙があふれ出てくる。
彼女はそれを片手で拭った。
「よくわかりました。でも、あなたが誰かを殺すくらいなら、その前に私があなたを殺します」
隼人はゆっくりとその矛先を蝶子に向けた。
青年は相変わらず強い衝動に囚われていたが、無意識にその切っ先が震える。
(はやくあいつを追わないと、逃してしまう。この人を殺さなければ、追えない)
そう思うのに、動けない。
(俺は、あいつを殺さなければならないんだ。そのために邪魔する者は排除するべきだ)
ちらりと目の前の少女を見ると、涙をこらえながらも絶対にここを通さないという強い意思が感じられた。
青年の腕の震えがわなわなと大きくなる。
(目的の邪魔なのに、俺はなぜか、この人を殺せない)
隼人は時雨を殺したい衝動と蝶子を殺せない気持ちで板挟みになり、思考回路が焼き切れそうなくらいジリジリしていた。
それを見抜いたのか、先に仕掛けてきたのは蝶子だった。
青年はすんでのところで刃を防いだが、それを皮切りに戦いの火蓋は切って落とされた。
隼人は以前よく蝶子の剣道ごっこに付き合っていたが、その頃の彼女は「女の子にしてはうまい方」という程度だった。
正直隼人が本気を出せば一瞬で勝てたのだが、そこは彼がうまい具合に調整していた。
それがいつのまにか真剣を使いこなし、互角かそれ以上の実力をつけてきたことに、青年は驚いていた。
少女は力こそ劣るものの、高い剣技がそれを補って余りあるものに昇華させていた。
一瞬でも油断すれば負ける、と隼人は感じた。
彼女に強く打ち込んでみても素早くかわし、無駄のない動きで反撃してくる。
先を読む集中力と洞察力はすでに人並みはずれていた。
これは一朝一夕で身につくようなものではない。
半年の間この少女がどれほど努力をしたか、隼人ははからずも垣間見ることになったのだった。
打ち合っている時間は非常に長く感じられたが、勝負がつくのは一瞬だった。
蝶子は青年に疲労が見えたときを見逃さず、一気に刀を絡め取り弾き飛ばしたのだ。
慌てて刀を取りに行こうとする隼人の鼻先に、少女は刀をつきつけた。
「もう諦めなさい。あなたは私に勝てない」
時雨はとっくに見えないところに運ばれている。
今すぐ彼を殺すのは無理だということは隼人も気づいていた。
しかし、時雨を殺したいという衝動は残ったままだ。
隼人は考える。
今は諦めたふりをしていれば、そのうちまた機会は必ずあると思い至る。
「……そうですね、俺の負けです。俺が間違っていました、すみません」
隼人は心にもないことを口にした。
蝶子は隼人をじっと見る。
「もう二度と殺そうとしないと、約束できる?」
隼人ははい、と答えた。
蝶子は彼を注意深く観察しながら、隼人の刀を拾う。
「これは私が預かります。いいわね」
隼人はこくりと頷いた。
急に大人しくなった隼人を信じてよいのか、蝶子は迷っていた。
(どちらにせよ、しばらくは彼が時雨殿に近づかないよう用心しておこう)
そう考えて少女は時雨の容体が急に心配になる。
(時雨殿のところに早く行かなければ)
蝶子は隼人を馬車に押し込むと、家に帰るまで絶対降りないよう念を押す。
その後彼女は時雨を運んでくれた男性を見つけ、病院を聞くと、急いでそこへ向かった。
東京駅にほど近い、比較的大きな病院に時雨は収容されていた。
医者からは生きているのが不思議なくらいの大怪我だと言われた。
白いベッドに横たわる時雨を見て、蝶子は急に涙がこみ上げてくるのを感じる。
「ごめんなさい、時雨殿……」
声を震わせながらぼろぼろと涙をこぼす。
何度拭っても、どうしても止められなかった。
自分が隼人を連れてこなければ、こんなことにならなかったのに。
蝶子は自分を責めていた。
(最初に私が隼人の同行を強く断っていればよかった。そうすれば隼人が時雨殿を殺したいほど憎むこともなかった。総理も救えた……)
そう思わずにいられなかった。
それでも、いつも穏やかで優しかった隼人との思い出が、なぜかいくつも心に浮かんでくる。
今の変わってしまった姿が、過去の彼とどうしても結びつけられないのが苦しかった。
少女は力なく丸まった、青年の骨張った手を握る。
彼の長い指が物を捉える際の動きを、蝶子は密かに美しいと思っていた。
(どうか、時雨殿が助かりますように……)
少女はただひたすら何かに祈ることしかできなかった。