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血濡れた刃

世界が闇に沈む頃、鬼たちは目を覚ます。

火燐と翠蓮もあくびをしながら有栖川の邸宅に姿を現した。

二人は慣れた様子で屋敷にずかずか上がり込む。

火燐は一つに結った赤毛を揺らしながら寝所のふすまを勢いよく開け、声を張る。


「有栖川さん、起きる時間ですよ……ってあれ?」


いつも寝起きの悪い有栖川を起こすところから、彼らの一日は始まる。

ただ、今日に限っては違っていた。

布団はもぬけの殻だ。

火燐は戸惑い、隣にいる銀髪の少年、翠蓮の顔を見て問いかけた。


「有栖川さん、どこ行ったんだろ?厠かな」


翠蓮は少し思案してから答えた。


「今日は重要な日だろ。もしかしたら奥座敷にいるかもしれない」


火燐はなるほど、という顔をしてみせた。


「じゃあ行ってみようぜ」


彼は軽やかに方向転換をすると、奥座敷の方へ向かう。


「お前なあ、そんな調子で部屋に入ってみろ、また有栖川さんにどやされるぞ。今日はきっとピリピリしてるだろうし」


翠蓮は眉をひそめて相棒に釘をさした。


「わかってるって、そーっとやればいいんだろ、そーっと」


火燐の能天気な様子に翠蓮はダメだこれは、と天を仰いだ。



有栖川は屋敷の一番奥にある、小部屋に一人で立っていた。

彼の足元には陶器製の丸く浅い水盤が置かれている。

ここは元々この水盤を置くためだけの部屋だった。

だが火燐と翠蓮の二人が片付けと称してあまり使わない物品をぶちこんでしまったせいで、現在は物置に近くなってしまった。

多少は整理させたのだが、やはり雑然として以前より窮屈な感じは否めない。

もっとも、今はそれどころではないのだが。


有栖川は井戸から汲んできた水を、空の水盤に静かに注いだ。

澄んだ水が器に広がりながら、行灯の明かりをゆらゆらと跳ね返す。

やがて水のうねりが静かになると、有栖川は水盤の端を二回、コツコツと叩いた。

とたんに水面が青白く輝き、水が再び勝手に揺らぎだす。

するとだんだんと映画のように、何者かの姿が映し出された。

赤レンガの洋風建築、改札、そして柱の影で息を殺す中岡の姿だ。

続いて駅長の高橋と原、その付き添いの人々が中岡のいる方へと歩いているさまが見えた。

最後にもう一組、丸の内改札へと急ぐ蝶子たちの姿が浮かび上がる。


「しつこい奴らめ……」


有栖川は忌々しげに顔をしかめた。

足止めには手を回したはずだった。

だが彼らはそれをかいくぐり、自分たちの計画を阻止できるところまで来ている。

鬼の頭領は腕を組み、苛立ちをあらわにした。

役立たずの人間どもに加え、自分の見通しの甘さが許せなかったのだ。

そのとき背後の引き戸がそろそろと開かれる気配がした。


「火燐。ちょうどいいところに来た」


有栖川は誰が訪ねてきたかわかっていたようだ。

火燐は少し驚いた表情をする。

有栖川は水盤の中に映る隼人を指差して言った。


「お前、この男に授血していたな」


火燐は目を見開き、たじろぐ。


「……知ってたんですか」


少年はバツの悪そうな顔をし、肩をすくめた。


「あいつ変わってて、弱いくせに何度叩いても立ち上がって向かってきて。それで目の前で死なれるのが嫌だったっていうか」


火燐は慌てて言い訳を口にしたが、有栖川は今それを責める気はないようだった。


「授血したなら操れるな。一条時雨を殺させろ」


それを聞いた火燐は思わず固まる。

翠蓮も緊張した面持ちで二人を見つめた。


「できないとは言わせない。これは我々鬼の命運がかかっているのだ」


有栖川は冷たく言い放つ。

火燐は迷い、すぐには首を縦に振れずにいた。

彼は人を殺したことがない。

傷だらけで虫の息になったときの隼人の痛ましい姿がどうしても脳裏をよぎってしまう。

人の生を奪うということの重大さに彼は気付いてしまったのだ。

鬼にしては少々優しすぎるのが彼の美点でもあり、また欠点でもあった。

ただこの状況で否と言うことは許されないと知っている。


「返事は」


有栖川は厳しい口調で返答を迫る。

少年鬼はびくりと体を震わせた。

翠蓮が早く返事をしろというように彼の腕を肘でつつく。

火燐はぎゅっと拳を握ると、わかりました、と小さく答えた。

そしてぶつぶつとまじないのような言葉を呟きながら、手でいくつかの印を結んでいく。


ほどなくして遠く離れた場所にいるはずの隼人の体に異変が起こる。

急激に脳内が何者かに侵食されるような感覚。

体がこわばり、彼は思わず歩みを止めた。

それに気づいた蝶子が振り返り、近寄って来る。


「隼人、どうしたの?大丈夫?」


蝶子はちらりと先をゆく時雨を見て呼び止めようか一瞬迷ったが、声をかけなかった。

今は彼を先に行かせた方がいいと思ったのだ。

隼人は心の奥にしまったはずの、時雨への憎悪がものすごい速さで膨張していくのを感じた。

それは一枚の紙切れを端から一瞬で焼き切る、燃え盛る焔のようであり、青年の思考を強烈に支配してゆく。

彼は自身の突然の変化に恐怖さえ感じたが、それも一瞬だった。

もはやそれさえすぐにどうでも良くなるほど、抗いがたい衝動に突き動かされる。


(一条時雨を殺す)


ただその欲望を達成するため青年は再び歩き出した。

隼人は蝶子を押しのけると、おもむろに刀をぬき、時雨めがけて走り出す。


「隼人!」


少女は彼の名を叫んだが、反応を示さずどんどん離れていく。


一方、原は丸の内の改札前まで来ていた。

中岡は視界に彼の姿を捉えると、無言で懐から短刀を取り出し、鞘からその刃を抜く。

その様子に気づいた時雨は走り出そうとする。

今ならギリギリ間に合う、彼はそう思った。


その瞬間、腹部に衝撃が走る。

何が起きたかわからず自身の腹を見ると、血濡れた刃が突き出ている。

ふり返ると至近距離には隼人がいた。

そこで時雨は初めて気づく。

理由はわからないが、彼が自分を刺したのだと。

蝶子が青ざめ悲鳴に近い声で隼人と時雨の名を呼ぶ。


その声が聞こえたのだろうか。

ふと護衛官が視線を逸らしたわずかな隙に、中岡は原めがけて突進した。

初めは青年が原に強くぶつかってきただけのように見えた。

周りは一瞬のできごとに唖然としている。

しかし原はぐらりと体勢を崩し、仰向けに卒倒した。

同行していた役人や護衛官が、何が起こったのかわからないまま慌てだす。

眼鏡をかけた青年の手には、血で染まった短刀が硬く握られている。

原の右胸の刺し傷からはどくどくと血が溢れ出て止まらない。

このとき総理大臣が暴漢の凶刃に倒れるという、決してあってはならない大事件が起きてしまったのだ。

現場は大混乱に陥り、見物の客がどんどん集まってくる。

中岡は逃げる様子も見せず、その場で取り押さえられた。

倒れて動かない原は、駅長室に担ぎ込まれる。


「総理!総理!」


原は応急処置を施されたものの、同行人らの呼びかけに応えることはついぞなかった。


大正十年十一月四日、当時内閣総理大臣であった原敬は東京駅にて暗殺された。

原の傷は右肺から心臓まで達し、ほぼ即死状態だったという。


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