追憶
蛍は実の父も母も知らない。
血の繋がっていない夫婦に育てられていたらしいが、いつのまにやら研究所の被験体になっていた。
彼の記憶に残るのは無機質な白い天井と壁ばかりの建物。
そして毎日繰り返される人体実験によって、何度も死にかけた。
つらくて逃げ出そうとすれば職員にひどい折檻をうける。
永遠に続く現実に、少年は絶望していた。
しかしそんな蛍の心を唯一和ませてくれたのは、一匹の猫だった。
鉄柵に囲われたこの施設のどこから入ってくるのか、幼い蛍にはわからない。
彼は午後の一時間だけ中庭に出ることを許されており、猫はその時間帯によく姿を見せていた。
蛍がいつものように中庭の端に腰かけていると、それはどこからともなく現れる。
灰色の毛並みはつやつやで、光に当たると銀色にも見える、小綺麗な猫だ。
蛍と目が合うと、猫は短くにゃっと鳴く。
どうやらこれはこの生き物の挨拶らしい。
全身をすりよせてくる猫を、蛍は優しくなでる。
てのひらから、柔らかな毛と温かい感触が伝わってくる。
この猫ほど自分に愛情を示してくれる生き物を、少年は知らないでいた。
「元気そうだね、一郎丸。今日も少しだけ昼の残りを持ってきた。食べるかい?」
そういうと蛍は懐から布に包んだ握り飯のかけらを取り出した。
一郎丸と呼ばれた猫は、嬉しそうに少年の手から握り飯を食べはじめる。
「僕はそんなにおなかがすかないんだ。毎日、同じごはんだもの。だから代わりに君が食べるといい。君は食いしん坊だからね」
蛍は愛おしげに一郎丸を見つめ、微笑む。
一郎丸は聞いているのかいないのかはよくわからないが、少年はそれでもよかった。
猫は握り飯をたいらげると、ぺろぺろと丁寧に顔を洗い始める。
蛍は一郎丸を見つめながら悲しそうに言った。
「明日は来てもご飯はやれないと思うから、来るんじゃないよ。多分、体を切る実験をする日だから」
一郎丸は金色の瞳で蛍を見つめる。
「心配してくれてるの?ありがとう。でも僕は人より回復が早いらしいから、大丈夫だよ。さあ、時間だからもう行くよ。またここで会おう」
猫は蛍の言葉を理解したのか、くるりとお尻を向けて去っていく。
蛍は一郎丸が去っていくとき、いつもいいようのない孤独感と寂しさを感じる。
一郎丸と会っている瞬間だけが、彼の幸福の全てだった。
あくる日、少年は動けないようベッドにきつく縛りつけられていた。
白衣を着た職員たちが、実験の準備をしている。
蛍はこれから起こる苦痛を黙って待っている、この時間が大嫌いだった。
医師が近づいてきてメスを握ると、実験開始だ。
少年は固く目をつむり、じっと時間が過ぎるのを耐えようとした。
そのとき、女性の看護師がきゃあと声を上げる。
医師がどうした、と苛立った様子で問う。
看護師が慌てた様子で、これ、と台の上を指さした。
そこには灰色の猫の姿があった。
「一郎丸、ここに来ちゃだめだ!」
蛍は思わず大きな声で叫ぶ。
医師は少年の頬を強く殴りつけ、怒声を浴びせた。
「貴様か、あんな野良猫を連れ込んだのは!この化物め」
蛍の頬は赤く腫れ上がり、ジンジンと痛む。
医師は乱暴にメスを置くと、つまみ出せ、と叫んだ。
一郎丸は机の上の全てのものを蹴落とす勢いで逃げ回っていたが、とうとう一人の職員に捕まり、部屋から連れ出されていく。
「お願い、一郎丸に乱暴をしないで!」
少年は心から懇願したが、あとで職員からは殺した、とだけ聞かされた。
もちろん、本当に殺したのか確認する術はない。
ただしそれ以降施設が解体される日が来ても、二度と一郎丸を見ることはなかった。
そうして大人になった蛍は再びベッドに縛りつけられ、白い天井を眺めている。
(僕は強くなったはずなのに、心はいつもあの日のままだ。僕のせいで、一郎丸を傷つけた。僕は無力だ……)
青年の頬を一筋の涙が伝う。
(時雨さんには死ぬなと言われたけれど、僕は今死んだ方がましだと思っている)
施設から放り出されたあとは浮浪児として暮らしていた。
初めは食うものに困って始めた盗みが徐々にうまくなり、喧嘩は誰にも負けなくなる。
各地を転々としているうちに東京にたどり着き、人には言えないような仕事で金を稼いでいた。
蛍は荒みきった生活をしていたが、自分がいつどうなろうがどうでもいいと思っていた頃。
職務質問をしてきた警察官を殴って逮捕された。
そんな蛍の身元を引き受けてくれたのが、誰あろう時雨だったのだ。
彼は字もまともに読めない蛍に根気強く読み書きからそろばんまで教えてくれた。
(他人にあんなに親切にされたのは、あれが初めてだった……嬉しかったな……)
蛍は思い出し、少しだけ微笑んだ。
格子がはめられ、締め切られているはずの窓の方を仰ぎ見る。
カーテンが、揺れている。
蛍は目を見開いた。
月明かりでカーテン越しに浮かび上がるシルエットは、猫のそれだ。
やがてしなやかな動きで静かに入ってきた猫の毛色は、つややかな灰色。
瞳は金色に輝いている。
「……一郎丸……?」
蛍は震える声を絞り出し、思わずその名を呼ぶ。
猫は蛍の寝かされているベッドの枕元にひょいと飛び移ると、ぺろぺろと頬を舐めた。
舌のざらざらした感触と、生暖かさを感じる。
「君まで僕に頑張れと言うのかい?僕はね、あの日の恐怖が忘れられないんだ……」
猫は金色の瞳で蛍をじっと見つめる。
あの頃は大きな猫だと思っていたけれど、今見るとたいそう華奢で小さく見えた。
それは一郎丸ではなく、他の猫だからかもしれない。
でも、この猫は一郎丸とそっくりだと蛍は思う。
(もしこの小柄な猫が一郎丸なのだとしたら、一郎丸が小さくなったわけじゃない。僕が、大人になったからそう感じるんだ……)
そこで蛍はハッとする。
(僕は、小さくて非力だったあの頃とは違う。大人になった今なら、できることがあるはずだ)
そのとき、廊下に人の気配がした。
おそらく夜勤の職員が見廻りに来たのだろう。
女性職員らしき人物が、扉の小窓を開けてちらりとこちらを確認し、去って行こうとする。
「お姉さん、ちょっと待って!」
蛍が必死に呼びかけると、彼女はめんどくさそうに閉めかけた小窓から再度顔をのぞかせた。
「何か用ですか」
職員は事務的に冷たく言い放つ。
「あ、えーと、お姉さんが綺麗だったから、つい声をかけてしまって……ご迷惑だったらすみません」
蛍は殊勝な様子を見せる。
「僕、こんな状態だとやっぱり居心地が悪くて……せめてお姉さんと話ができたら気が紛れるかなって思ったんです。よければ、名前を教えていただけませんか?」
蛍は控え目に優しげな笑みを浮かべる。
職員は訝しげな視線を向けていたが、やがてぼそりと呟いた。
「……田中さゆり」
蛍はぱっと明るい表情を見せる。
「さゆりさんですか……綺麗な名前ですね」
蛍がにっこりと笑って言うと、今まで硬い表情だった職員が、少し笑顔になる。
気づけば枕元にいたはずの猫は、姿を消していた。