雪村隼人
「お嬢さん、お帰りなさい」
蝶子が帰宅すると、一番に隼人が出迎えてくれた。
彼は庭先の掃除中だったらしく、手にはほうきが握られていた。
「ただいま、隼人。あら、今日学校は?」
雪村隼人は橘家の女中であるハルさんの息子だ。
彼は子供の頃から学校一の秀才と呼ばれ、現在は蝶子の父の援助を受けながら医学校へ通っている。
「先生が風邪をひいたらしくて、午後は休講になりました」
そう言うと隼人はにっこりと笑みを浮かべた。
彼は誰に対しても愛想がよく、要領もいい。
それでいて腕っ節は強く、蝶子をいじめた男子をぶちのめしたこともあった。
彼女にとっては子供の頃から一番近くにいる、頼れる存在が隼人だった。
「お嬢さんは今日、帰りが遅かったですね。それに着物が少し汚れている。何かあったんですか?」
隼人は頭がいいからなのか、勘も鋭い。
「そうね…あったといえばあったわ。ある意味、びっくりしたことが」
蝶子は先ほど起こった出来事を隼人にかいつまんで話した。
ボールを取りに藪に入ったら死体のような男性がいたこと。
それが実は生きていて、蝶子の腕をつかんで離さなかったこと―――
そこまで話したところで、急に隼人の顔つきが険しくなった。
「お嬢さんの腕を…?」
「そう。でも寝ていただけで全然大丈夫だっていうの。おまけに名前を教えたら、虫呼ばわりするんだもの。ほんと頭にきちゃった」
蝶子は隼人の変化を不思議に思いつつもそのまま喋り続けた。
「そいつはどんな奴なんですか」
「一条時雨と名乗ったわ。年は20代半ばくらいかしら」
「一条時雨…」
隼人はあごに手を当て、何かを考えるような仕草をした。
「もしかして、知ってるの?」
蝶子は隼人にたずねた。
「いや…わかりません。でも、私もその名を覚えておきましょう」
「…隼人が覚えてどうするのよ」
蝶子がつぶやくと、隼人はどうもしませんよ、とまたにっこり笑ってみせた。
付き合いの長い蝶子でも、彼はどうも食えないところがあった。
けれど蝶子を大事に思ってくれていることは、彼女もわかっていた。
「ねえ隼人。今度また剣道の稽古に付き合ってくれない?」
「いいですよ。でもこれ以上強くなってどうするんです?」
隼人は冗談ぽく言って肩をすくめる。
「最近は物騒な事件が増えているらしいから。鍛えておくに越したことはないわ」
「ああ…俺も聞きました。若い女性が血を抜かれて死ぬ事件が起きていると」
隼人は急に真面目な顔で蝶子を見た。
「お嬢さんも気をつけてくださいね。何なら自分が送り迎えを…」
「だめよ。あなただって学校があるでしょ。それにあなたが学校まで来たらどんな噂をされるか…」
蝶子は隼人を慌てて止めた。
いくら使用人の息子だからと言っても隼人は若い男性だ。
女学校に連れて行ったらたちまち学校中で噂になることは目に見えていた。
「そうですか…お嬢さんがそう言うなら仕方ないですね」
隼人は残念そうだったが、蝶子はその言葉にほっと胸をなでおろした。
「私も気をつけるようにするから」
蝶子はできる限り彼に安心してもらえる言葉を探した。
「そうして下さい。お嬢さんに何かあったら大変ですから」
隼人はそう言うと玄関の扉を開け、蝶子を中へと促した。
学校一の秀才で見た目も悪くない。
当然女の子にはモテただろうに、蝶子は彼の浮いた話をあまり聞いたことがない。
それを彼女はいつも不思議に思っていた。
(私が知らないだけかしら)
少女は無意識に小首をかしげる。
「どうかしましたか?」
それを見た隼人が不思議そうに尋ねた。
「ううん…何でもないの」
蝶子はそれ以上深く考えるのをやめ、玄関の扉をくぐった。