青天の霹靂
「蛍さん、私ちょっと横になりますから」
屋敷に戻ってくるなり、蝶子はそう宣言した。
「ああ、うん、疲れてるだろうからそうした方がいいんじゃない。多分、あんまり時間はないけど」
いつもならそういう報告は時雨にしているのに、おかしいなと蛍は思った。
まあ、少女が時雨と隼人それぞれに呼び出されたことを考えると、何かあっただろうことは想像に難くない。
蝶子は皆に背を向け、いそいそと横たわった。
時間差で戻ってきた隼人はその様子をちらりと見て、目をそらす。
鈍感な時雨は何が起きているのかよくわかっていないようだ。
蝶子は横になると言ったものの、頭の中は混沌としており全く気が休まらなかった。
(私は隼人を兄のように慕っていた。もしかして、慕うというのはそいういう意味……?いいえ、いくら私でもさすがにそうじゃないことはわかる……)
つまり、隼人は蝶子に「告白」したのだ。
少女は以前、友人から借りた恋愛小説をぼんやりと思い出していた。
とても浪漫的でそのときは憧れたけれど、どこか自分には縁遠い話だと思っていた。
恋や愛など知らぬまま、いずれは父の決めた縁談相手と結婚するのだろう。
蝶子はずっとそんな風に思っていた。
隼人もきっとそんな自分を笑顔で祝ってくれるのだと。
(だいたい周りからはじゃじゃ馬と言われ続けた私のどこがいいのかわからないわ。世の殿方はもっと淑女がお好きだと思うし……)
だが隼人はそんな蝶子をいつも笑顔で見守っていてくれた。
顔も悪くないし頭もいい。
女中の息子ということを除けばこれ以上ない人物に違いない、と少女は思う。
ただひとつひっかかっているのは、時雨の存在だった。
彼のことが好きかと聞かれて、蝶子は即座に否定できなかった。
少女の脳裏には、先程の時雨の表情が鮮烈に蘇る。
(なぜかしらね……ほんの一瞬見ただけなのに。あのへたくそな笑顔が、頭に焼きついて離れない……)
いつもぶっきらぼうで、何を考えているかわからない。
でも時折見せる愚直さや笑顔が、まるで一瞬だけ煌めく花火のように儚くて、美しくて、たまらなく愛おしい。
この感情の理由を、正体を、名前を知りたい。
彼女がそんな風に考え始めたとき。
ふいに玄関で複数の人の気配がした。
「失礼。警察の者だが、ここに一条時雨と土屋蛍一郎はいるか」
そう尋ねる男性の声が聞こえてきた。
その場にいる全員が、何事かと顔を見合わせる。
時雨と蛍は立ち上がり、玄関に顔を出した。
そこには地元の警察官らしき男たちが三名いた。
「お疲れ様です。警視庁特殊捜査課の一条時雨です」
青年はそう言って額に手をかざし敬礼をしてみせる。
しかし男たちは敬礼を返さなかった。
かわりに一番年長の男が口を開いた。
「一条時雨、土屋蛍一郎だな。貴様らを業務上横領の罪で緊急逮捕する」
そう告げられた時雨と蛍は一瞬言葉を失う。
「……いや、なんでそんな話になっているんですか。俺たちは絶対にそんなことしていません。一度上と話をさせてください」
時雨はそうかけあってみたが、相手の警察官たちは冷たい表情を崩さなかった。
「それは無理だ。あんたたちはもう昨日付で懲戒免職にされている」
衝撃の事実を知らされ、二人の青年は愕然とする。
「なんだって……⁉︎そんな無茶苦茶なことがあるか!僕たちは何も知らされていない」
蛍は憤慨したが、警察官はやはり少しも表情を変えなかった。
玄関口での様子がおかしいことに気づいた蝶子や隼人も、うしろから顔を出す。
「詳しい話は署で聞こう。おとなしく付いて来い」
そう言って警察官たちは二人にむかって手を伸ばした。
だが、蛍はそれを阻んだ。
警察官の腕を固く掴んで離そうとしない。
「抵抗すると不利になるぞ」
警察官はそう伝えたが彼は動かない。
「……な」
蛍は小さく呟いたが、その声は誰にも届いていない。
「なんだ」
警察官は威圧するように問いただした。
次の瞬間、腕を掴まれていた警察官はひっくり返り、背中を床に強打した。
蛍が投げ飛ばしたのだ。
「汚い手で時雨さんに触るな」
今、蛍の瞳は強い怒りに満ちている。
いつもにこやかな彼の笑顔は、その激しい感情を覆い隠すためのものなのかもしれなかった。
「蛍、よせ……!」
時雨の制止に耳を貸さず、彼は残りの二人もあっという間になぎ倒してしまった。
外で待機していた別の警察官たちが、異変に気づき集まってくるのが見える。
「仕方ない、逃げるぞ」
時雨は蛍の腕をひっぱり、裏口へと向かった。
蝶子と隼人も慌ててそれに続く。
驚く嘉兵衛に蝶子は急いでお礼を述べた。
「嘉兵衛さん、お邪魔しました。また、いつか」
時雨が勝手口の扉を開けると、そこには別の警察官三名があらかじめ待ち構えていた。
興奮冷めやらぬ蛍が再び前に出ようとする。
だが時雨はそれを腕で抑え、頑として許さなかった。
すると今度は時雨が、一瞬で三人の男を地面に這いつくばらせたのだ。
その様は見事としか言いようがなく、無駄な動きは一切ない。
人間でこの二人に敵う者はいないのだろうと、蝶子は思った。
表玄関からは人が押し寄せる気配がし、激しい警笛の音がする。
きっと四人で彼らを打ち負かすのは簡単なことなのかもしれない。
しかしあまり事が大きくなるのは得策ではない、と時雨は考えたらしい。
それらの騒音から逃れるように、四人は嘉兵衛の家から姿を消した。




