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微睡

ーー汝を律せよ。さもなくばお前に未来はないーー


一条財閥の党首である父・総一郎は、一際時雨に厳しかった。

時雨の上には二人の姉と三人の兄がいたが、一番年の近い兄弟でも十は年が離れている。

いまさらこの少年に跡を継がせようなどとは考えていないはずだ。

それでもそうせざるを得ないのには、いささかの事情があったようである。


ひとつめは、一条財閥の一員として、恥ずかしくない人物でなければならなかったこと。

ふたつめは、時雨の母が他の兄弟と違うらしいこと。

そしてみっつめはーー、時雨が普通の人間と少し違うことだった。


時雨少年の瞳はほぼ黒い色をしていて、他の平均的な日本人と変わらない。

しかしこれは、彼が後天的に身につけた能力によるところである。

興奮するとその制御ができなくなり、瞳は元の蒼い輝きを放つ。


総一郎は息子に「普通の人間として優秀」であることを望み、時雨もその期待に応えようと必死だった。

学校の成績は常に上位。

顔は整い背も高く、見知らぬ女学生から告白されたのも一度や二度ではない。

しかし彼の心はいつもどこか空虚で、自身の正体が暴かれることを極度に恐れていた。

そんな頃である、彼の前に一人の女がふらりと現れたのは。


「時雨……?」


桜の花びらが舞い落ちる夜道、一度すれ違った女が後ろからそう声をかけた。

見知らぬ人物に自分の名前を言い当てられ、彼は思わずびくりとする。

振り返るとそこには細面で白っぽい着物を着崩した、美しい女が一人立っていた。


「ああ、やっぱりそうだ。あたしに似てるからすぐわかった」


似ている、と言われても相手は見ず知らずの女だ。

そんな理由で話しかけられても、多分ろくなことにはならない。

そう考えた時雨は足早に家へ帰ろうとした。


「ちょっと待って。あたしはお前の……つまり、母親なんだ」


女は少し慌てたように早口で引き止めた。


ーー母親。


その言葉に時雨はどきりとして、思わず足を止める。


「……俺の母は病でとうに死んでいます。くだらない冗談はやめてください」


時雨はできる限り冷たく言った。

女はそれを聞いて少し悲しそうな顔をした。


「そう、そんな風に言われてたのか……まあ仕方ないね。あたしは生まれたばかりのお前を置いて、一条の家を離れたのだから」


一条の名は、この辺りで知らぬ者はいないくらい有名だ。

そのため少し調べれば一条時雨という末弟の存在や、生い立ちくらい誰でもわかること。

しかし時雨の心の中に、事の真偽を確かめたいという気持ちが生まれた。


「仮にあんたが本当に俺の母親だとしたら、俺の正体を知っているはずだが」


そう問いかけても、偽物ならまず答えられるはずはない。

時雨はそう考えた。


「正体……?」


女は不思議そうに首を捻る。

そしてしばらく考えたあと、ゆっくりと答えた。


「お前が人として育てられているなら……蒼い瞳の鬼だということは、秘密なのかしらね」


少年の鼓動が一気に跳ね上がる。

外聞を気にする一条家の最高機密を、この女は知っている。

時雨の瞳の色まで正確に知っているとなると、女の話はかなり信憑性を帯びてくる。

しかし、彼が衝撃を受けたのは「鬼」という言葉だった。


「鬼って、なんだ」


普通の人とは少し違う。

彼もそのことは知っていた。

ただなぜ違うのかということまでは、誰も教えてくれなかった。

女は何度か瞬きをしたあと、唇を動かした。


「……それも聞いていないのか。鬼は人に似て非なる存在。暗闇と静寂、時に人の血も好む。身体能力や治癒能力も人間の比じゃない。それがあたしたち、鬼だ」


その言葉に少年は、頭を殴られたような衝撃を受けた。

まさに自分の性質が当てはまっていたからだ。


「俺は人の血など欲していない……冗談はよせ」


時雨は長めに伸ばした前髪の隙間から、女をきつくにらみつけた。

彼女は母と呼ぶにはいささか若く見えた。

だが少し下がりがちの優しげな目尻は、少年に似ていると言われればそう言えなくもない。


「血の味は知らない方がいい……あれは癖になるからね……」


女は眉をひそめて呟くようにそう言ったあと、ところで、と話を切り出した。


「慌ただしくて申し訳ないんだけど、実はお前に渡すものがあって今日は来たんだ」


彼女は注意深くあたりを見回し、誰もいないことを確認した。

するとどこからともなく黒塗りの刀を取り出し、時雨の前に突き出したのだ。


「妖刀焔姫、あたしの刀だ。これをお前に預ける」


「えんき……?」


少年はいぶかしげにそれを眺める。

焔姫の名にふさわしく朱色の紐で柄巻きされていたが、普通の刀との違いはよくわからなかった。


「今時刀なんて時代遅れだ。もらったところで使えるわけでもない。こんなものいらない」


時雨は受け取りを拒んだ。

女はしゅんとした顔をして、肩を落とす。


「あたしはさーー」


彼女が再び喋りだしたとき、その背後に黒い影が蠢くのが見えた。

次の瞬間女の顔が驚きと苦痛に歪んだかと思うと、その細い体ががくりと崩れ落ちたのだ。

人間より夜目のきく時雨の目には、女の纏う白い衣があっという間に紅く染まるのがはっきりと見えた。


「な……」


時雨は恐ろしい光景に言葉を失った。

闇に目を凝らすと、数名の人影が見て取れた。

その中で一際目を引いたのは、時雨よりも年若そうな少年の姿だ。

黒髪の下で輝く金色の瞳は、彼が人ではないことを証明していた。

顔立ちは幼く見えたが、その表情は氷のようだ。


「全く余計な手間をかけさせおって。この泥棒猫め」


彼らのうち一人がそう言うと、地面に投げ出された焔姫を拾い上げた。

そして刀に付いた土を丁寧に払うと、うやうやしく少年に差し出した。


「若、これを」


若と呼ばれた少年は何も言わず刀を受け取り、さっと腰に差す。

そしてそのまま時雨には目もくれず踵を返した。

だが彼らの一人が呆然と立ち尽くす少年をちらりと一瞥した。


「あれはどうしますか、礼様」


そう問われて初めて金色の瞳が時雨を捉える。

時雨は鋭い視線に射抜かれ、勝手に足がわなわなと震え出した。


「確かに目障りではあるな……」


そう言うと鮮やかな手つきで刀を抜き、その切っ先を怯えた表情の少年にまっすぐ向けた。

時雨は恐怖に耐えかねて逃げ出そうとした。

だが足がもつれて転んだうえ、腰が抜けてうまく立ち上がれない。

時雨が振り仰ぐと、金色の瞳の鬼が自分を見下ろしていた。


「人間に飼いならされた鬼とは、哀れなものだな……」


そう言うと礼ーー、有栖川礼は銀色に輝く刃を勢いよく振り下ろした。




「ーーさん……時雨さん!」


はっと目を開くとそこは嘉兵衛の家の居間だった。

部屋の中心には囲炉裏があり、そこで熱されている鍋からはぐつぐつと音がし、美味そうな匂いが漂っている。

どうやら青年は疲労もあいまって、うたた寝をしていたようだ。


「すごくうなされてましたよ。大丈夫ですか」


蛍が心配そうに時雨の顔をのぞきこんだ。


「ああ……すまない。たまに見るんだ、昔の夢を……」


額にはじっとりと汗がにじんでいた。

それを軽く手で拭う。


「昔の夢……?」


蛍は時雨の言葉を繰り返し、小首を傾げた。


「いや、たいしたことじゃないんだ」


時雨はそう言ったが、気分は最悪だった。

弱い自分が無様に逃げまどう様、血、有栖川の冷たい瞳ーーその全てを思い出し吐き気がする。

同じ場面を繰り返し夢に見るものの、実はそのあとの記憶は全くない。

母親と名乗った女がどうなったのかも、なぜ自分が生きているのかも。

ただこの出来事が時雨の人生に大きく影響したことは、言うまでもない。

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