笑顔
束の間の休息を取ることにした四人は嘉兵衛の家に戻ってきていた。
玄関をくぐろうとする蝶子を呼び止めたのは、時雨だった。
「少しだけ話がある」
そう言って軽く手で合図をした。
少女は素直に青年の背中についていく。
隼人はそれに気づいて眉をひそめたが、ついていくわけにもいかず、黙って見送るしかなかった。
人目のない家の裏手にまわると、時雨は足を止めた。
そういえば以前も同じようなことがあったと、蝶子は思い出していた。
半年前美しく咲き誇っていた藤の木は、今はすっかり花が落ち、ただひっそりと佇んでいる。
時雨は顔をしかめて少女にこう尋ねた。
「……怪我はないのか」
蝶子は時雨の尋問じみた口調に体を硬くした。
彼が昨日、声を荒げたことを思い出したのだ。
――君に何かあって誰も悲しまないと思っているのか!?そう思っているなら君は本当の馬鹿だ!!――
自身の無鉄砲ぶりをまた叱られるのかと思いながら、蝶子はおそるおそる質問に答えた。
「いえ……その、怪我はありません、元気です」
蝶子は時雨のお説教を覚悟していた。
しかし彼はそうか、とだけ言って黙ってしまった。
(……怒るつもりじゃないのかしら)
蝶子が戸惑っていると、時雨は彼女に真っ直ぐ向き合い、こう言った。
「蝶子君、俺を殴れ」
突飛な指令に蝶子は目を丸くした。
「……時雨殿、ちょっと待ってください。個人の趣味は否定したくありませんけど、そういうのは同じ嗜好の方と楽しむ事柄なのではないかと。あいにく私は他人をいたぶるような趣味はなくてですね」
少女は眉間に手を当てながら言葉を選んだ。
「そういう意味じゃない。どんな勘違いだ。俺が言いたかったのは、つまり、俺を罰してほしかったんだ」
時雨は少女の考え違いを正そうとしたが、それがまた逆効果だった。
「私お父様の本もたまに読んでいるから知っているの。それはどう言い訳してもマゾヒズムというものだわ、時雨殿。このことは秘密にしておきますから。いえ、もちろん悪いことだと言っているわけではないのよ」
蝶子の的外れな気遣いが更に加速していた。
時雨は半分やけくそになってこう言った。
「だから違うと言っているだろう。俺は、自分が許せないんだ」
「自分が許せない……?」
そこでようやく蝶子は時雨の話に耳を傾けた。
「有栖川の言う通り、俺は君を利用した。きっと君を連れていれば奴が自ら姿を現すと思ってのことだ。そして何度も君を危険にさらし、あろうことか半年も見つけることができなかった。俺は自分のふがいなさや傲慢さの全てが許せない。しかし君は守られることも謝られることも必要ないという。ならせめて、俺を殴ってくれたらいいのに、と思ったんだ」
「そんなこと――」
できるわけがない、と少女は言おうとしたが、時雨はそれに被せるように言った。
「君も見ただろう。俺は――人間じゃない。軽い傷ならすぐに治る」
蝶子はその言葉で蒼い宝石のように輝いていた、時雨の瞳を思い出した。
大量に出血したにもかかわらず、傷がすぐに塞がったことも。
(あれはやっぱり見間違いではなかったんだ。時雨殿は……)
少女はひとつ深呼吸をした。
そして手のひらを固くにぎりしめる。
次の瞬間、右の拳を時雨の頬めがけて思いきり振り抜いたのだ。
衝撃とともに、鈍い音がした。
「……っ!」
時雨は大きくよろめいたが、すんでのところで踏みとどまった。
あっという間に彼の左頬は紅く腫れ上がる。
蝶子はすぐに黙って青年に近づくと、熱を持った彼の頬にそっと手を伸ばした。
少女の細い指が、優しく頬をなぞる。
時雨はその行動に驚き、小さく身じろいだ。
蝶子は時雨に語りかけた。
「ごめんなさい、痛かったでしょう時雨殿。確かにあなたの傷は人より早く治るかもしれないけれど、痛みを感じないわけではないはず。そして、体は丈夫かもしれないけれど、心は私たちと同じ。殴られる方が楽だなんてよほど苦しかったのでしょう。……心配かけて本当にごめんなさい」
時雨はしばらく彼女の顔を見てぽかんとしていた。
けれどやがてうつむきながら骨ばった手で、自身の前髪をくしゃりとした。
「……た……」
時雨はわずかに唇を動かしたが、蝶子はよく聞き取れなかった。
「なんです……?」
少女は距離を縮めて時雨の顔を覗き込む。
少しの間のあと、意を決したように青年は顔を上げた。
その表情に蝶子は思わず息をのんだ。
彼は泣きそうな顔に、不器用な微笑みを浮かべていたのだ。
蝶子は深い夜空のような色の瞳から目がそらせなくなっていた。
やがて青年は少女の耳元に唇を近づけると、そっと囁いた。
「……君が生きていてくれて、本当によかった」




