蒼い炎
時雨と蛍は鬼の里を見下ろしていた。
半年前とは違い、空気は冷たく研ぎ澄まされ、山の木々は紅く色づいていた。
本当は隼人と落ち合う予定だったが、約束の時間を過ぎても彼は姿を見せなかった。
隼人からは鬼の里のだいたいの場所は聞いていたので、二人は彼を待たずに入山したのだ。
基本的には強行軍で二人は道なき道をひたすら歩き続けた。
隼人の的確な情報が幸いし、二日目早々鬼の里らしきものを見つけることができた。
山の谷間にぽっかりと開けた平地があり、そこには昔ながらの茅葺屋根が点々と並んでいる。
その中で一番北側に一際立派な武家屋敷のような建物。
おそらくそこが有栖川の根城であろうことは、大方見当がついた。
「蝶子ちゃんも隼人君も、見つかるといいですね」
めっきり口数の減った時雨に、蛍はぽつりと語りかけた。
時雨はああ、と曖昧な返事をした。
鬼のいるところに蝶子はいるのかもしれないし、いないかもしれない。
可能性としては高いと言えるが、はっきりしたことはわからなかったからだ。
それに鬼と相まみえて無傷で済むとは到底思えない。
否が応でも緊張感は高まっていた。
「知ってますか、時雨さん」
蛍は話題を変えることにした。
「何をだ」
時雨は蛍をちらりと見た。
「紅い炎より蒼い炎の方が、温度が高いんですよ」
時雨は視線をやや上に向けて少し考える仕草を見せた。
「ああ……そういえばどこかで聞いたことがあるな。それがどうしたんだ」
蛍はにっこりと笑ってみせた。
「このことを思い出すたびに、僕は時雨さんのことを考えるんです。見た目は涼しげだけど、本当は熱い炎を心の内に秘めている。蒼い炎は、まるで時雨さんそのものだなって」
時雨は一瞬きょとんとしたあとようやく表情を緩めた。
「蛍、お前は面白いことを言うな。俺にそんな炎があるとは思わんが」
時雨は額に下ろした前髪をくしゃりとかきあげた。
「気付いてないだけですよ。僕にはわかります」
蛍は確信めいた表情で力強くそう言った。
「で、どうします、時雨さん」
蛍は時雨に指示を仰いだ。
「俺たちは招かれざる客だ。どの道奴らとは戦うことになるだろう。ならば、正面から堂々と訪問してやろうじゃないか」
蛍ははあとため息をつき、苦笑いした。
「随分強気ですね。でも、僕の上司はそうでなくっちゃ」
時雨は里へと迷いなく降りてゆく。
蛍もその背中を追った。
いち早く異変に気付いたのは火燐と翠蓮の二人だった。
見覚えのある人間がこうも立て続けに侵入してきたことに内心驚いていた。
「貴様ら。ここが鬼の里と知っていながらのこのこやって来たのか」
翠蓮はぎろりと二人を睨みつけた。
「いかにも。ただしお前らには用がない。用があるのは有栖川と、蝶子君、隼人君だけだ。ここに二人は来ていないか」
涼しげな顔で時雨は少年鬼に問いかけた。
「蝶子ってあの女の子だろ。あいつなら――」
そう言いかけた火燐を制止し、翠蓮は言葉を続けた。
「そんなやつらは知らないし、知っていても教える必要はない。お前たちは、ここで死ぬ」
そういうと翠蓮は腰の短刀を抜いた。
「言っておくがな。この前の戦いでお前達の技はだいたい読めてる。俺たちを甘く見るな」
時雨と蛍は腰のサーベルを抜いた。
銀色の刃は朝日を反射しギラリと光った。
そして戦いの火蓋は切られた。
一進一退の攻防のように見えたが、確かに前回と少し違っていた。
時雨も蛍も相手の動きを先読みし、鬼の攻撃をかわしては鋭く突いてくる。
火燐の重い金棒の攻撃も、翠蓮による短剣の斬撃も、なぜかうまく入らないのだ。
それは自分たちの動きが鈍ったかのようにさえ思えるほどだった。
しかし実際は時雨と蛍の動きが洗練されたからに他ならない。
この半年、彼らは鬼と戦うことを想定して幾度となく訓練を積んできたのだ。
少しずつ少年鬼たちに小さな傷が増えていく。
彼らはいつしか防戦一方になっていた。
「くそ……くそっ!こんな、こんなはずでは……!」
焦り始めた翠蓮は一度後ろに大きく後退した。
そしてその額からは二本の角が生え、鋭い爪や牙がむき出しになる。
翡翠色の瞳は輝きを増し、鬼本来の姿へと変容したのだ。
彼が指笛を吹くと、騒ぎを聞きつけ集まっていた他の鬼たちがそれを合図に参戦した。
「状況が不利になりましたね」
蛍は銀色のサーベルを振るいながら、時雨に言った。
「想定の範囲内だ。これを乗り切ればあとはだいぶ楽だぞ」
時雨の言葉を聞いた蛍は皮肉るように笑う。
「地獄の特訓の甲斐があったってことですね」
「そういうことだ」
鬼本来の姿をあらわにした者は大幅に強くなる。
二人対複数の鬼との戦いはやはり簡単なものではなかったが、ひとり、またひとりと彼らは確実に倒していった。
しかし戦いに参戦する鬼は増える一方で、徐々に二人に疲労の色が見え始めた。
「ふんばれよ、蛍……!」
時雨が息を切らしながら蛍に声をかける。
「時雨さんこそ、先に倒れたら許しませんよ……!」
蛍も額に汗を浮かべながら憎まれ口をたたいた。
その時。
どこか懐かしい声が響いた。
ずっと、時雨の脳裏に焼きついていた、あの鈴の音のような声。
それが、自分の名を呼んだ。
「時雨殿、蛍さん……!!」
声のする方を振り返るとそこには、求めてやまなかった少女の姿がそこにはあった。
蝶子は男物の袴に短い髪をひとつに結っている。
しかしその眩しさは、出会ったときと変わらない。
時雨の心臓がどくりと波打つ。
隣には隼人の姿もあった。
(よかった、二人とも生きていた――)
今まで鉛のように重かった時雨の心は、急に息を吹き返したようになった。
嬉しさと安堵が胸にこみ上げる。
だがそれとは反対に、翠蓮は眉間に皺をよせた。
「ちっ。やっぱり殺しておけばよかったか……」
翠蓮はいまいましげにそう言い捨てると、おもむろに弓矢を手にした。
そして蝶子に向かって素早く狙いを定め、矢を放ったのだ。
鬼の矢は一直線に蝶子の心臓めがけて飛んでくる。
少女は急なできごとに目を閉じる間もない。
それは一瞬のできごとだった。
蝶子の顔に鮮血が走る。
少女は思わず息をのんだ。
「時雨……殿……」
蝶子の目の前には広い背中が立ちふさがっている。
矢は深々と時雨の腕を貫いていた。
血が服を伝ってぽたぽたと落ちていく。
「どうして……どうして私をかばったりするんです!私なら、私なら大丈夫なのに……!」
怪我をしてまで自分を守ってほしいなどとは思っていない。
蝶子は混乱して何の根拠もない理由で時雨に怒った。
しかしそれ以上に怒ったのは時雨だった。
「君に何かあって誰も悲しまないと思っているのか!?そう思っているなら君は本当の馬鹿だ!!」
少女はびくりと肩を震わせた。
蝶子は彼が感情的になるのを見るのはこれが初めてだった。
時雨は返しのある矢を無理やり引き抜くと、腕からは大量の血があふれ出た。
「し、時雨殿……!傷の止血をしなければ……」
時雨は慌てる蝶子をよそに、じろりと翠蓮を睨みつける。
その瞳には蒼い炎が宿っていた。