寝所
有栖川の寝所はやはり、彼が夕刻出てきたその場所だった。
そこからちょうど老齢の医師らしき人物が退室するところだった。
長い白髪をひとつにまとめた姿の彼も、恐らく鬼なのだろう。
蝶子の姿を認めた彼は、驚いた顔をする。
「あんたがなぜここにいる?」
しわがれた声で医師は問いただした。
人間の少女が鬼の頭領の屋敷をうろついているのだ。
しかも有栖川を撃った張本人である。
その反応は当然だろう。
「いえ……その、少し彼の様子を見てから帰ろうと……」
蝶子はばつの悪さからしどろもどろに答える。
「今すぐ去れ。ここはあんたがいていい場所じゃない」
老齢の医師は眉を吊り上げ、厳しい口調で言い放った。
蝶子は確かにそうかもしれない……と思った。
「火燐。お願いがあるんだけど」
蝶子は屋敷を案内してくれた火燐に向き直ると、白い花を彼に預けた。
「これ、有栖川さんに届けておいてくれる?私はこのまま帰るから」
それは先ほど屋敷の裏庭で摘んだ花だった。
少しは慰めになるかもしれないと思い、火燐に許可を得て手折ってきたものだ。
「ああ……わかった」
火燐はためらいながらもそれを受け取った。
蝶子が踵を返した、そのとき。
室内から有栖川の声がした。
「待て。せっかく来たのだ。寄っていくがいい」
それは蝶子のことを指しているのだと一同は理解し、顔を見合わせる。
少女はためらったが、有栖川の意思を受け入れることにした。
おそるおそる障子を開ける。
そこには着物を着替え、布団に横たわる有栖川の姿があった。
蝶子が部屋に足を踏み入れると、不思議と行灯の火が勝手に灯った。
ぼんやりと浮かび上がる彼の寝室。
部屋は誰かが手入れしているのだろうか、小奇麗に片付いていた。
頭側の手が届く場所には、蝶子が弾き飛ばした刀がすでにきちんと置かれていた。
そして、有栖川の布団のすぐ傍には無造作に本が積み上げられている。
鬼も読書をするのだな、と蝶子は新鮮な感覚を覚えた。
「あの……お加減はいかがですか」
蝶子はおずおずと尋ねた。
自分が傷つけておいて何を言っているのだと少女自身も思ったが、他にうまい言葉が浮かばなかった。
「一週間は安静にしろと言われてしまった。お前みたいな小娘にしてやられるとは、情けないな」
有栖川は自嘲気味に笑った。
「あなたは強い。本来は傷を負っていても私に勝てたはずです。なぜ、そうしなかったのですか」
蝶子は彼が本気で戦っていないことを察していた。
そう。
まるで、最初から負けるつもりだったかのように。
有栖川は一瞬口をつぐんだが、こう言った。
「――いや。本気になれない時点で俺は負けていたのだ。お前の作戦といい、刀の腕前といい、見事だった」
有栖川は素直に賛辞を送った。
これが、私が憎み続けた鬼の正体だなんて――蝶子は軽く混乱していた。
「何か、私にできることはありますか」
蝶子は横たわる有栖川の傍らに静かに座した。
「そうだな……もう少しこちらへ来い」
彼は少女に近寄るよう促した。
蝶子は彼の言うとおり、枕元へと近づいた。
すると有栖川はおもむろに蝶子の腕を掴み、白い布団の上に引き倒したのである。
「!?」
蝶子はあまりの驚きに声が出ない。
上から、愉しげに輝く金色の瞳が少女を見下ろしている。
「な、何を――」
蝶子は彼の腕の中から逃れようともがいたが、やはり力では勝てなかった。
「お前の血を飲めば傷の治りも早まろう。何かしたいのであれば、俺に血を与えるが良い」
少女はその言葉に動きを止めた。
(私の血を飲めば、傷が治る……)
蝶子は何かを考える様子を見せたあと、そっと口を開いた。
「吸血鬼にしないと約束してくれるなら……その、少しでよければ構いませんが……」
少女は真っ直ぐ有栖川の瞳を見つめ、そう答えた。
彼は蝶子の愚直な言葉に驚きを隠せなかった。
絶対に抵抗するものだと思っていたからだ。
少女は自ら着物の襟元を緩めにかかった。
そして白く美しい首筋を差し出す。
男鬼を扇情するにふさわしいその行為に、有栖川は動揺した。
今すぐにでもその首元にかじりつきたい衝動に駆られる。
しかし、彼はその本能に抗うように、ゆっくりと蝶子から体を離した。
「……?」
蝶子は不思議そうに有栖川を仰ぎ見た。
「抵抗しない女の血を吸ってもつまらん。早く帰れ」
そう言って彼は少女に背を向けた。
蝶子は有栖川の変わりようを理解できず起き上がると、着物の袷を締め直した。
「わかりました。では下がらせていただきます。どうか、お大事に」
蝶子はわけがわからないまま有栖川の寝所を後にしたのだった。