罠
風が二人の間を吹きぬけた。
有栖川は平静を装っているものの、銀の弾丸により負傷している。
しかし、完全に日が落ちてからでは夜目の利く鬼に分がある。
お互いの状況的に戦いが長引くことは避けたいところだろう。
先に仕掛けたのは蝶子だった。
有栖川は蝶子の鋭い剣さばきに目を見張る。
この半年の間、どれだけ明星にしごかれたかがわかる、見事な太刀筋だ。
少女の身でありながら真剣を扱い、なおかつその技を完全に自分のものにしている。
蝶子は力で勝とうせず、有栖川の攻撃をうまくいなし、巧みに切り返す。
蝶子の繰り出す技の数々は、どれをとっても高度で緻密なものだ。
鬼は少女の神がかった剣技に防戦を強いられた。
最初はお遊び程度に思っていた有栖川もやがて真剣にならざるを得なくなる。
刀と刀がぶつかり合う高い音が静かな森に響いた。
彼は力技で少女の刀をはじき飛ばそうと試みたが、蝶子は刀を手放さなかった。
有栖川が突いても、切りつけても、彼女は確実に避け、受け流す。
「なるほど、相当努力をしたらしいな。俺を銃で射抜いたのもまぐれではないらしい」
有栖川はまたにやりとしながらそう言った。
人間の少女が、傷を負っている相手とはいえ鬼と対等に渡り合うこと自体、奇跡的とも言える。
有栖川はいよいよ本腰を入れて切りかかってきた。
彼の重い斬撃の嵐に押され、少女は次第に後退した。
耐えかねた蝶子は後ろに大きく跳躍する。
少女は肩で大きく息をしている。やはり体力では鬼に敵わないらしい。
「もう仕舞いか。もっと楽しませてくれるかと思っていたが」
有栖川は意地悪い台詞を蝶子に向かって吐いた。
「いいえ、まだ終わりじゃない。あなたみたいな卑劣な鬼に、私は負けない」
蝶子はきっと有栖川を睨みつけた。
「さあ、来て頂戴。私は必ずあなたを倒す」
少女は強気な姿勢を崩さなかった。
「ならば望み通りにしてくれよう」
有栖川は蝶子の方へと近づき、間合いを詰める。
そのときだった。
有栖川の足元でがちゃんと音がし、何かに足を取られた。
鉄の歯は有栖川の足首に食い込み、鋭い痛みが走る。
「――!?」
それに有栖川が驚き気を取られている隙に、蝶子は彼の刀を自身の刀で絡め取るように弾き飛ばした。
有栖川が蝶子に向き直った時には、白刃が彼の鼻先を捉えていた。
「獣用の罠か……まさかお前が俺を罠に嵌めるとは、皮肉だな」
有栖川は意味深に少し悲しげな言い方をしたが、蝶子には何のことか分からなかった。
「あなたと真正面から戦っても勝ち目がないのはわかっていたから。悪いけど私は目的のために手段を選ばないわ」
蝶子は光の君を元に戻すためなら、どんな汚い真似をしても彼に勝つと決めていた。
「いいだろう。俺の負けだ」
有栖川はそう言って笑うと、あっさりと負けを認めた。
「俺の屋敷の裏手に木が植わっている。その果実を持っていくといい。お前の友人もそれを食せば元に戻るだろう」
「えっ……そ、そんなことでいいの?」
蝶子はあまりに簡単に負けを認められたこと、答えを教えてくれたことに拍子抜けしてしまう。
「俺の気が変わらないうちに早く行け」
有栖川はその場に座り込んだまま動こうとしない。
銃弾を受けた傷口からは今も血が流れ出たままだ。
蝶子はどうすべきかしばらく考えた後、有栖川に近づいた。
そして、獣用の罠をはずしにかかったのだ。
有栖川は驚いた顔をする。
「何をしている」
「動かないでください。今、はずしますから」
蝶子は慣れた手つきで罠をはずす。
そして、有栖川の脇腹を、持っていた手ぬぐいで押さえた。
「どうせ屋敷まで行くのなら、送ります。私の肩を貸しますから」
そう言うと蝶子は有栖川の腕の下に自ら入り込んだ。
「その傷、本当はかなりつらいはずです。弾は貫通しているようですが、出血が止まらない。お医者様がいらっしゃるなら早めに診てもらった方がよろしいかと」
蝶子は里に下りやすそうな場所を探して歩き始めた。
有栖川はふんと鼻をならしたが、特に抵抗はしなかった。
里に下りると、あの少年鬼らが待っていた。
蝶子が有栖川と共に降りてきたことには皆驚いた様子だった。
「早くお医者様に診せてください。傷口は強く押さえて」
蝶子は少年鬼二人に有栖川を預けながらそう言った。
「お前が撃ったんだろう。今更何を――」
翠蓮は殺意のこもった翡翠色の瞳で蝶子を睨みつけた。
「翠蓮、よせ。火燐、この娘を屋敷の裏庭に案内してやれ」
有栖川は翠蓮を制止し、火燐にはそう指示を出した。
「あなたはなんでこいつにそう甘いんですか。ただの人間の小娘じゃないですか」
翠蓮は有栖川にくってかかった。
しかし彼はそれ以上何も答えなかった。
「有栖川さんの命令だ。あんたは俺について来い」
火燐はそういうと蝶子を有栖川の屋敷に案内した。
屋敷の裏庭には様々な植物や木が植えられており、よく手入れされた庭園のようになっている。
そのうちのひとつに火燐は近づいた。
「お前が欲しいのはこれだろう。仙人桃と呼ばれる貴重な果実だ。ひとつもいで持っていけ」
たしかにその木には桃によく似た果物がなっていた。
「これを食べさせたら、光の君は元に戻るのね……?」
その問いにああ、と火燐はぶっきらぼうに答えた。
「ありがとう。ええと……火燐?とても助かったわ」
蝶子は心の底からお礼を言った。
火燐は瞳を泳がせながら別にお前のためじゃねーし、と毒づく。
仙人桃をひとつもいだあと、蝶子はそれを胸に抱えながら言った。
「あの方は大丈夫かしら。少し心配だから、様子を見てから帰りたいのだけれど……」
「多分寝所にいると思う。あの鬼、なぜかあんたには激甘だから多分会えると思うけど……行くか?」
蝶子はその言葉に頷いた。