授血
隼人はこの半年、見つかるとも知れぬ蝶子をひたすら探し続けていた。
最初は戸惑った山での生活も、もう慣れたものだった。
体は以前より引き締まり、肌は日に焼け、衣服はぼろぼろになっていた。
だが気にする必要もないだろう。
週に一度山を下り、時雨たちに報告をする以外は山中を彷徨う生活なのだから。
母であるハルの処遇は気がかりだったが、さりとて蝶子を見つけられないまま、どの面下げて帰省できるというのだろう。
そんな思いもあり、隼人は一人山に残る道を選んだのだった。
――お嬢さんは、もう生きていないかもしれない。
悪い考えはことあるごとに隼人の脳裏を駆け巡った。
だが例えそうだとしても、その亡骸をこの目で見届けるまでは決して帰ることはできない。
隼人の決意は固かった。
しかし十月も終わりに近づいた頃、ついに変化が訪れる。
鬼の集落を見つけたのだ。
急な山に囲まれた天然の要塞の中にぽっかりと平地があり、そこに暮らす者たちの姿を見つけたのだ。
隼人は最初、ただの人間の集落かと思った。
しかし時雨の話によると、鬼は平常時には角、牙、爪などは隠しておくという。
確かに火燐や翠蓮も多少変わったなりをしていたものの、その力を除けば普通の少年と大差はなかった。
鬼の村だと確信したのは、その二人を見つけたためだ。
二人は黒い髪に金色の瞳、長い外套を羽織った姿の人物に付き従っていたのである。
それは蝶子が言っていた有栖川の特徴とひどく酷似していた。
それからというもの、この小さな村を見張ることにしたのだった。
時雨たちにもこのことは報告してある。
いずれ合流することになるだろう。
襲撃するのはそれからだと隼人は考えていた。
有栖川の屋敷や集落全体の地理も把握した。
青年も本当は今すぐ蝶子の存在を確かめに行きたいと思っていた。
しかしあの日、隼人は自分の非力さを知ってしまったのだ。
彼一人では、あの少年鬼二人にすら勝てないのだ。
隼人は結局時雨と蛍の二人を頼みにするしかない自分が嫌でたまらなかった。
そんなある日のことだった。
少年鬼の一人に見つかったのは。
「お前、こんなところで何をこそこそしてる?」
隼人がびくりとして顔を上げると、焔のような瞳が木の上からこちらを見ていた。
赤銅色の長い癖毛をひとつにくくった少年の名は、火燐だ。
隼人は抜刀し、一気に戦闘態勢になる。
「あんたに俺は殺れないと思うけどな」
少年は丸腰だった。
だがその表情はどこか楽しげで、余裕のあるものだった。
「やってみなきゃわからんだろう」
隼人は強がってみせた。
一度翠蓮の強力な蹴りは味わっている。
丸腰でも彼らが十分に戦えることは隼人自身が一番わかっていることだった。
隼人は緊張で全身に汗がにじむ。
「今日はもう一人はいないのか」
火燐と翠蓮はいつも二人で行動していた。
しかも翠蓮は弓の名手だ。
もしかしたら彼もどこかに潜んでいるかもしれないことを、隼人は警戒した。
「翠蓮なら、あの鬼のお遣いに出されてるから、いないよ」
火燐はあっさりとそう言った。
隼人から見ても嘘をついているようには思えなかった。
「お前達のところに、お嬢さんはいるのか?」
気になっていたことを隼人は少年に尋ねた。
「お嬢さん?……ああ、あの鬼お気に入りの子ね。さて、どうかな」
火燐はにやりと意地悪そうな笑みを浮かべた。
ただで教えるつもりはないらしい。
青年は構え、覚悟を決めた。
すると火燐は木の上からひらりと降りてきた。
少年が地面に着地した拍子に、枯葉が舞う。
「ちょうど一人でつまらなかったんだ。暇つぶしくらいにはなってくれよな」
あたりの木々がざわざわと音を立てた。
もう山の空気はだいぶ冷たい。
風が鳴りやんだところで隼人は火燐に猛然と斬りかかった。
だが、渾身の一撃もなんなくかわされる。
次も、その次も同じだった。
隼人は山の中でも刀の稽古は欠かさなかった。
しかし、やはり鬼の動体視力は人間のそれとは違う。
青年は何度も空を切らされ、体力だけが消耗していく。
「あんた、人間にしてはなかなか筋がいいよ。まあ、俺には敵わないけど」
火燐も額に汗を浮かべ始めてはいたが、それでも彼に分があるのは間違いなかった。
「そろそろ俺からも攻撃していい?」
その言葉の後、彼は突きを繰り出してきた。
隼人は紙一重でそれをよけた。
「うん、面白い。そうこなくっちゃ」
火燐の蹴りや拳の連続攻撃をかわすのがやっとで、隼人から攻撃を仕掛ける暇がまるでない。
隼人の息はとっくに上がっていた。
青年はぜえはあと肩で息をする。
しかし隼人は冷静だった。
(一瞬でいい。隙ができる機会はあるはずだ。それを決して見逃すまい)
そう思いながら攻防戦を繰り広げていた。
そのとき。
火燐が額から落ちてきた汗を手のひらで拭ったのだ。
隼人はそれを見逃さなかった。
相手の頚動脈を狙い、刀で鋭く突きに行った。
火燐はよけたが、一瞬動作が遅れたのだろう。
少年の左頬に鋭い痛みが走った。
ごくわずかではあるが、頬の傷からは紅い血がつうと伝う。
火燐は大きく後ろに跳躍し、距離をとった。
「なるほど、山にだいぶなれて以前より力もついてきたか。少し、油断したな」
火燐はそう言うと、先ほどまでより真剣な表情になる。
「ここで殺しておこう」
そう言い終わるやいなや、火燐は隼人にまっすぐ突進してきた。
隼人は斬撃を繰り出すが火燐はそれをかいくぐり、青年の胸の中央を正拳突きしたのである。
隼人は後ろに跳ね飛ばされると木に激突し、ずるりと力なく倒れた。
「かはっ……」
息ができず、意識は朦朧とする。
骨の一、二本は折れていてもおかしくない状況だ。
火燐はうめく男を見下ろした。
隼人の視界に紅い鬼の姿が目に入る。
(なにもわからないまま死ぬことは許されない。せめてなにか情報を得なければ――)
隼人は傍に落ちている刀を無様にはいずりながら手に取ると、それを支えにしてよろよろと立ち上がった。
「……結構強く叩いたんだけどな。まだ戦う気なのか」
火燐は少々驚いた顔をした。
もう立ち上がれないと踏んでいたらしい。
事実、隼人は体中が痛み、立っているのがやっとだった。
「ああああ!!」
隼人は声をあげながら火燐に斬りかかった。
しかし先ほどまでの勢いは無論、ない。
火燐は隼人の横っ腹を蹴り飛ばした。
再び弾かれた隼人の体はむき出しの大岩に強く打ち付けられた。
青年はずしゃりと地面に倒れこむ。
火燐は今度こそ奴も立ち上がれないだろう――そう思った。
しかし、しばらくすると隼人は再び動き出す。
青年に体の感覚はもうない。
そこにあるのは執念だけだ。
ゆらりと立ち上がると、足を引きずりながらのろのろと火燐に近づいていく。
「嘘だろ……なんで立ち上がるんだ……?」
火燐はもはやこの青年を不気味とさえ思っていた。
もう勝ち目はないのに、なぜ起き上がってくるのか、理由がわからなかった。
全身傷だらけの隼人は、火燐の肩をがしりと掴んだ。
少年鬼はその行動に目を丸くし、訳も分からず固まる。
そして青年は朦朧とした意識の中で最後の力を振り絞り、訴えかけた。
「どうかお嬢さんを返してくれ……!お願いだ……!!」
火燐はその鬼気迫る様子に気圧されて何も答えることができずにいた。
「お嬢さんの場所を知っているなら……!どうか……どうか!」
隼人は焦点の定まらぬ目でさらにぐいと少年に詰め寄った。
「い、いや、俺は……知らな……」
火燐の答えは、果たして隼人の耳に届いただろうか。
少年が言い終える前に彼はその場に崩れるように倒れこみ、今度こそ動かなくなった。
火燐は命の灯火が消えかかった青年をじっと見下ろした。
「人間って、何なんだろう……。俺はもっと、弱くてちっぽけな存在だと思っていたけれど……」
誰に聞かせるわけでもなく、少年鬼はぽつりと呟いた。
火燐は青年の傍にしゃがみこむと、もうふさがった自身の傷口の血を右手の親指で拭う。
そして、その指を隼人の唇にそっとあてがった。