中岡
十月の東京、大塚駅。
もはや暑かった夏の名残は微塵もなく、すっかり肌寒くなり、空気も乾燥している。
転轍手の中岡は、上司の橋本と駅舎内で休憩をとっていた。
橋本はいわゆる政治オタクで、反政府主義的な思想の持ち主である。
二人は今日も政治談議に花を咲かせていた。
橋本は、はあとおおげさにため息をつきながらこう言った。
「――全く、原はもう駄目だ。今の日本には武士道精神が失われた。腹を切る、と言うが、実際に腹を切った例はない」
中岡は生真面目で神経質な面差しに、丸眼鏡をかけた青年。
眼鏡の下の瞳はどこか陰鬱で、鋭さがあった。
頭は丸刈りで血色のない土気色の顔をしてはいるが、基本的にはごくありふれた容姿といえるだろう。
原、というのは時の首相、原敬のことだ。
中岡はその言葉にぴくりと反応し、眉根を寄せた。
「橋本さん。私がハラを切ってみせますよ」
中岡は表情少なく、しかしはっきりと言ってみせた。
それに橋本は一瞬きょとんとするが、冗談だと思ったのかははは、と笑った。
「勇ましいな。それでこそ日本男児だ」
橋本は中岡の肩をぽんと叩くと、また別の話題に移った。
(俺は……原を切るんだ……)
自身に暗示をかけるように、中岡は頭の中で同じ言葉をもういちど繰り返した。
***
「ですから、護衛をですね……」
時雨はなにやら署から電話をかけている。しかしその交渉は難航しているようだった。
『そんな話、何度されても信じる奴はいませんよ。だいたい特殊捜査課なんてうさんくさい部署、ありもしないものをでっちあげてるだけで、税金の無駄なのでは?』
時雨はイライラしながら空いているほうの手で黒髪を無造作にかきあげた。
「今はそんな話していません。身辺警護を少し増やすだけで命が買えるなら安いもんでしょう」
『無理ですね。彼は警護嫌いで有名ですから。忙しいのでもう切りますよ』
電話の相手は時雨の話を全く聞かず、一方的に電話を切った。
「クソが」
普段は冷静な時雨だが、この時ばかりは電話に向かって思わず毒づいた。
「時雨さん、やっぱり駄目だったの?」
蛍が二つ、湯のみを持って現れた。湯のみの中では淹れたての緑茶が揺れていた。
まるでこうなることがわかっていたかのようだ。
「何度言っても聞く耳を持たない。それどころか特殊捜査課は税金の無駄とか言いやがって」
時雨はぎりりと口端を噛み締めた。
しばらくその怒りはおさまりそうにない。
「さ、お茶でも飲んでくださいよ。何か他の手を考えましょう」
蛍は時雨の荒れた机の上に湯のみを置いた。
「ああ……ありがとう、蛍」
時雨は椅子にどかっと腰掛けると、茶をすすった。
「やっぱりあいつを叩くしかないのか……」
ぽつりと時雨は呟いた。
「そうかもしれませんね。急がば回れといいますし」
蛍も茶を口にしながら同意したあと、話を続けた。
「そういえばさっき隼人君から定期連絡がありましたよ」
時雨はその言葉に目を見開く。
「で、なんだって?」
彼は話の続きを促した。
「あいかわらず蝶子ちゃんは見つかっていないそうです」
「そうか……」
時雨は肩を落とし、明らかに落胆した顔をした。
「でも、いい知らせがひとつだけ」
「なんだ」
時雨がぶっきらぼうに問うと、蛍は少しだけ背筋を伸ばし、こう言った。
「有栖川のアジトが見つかったそうです」
「なんだって……!?」
時雨が勢いよく立ち上がると、机に積み上げられていた書類の山が雪崩れを起こした。
それに巻き込まれた湯呑みは床に投げ出され、液体をぶちまけながら粉々になる。
しかし時雨は一瞥しただけですぐに片付けようとはしなかった。
「確証があるわけじゃないですけど、蝶子ちゃんがそこに囚われている可能性もあるんじゃないですか?」
蛍はいたずらっぽくにっこりと笑った。
時雨の瞳には光が宿り、力を込めてこう言った。
「よし、もう一度行こう。弘西山へ」