明星
蝶子は気がつくと川岸の岩にひっかかっていた。
夜は明けたのか、空からは薄日がさしている。
全身は傷だらけになり、体は恐ろしく冷え切っていたが、かろうじて生きていた。
水を吸った着物は重かったが、このまま水に浸かっていては本当に死んでしまう。
重い体をひきずり、なんとか川岸から這い上がる。
そこでごつごつした岩の上に再び横たわった。
これまでは隼人や、他の皆が助けに来てくれた。
しかし、今は誰も頼れる人がいない。
一人、はぐれてしまったのだから。
寒さで体が震える。
しかし、暖をとるものがあるはずもなかった。
上体を起こしてあたりを見回すと、遠くでのろしのように煙が立ち上るのが見えた。
もしかしたら鬼のものかもしれないという考えはよぎったが、今はそれにすらすがる思いだった。
蝶子はゆっくりと起き上がると、のろのろと歩き出した。
(このままならどうせ死ぬ。ならば、相手が鬼であろうと同じこと)
そう考えた蝶子は煙の方へと向かうことを決めた。
今の蝶子に足場の悪い山中を移動することは拷問のようにも思えた。
冷えと体中の痛みで体はとうに限界だった。
だが何度転んで傷を増やしても、休んでは歩くを繰り返した。
歩みを止めることは死と同義だったからだ。
ずいぶん長いこと山の中を彷徨った後、それは突如目の前に現れた。
急に山の木々が開けたと思うと、ぽつんと一軒、小屋が建っているのが見えたのだ。
家、というよりは小屋、と言った方がしっくりくるような、木造の小さな建物だった。
屋根には煙突がついており、おそらく見えていた煙はそこから吐き出されたものだろう。
「ごめんください」
蝶子は最後の力を振り絞って声をはりあげた。
「どうか助けてください。川に落ちて、寒くて、死にそうなんです。どなたかいらっしゃいませんか」
しかし家の中で誰かが動く気配がない。少女は落胆した。
玄関の前に、倒れるように座り込む。
きっと家人は外出しているに違いない。
なんとか生きているうちは、ここで待つ他ない。そう考えていたときだった。
「存外早かったな。たどり着けぬかとも思っていたが」
蝶子の後ろから、凛とした声が響いた。
まるで、少女が倒れていたことを知っていたかのような口ぶりだ。
その人は長い衣をはためかせながら、優雅に近づいてきた。
そしてふっくらした紅い唇を三日月のように形作りこう言った。
「私は明星。お前の根性に免じて、かくまってやろう」
漆黒の長い髪に白い肌、意思の強そうな瞳。
彼女の完璧なまでの美しさに、蝶子は思わず目を奪われる。
「さあ、立ちなさい。私はかくまうとは言ったが、助けるつもりはない。よく覚えておいで」
蝶子はその言葉に衝撃を受けたが、それ以外になす術はない。
再びどうにかこうにか立ち上がると、やっと家の中に入れてもらうことができた。
家の中は一人で住むには十分という程度の広さで、やはり簡素な造りだった。
しかし、ひとつひとつの調度品はいいもののように思えた。
「温かい飲み物があるから、まずは着替えてそれを飲みなさい。休んだあとは風呂に入るもよし、空腹なら料理を食べてもよし。ただし、回復したら料理も洗濯も、すべてお前がやるんだ」
明星はきっぱりと言い放った。
お嬢様育ちの蝶子は、今までそんな風に命じられたことはなかった。
だが、今かくまってもらうためには、従うしかない。
蝶子は力なく頷いた。
明星が差し出した服は彼女が普段着ているものなのだろう。
ひらひらとした薄衣で、少し変わった形をしていたが、淡い色合いが蝶子によく似合っていた。
髪が短くても、喋り方や声などから蝶子が女だというのはすぐに察しがついたに違いない。
袖を通すと洗い立ての、いい香りがした。
明星が器に入れてよこしたのは、生姜のきいた、甘い飲み物だった。
ふうふうと息を吹きかけながら少しずつ飲むと、からだが芯から温まるのを感じた。
ほとんど飲み終わる頃合を見計らい、明星が口を開いた。
「さあ、もう起きているのもつらいだろう。今日は寝なさい」
そう彼女が言った通り、蝶子の意識はすでに朦朧としていた。
ふかふかの寝台に横になると、少女は気を失うように眠りについた。