水浴び
一行は午前中に嘉兵衛の家を出発し、その日遅くには入山することができた。
弘西山は交通の弁が悪く、その森林の多くを占めるブナは木材としては扱いにくい。
また鬼が住むなどという噂も広まっており、滅多に人が近寄らない場所になっていた。
そのためほとんど人の手が加わっていない、稀有な土地だと言える。
当然道なき道を歩いて行く、険しい登山の幕開けだった。
緑濃き広大な山は、空気が恐ろしく研ぎ澄まされている。
まさに人ならざる者が棲むにはふさわしい場所だと、蝶子には思えた。
「ところで時雨さん」
蛍が時雨に話しかけた。
時雨がなんだ、と返す。
「この山の中で鬼がいる場所、だいたい見当はついているんですか?」
皆を代表する形で、蛍が問いかけた。
他の二人の視線も時雨へと集中する。
だが時雨はあっさりとただ一言、
「わからん」
と答えた。
「え!?結構広いですよね、この山。どうやって探すんですか?」
蝶子はそう尋ねずにはいられなかった。
「山をうろついてりゃ、そのうちむこうからやってくるさ」
時雨はあっけらかんとそう言った。
「じゃあ、いつ現れるとも知れない相手を、ただ山の中をうろうろして探すだけなんですか?」
蝶子の追撃に時雨は顔色を変えずにそうだ、と言った。
少女はその無計画ぶりに愕然とする。
まさか、ここまで来てそんな不確定要素があるとは、時雨以外誰も思っていなかっただろう。
「まあ、仕方ないですね……ここまで来たら待つしかないでしょう」
隼人は落ち着いた様子で、どうやら現状を受け入れたようだ。
「とりあえず今日はこのへんで野宿だ。幸い近くには川も流れているから魚も取り放題だし、飲み水にも困らないぞ」
蝶子はまったく嬉しくなかったが、隼人同様、この状況を受け入れるしかないようだった。
食事が終わったあと、少女は川べりに一人で来ていた。
そしておもむろに男物の着物を全て脱いだ。
足先から、少しずつ流れがゆるい川の冷水に浸かる。
「本当はお湯に浸かりたかったけど、こんな山奥に湯船があるわけないものね……」
しかし、冷えた夜の空気の中で冷水に浸かるのは、なかなかの苦行だった。
ほんの一分も入っていられず、蝶子はそそくさと身体を拭き、着物を着直そうとしていた。
そのとき、遠くから自分を呼ぶ声が聞こえた。
「お嬢さん、何を――」
隼人の声だった。
蝶子はまだ着物を全て着ていない。
はだけた着物の前を慌てて引っ張って体を隠す。
異変に気付いた隼人が今度は慌てふためいた。
「すみません、お、俺は――」
「わかってるわ。蛍さんから聞いていなかったんでしょう。私が水浴びしてくるって言ったの」
「そうだったんですね、すみません。うっかり探しに来てしまって――」
あたふたと、お互い背を向けながらぎこちない会話をする。
「あの、暗いので、あんまり見えてませんから、大丈夫です」
「そう。じゃあ気にしないで。私も気にしないから」
蝶子は気を遣ってそういったつもりだった。
「はい。……いえ、でもやはり少しは気にして欲しいかもしれません」
「え?」
蝶子は隼人の言っていることがよく分からずに聞き返した。
「……俺も、男ですから」
隼人の顔は見えない。けれど、緊張しているのは伝わってくる。
隼人はなぜ急にそんなことを言うのだろう。
蝶子はどう答えればいいのかわからずに、固まってしまう。
「え、えっと……」
蝶子は何か言おうとするが、うまく言葉が見つからない。
そうこうしているうちに、気付くと隼人は足早に立ち去った後だった。
蝶子はなんとなく気まずい気持ちで三人に合流した。
「あ、蝶子ちゃん、ごめんね。ウチの隼人君が、水浴び覗いちゃったんだって?」
戻って早々、蛍さんは本当に楽しそうにそう言った。
隼人は蛍を後ろから睨みつけている。
「あ、大丈夫よ、暗かったし」
蝶子はできる限り平静を装う。
そんな三人をよそに、時雨は別の方を向いていた。
よく見ると、サーベルに手をかけている。
それに気付いた他の面子も、各々静かに武器を手にした。
何かが近づいてくる、そんな気配がした。




