髪
蝶子が目覚めると、そこは嘉兵衛の家だった。
もうすでに夜は明けており、部屋には柔らかい日差しが差し込んでいる。
つきっきりで看病をしてくれていたのか、隣には隼人がいた。
「お嬢さん……!よかった、目が覚めたんですね。ご気分はいかがですか」
隼人はほっとしたような笑顔を見せて言った。
「そうね……まあまあかしら……」
蝶子はまだぼんやりとする頭でなんとか答えた。
「奥さんが粥を作ってくれています。それを今、持ってきますから」
そう言うと隼人は立ち上がって部屋を出た。
蝶子は自分の手足を動かしてみた。
気だるい感じはするものの、すべて思った通りに動く。
階段から落ちたときの背中や肩の傷は多少痛んだが、特に大怪我はしていないようだった。
(そうか……私、助かったのね……)
蝶子はそこでようやく少し安堵する。
しかしそれと同時に溺れかけたときの恐怖がよみがえってきて、ぞっとした。
当分の間水に近づくのはよそう……と少女は思ったのだった。
蝶子が目覚めたという知らせを受け、皆が集まってきた。
口々に心配する言葉をかけられ、蝶子はもう大丈夫よ、と笑顔で答えてみせた。
嘉兵衛はありがとう、申し訳ない……と涙を見せた。
蝶子は嘉兵衛の妻、キンの姿を見ると、近くに呼び寄せた。
そして、こう言った。
「実はお願いがあるのですが……聞いていただけますか?」
キンは一瞬不思議そうな顔をしたが、私にできることならなんでも、と答えた。
翌日、部屋から出てきた蝶子に一同は驚愕した。
長かった髪をバッサリと切り落とし、男物の着物を着ていたからだ。
その姿はまるで少年のようだ。
「え?蝶子ちゃん、それ一体どういう心境?」
蛍が唖然とした表情で問いかけた。
他の二人も目を丸くし、口をあんぐりと開けている。
すると蝶子はこう答えた。
「ずっと考えていたの。私が女の格好をしているから目立つんじゃないかって。だから遊郭にも売られたし、今回だって勝手に巫女にさせられそうになった。それに、これから山に入るんだから、綺麗な着物も長い髪も邪魔なだけだって、そう思ったの」
髪はキンに切ってもらい、更に着物と袴も嘉兵衛のお古の丈を詰めてもらったものらしい。
「……ちょっといいか」
おもむろに時雨が蝶子に声をかけた。
そして表に出るよう促した。
少女はなんだろうと思いつつ時雨の後を追った。
しかし時雨は自分で呼び出したものの、すぐには口を開こうとしなかった。
「どうしたんです?お説教なら聞き飽きてますけど」
蝶子は目を合わせない時雨に言葉を促した。
「……すまなかったな」
ぽつりとそう言った。
蝶子は耳を疑った。
「なんで、時雨殿が謝るんですか?」
蝶子は全くわからないという様子で彼に問いかけた。
「君を何度も危険な目に合わせてしまった。今回も嘉兵衛に声をかけたのは俺だったから、俺の責任だ。申し訳ない」
と言って時雨は頭を下げたのだ。
蝶子は慌てて時雨の肩に手をかけた。
「時雨殿、顔をあげてください。私はあなたのせいだとは思っていません」
蝶子がそう言うと、顔をあげた時雨と間近で目が合った。
暗い色の瞳が苦しげにこちらを見ている。
それは、初めて見る彼の表情だった。
なぜかそれを見た蝶子は胸が苦しくなる。
時雨は不器用だと言っていた、蛍の言葉が脳裏をよぎった。
「悪いのは騙す方だって言ってくれたのは、あなたじゃないですか。時雨殿は悪くありません」
蝶子は時雨の目を見つめながら、きっぱりとそう伝えた。
時雨ははっとした様子で、
「そうえいば、そうだったな……」
と苦笑いしてみせた。
そして、ふいに蝶子の髪に手を伸ばした。
「綺麗な、髪だったのにな……」
時雨はそう言って惜しみながら、優しい手つきで蝶子の髪をなでた。
少女の心臓は高鳴り、固まったまま動けなくなる。
「し、時雨殿。そろそろ戻らないと、皆が心配します……」
しどろもどろになりながら蝶子が言葉を発すると、時雨も何かに気付いたのか、そうだな、と言って少女から離れた。
(無意識でこういうことしているのかしら……だとしたらとんでもない天然たらしだわ……というかもしかして私を妹か何かだと思っているのかしら?)
蝶子は混乱した気持ちで時雨の後を追い、家の中へと戻った。