女神の歌声
小舟が一艘、湖に漂っていた。
月光が照らす湖面は、静かにゆらめいている。
あたりに人影はない。
……小舟の上の、乙女以外には。
彼女は白い装束を身にまとい、艶やかな黒髪の上に花冠を戴いている。
その姿はどこか人の世界と隔絶された、神々しさを感じさせるものだった。
少女は祈るように固く目を閉じると、それが現れる時を待った。
小舟に乗った一人の乙女――蝶子は、本当に女神様とやらが現れるのかどうか、半信半疑であった。
しかし、彼女が姿を見せなければ、こんなくだらない風習は終わらせることができる。
万一現れた場合には、懐に忍ばせた短剣で一太刀……そんなことを延々と考えていた。
女神様はそんな蝶子の思惑を知ってか知らずか、一向に姿を見せないでいる。
真夜中を過ぎ、待ちくたびれた蝶子は眠気に襲われていた。
座りながらうつらうつらし始めた頃、少女は何かの気配を感じた。
あたりをきょろきょろと見回す。
ふと、湖の底から突き出た大岩に目を留める。
するとそこには、若い女が足先を水に浸け、ひとり、座っていたのだ。
こんな時間に、こんな場所に、自分以外に女性がいる――。
蝶子にはそれがひどく異常なことに思えた。
夢を見ているのかもしれない。
そう思って目をこすったが、そこにはやはり女性の姿があった。
女は蝶子を見て妖しげに微笑んだ。
そう、彼女は確かに蝶子の存在を認識しているのだ。
そして女がわずかに身じろいだと思うと、歌を口ずさみ始めた。
その唇から紡がれる歌声はこの上なく甘美で、聴いているとだんだん頭がぼうっとしてくる。
不思議なことに蝶子を乗せた舟はひとりでにゆっくりと前進し、女へと近づいて行った。
女の姿がはっきりと見えるところまで近づくと、やがて舟の動きは止まった。
輝くような白い肌に紅く染まった唇、しっとりと濡れた漆黒の長い髪。
妖艶ともいうべきその姿は、噂にたがわぬ美しさだと蝶子は思った。
女の歌声は更にはっきりと耳に届き、その分だけ蝶子の頭はますます霞がかかったようになる。
女は蝶子から視線をそらさないまま、ゆったりと泳いで舟に近づいてきた。
そして水面から少女に手を伸ばし、その身体を優しく湖に引き込む――。
「そこまでだ」
鋭い声が女の歌を遮った。
いつのまにかもう一艘の舟が蝶子の乗る舟に近づいてきていたのだ。
そこには三人の青年の姿があった。
蝶子は歌が止まったことで正気に戻ると、慌てて女の手を振り払った。
女は整った顔をそこで初めて歪めると、声の主を睨めつけた。
声の主――時雨は、特に怯む様子もない。
ただその視線を真っ直ぐに受け止めた。
女はおもむろにずぷりと湖に沈むと、姿を消した。
時雨は耳に詰めていた綿を取り除くと、こう言った。
「注意しろ。多分、来るぞ」
しばらくすると、静かだった水面が急激に激しく動き出す。
次の瞬間、時雨たちが乗った舟が底から突き上げられるように水に弾かれ、転覆した。
三人は湖に投げ出されたのだ。
「時雨殿……!隼人、蛍さん……!!」
蝶子は激しい波で自分が舟から放りだされないようにすることで精一杯だった。
しかし、三人に気を取られていた彼女は自分が狙われていたことを失念していた。
何者かが後ろから蝶子の腕をつかんだと思うと、強い力で一気に水中に引き込んだのだ。
何がなんだかわからないまま蝶子はものすごい速さで水底へと引きずられていく。
なんとかそちらに目をやると、腕を掴んでいるのは先ほどの女だった。
ただし、その下半身はまるで魚のようであり、尾の先にはひれもあった。
はっと我に返った少女は懐に短刀を仕込んでいたことを思い出した。
そして片手で必死に着物の中を探った。
固いものを探り当てた蝶子はなんとか鞘から刀を引っ張り出す。
そして掴まれた腕の方に向かってめちゃくちゃに振り回した。
攻撃が当たったのかどうかはよくわからない。
だが異変に気付いた女は水中ではたと止まると、少女の、刀を持った方の腕をひねりあげた。
蝶子は痛みに耐えかねて短刀を手放した。
息が限界に近づいていた蝶子は必死に女から逃れようとした。
しかしそれを許してくれるような相手ではない。
いくらもがいても、手はがっちりと掴まれたままだ。
蝶子はがぼがぼと大量の水を飲み、死の恐怖を感じた。
そのときだった。
大きな獣が女の横っ腹に激しく体当たりしてきたのだ。
やっと女の手が蝶子から離れた。
そこにサーベルを抜刀した時雨が現れ、水の中とは思えない鮮やかな仕草で女の心臓を一突きにした。
あたりは紅く染まり、耳をつんざくような叫び声が水中に響き渡る。
すると今度は別の誰かが蝶子の手を上から引っ張った。
隼人だ。
隼人は蝶子のために急いで水面を目指す。
最後に水底へ沈んでいく女の姿を見た気がしたが、少女はそこで意識を手放した。