約束
その日はもう一晩宿を取り、翌日改めて出立することになった。
蝶子は緊張と疲れから宿に着くと倒れ込むように寝入ってしまった。
そして翌朝。
何とか布団から這い出た少女が身支度を済ませた頃、部屋の扉を叩く音がした。
「お嬢さん、起きていらっしゃいますか」
その声から訪問者は隼人なのだとすぐにわかった。
少女は部屋の扉を開けた。
「起こしに来なくても、ちゃんと起きてるわよ」
蝶子は隼人が起こしに来たのだと思い、そう伝えた。
「よかった…」
隼人は安心したような表情でつぶやいた。
「なあに、そんなに私がねぼすけだと言いたいの。失礼ね」
蝶子は軽くすねるようなふりをしてみせた。
「いえ。今日はお嬢さんがちゃんと部屋にいてくれたので、ほっとしたんです」
「ああ…」
そうか、と蝶子は思った。
時間になっても姿を現さない蝶子の部屋を、彼は昨日も訪れたのだ。
おそらく旅館の人に頼んで、鍵を開けてもらったに違いない。
荷物が置かれたままの空の部屋を見て、彼が大いに心配したことは想像に難くない。
「……ごめんね、隼人」
蝶子が謝ると、隼人はいいえ、と首を振った。
「一条さんの言った通りです。お嬢さんは悪くない。ただ――」
隼人は一度言葉を区切ったあと、再び喋りだした。
「せめてこの旅の間は一人で出歩くことはしないでください。どんな小さな用事でもかまいません。私を、頼って欲しいんです」
隼人は意を決したように、真剣な瞳で蝶子に訴えたあと、小さく付け加えた。
「その……お嬢さんに何かあったら、旦那様に顔向けできませんから」
それを聞いた蝶子は隼人にこう言った。
「お父様に恩義を感じてくれているのは嬉しいわ。でも、あなたは別に私を守るのが義務じゃないんだから。そんなに真剣に考えなくていいのよ」
隼人は一瞬驚いた顔をしたあと、あわてて訂正した。
「義務じゃありません……私がそうしたいから、言っているんです」
「そう……?」
蝶子は彼の意図が理解できずにいた。
隼人は蝶子をいつも守ってくれていた。
何でも知っている、頼れる兄的存在。
今回もそういう気持ちで言ってくれているのだろう、と蝶子は考えた。
「わかったわ。私も今回みたいなことはこりごりよ。一人でふらつくことは、もうしないから」
と、蝶子は隼人に笑顔を向けた。
「あ――はい。そうしていただけると、私も安心です」
隼人も笑顔を作ったが、どことなくぎこちない。
やはり蝶子には理由がわからなかったが、深く考えるのをやめた。
「朝ごはん、食堂へ食べに行きましょう。私昨日はほとんど食べていなくて、おなかがぺこぺこなの」
はい、と答えた隼人と並び少女は廊下を歩いていく。
するとちょうど時雨と蛍も部屋から出てきたところだった。
二人と朝の挨拶を交わし、笑顔で他愛ない会話をする蝶子。
そんな彼女を後ろから眺める隼人は、一人小さくため息をつくのだった。