遊郭
三十分もしないうちに馬車は遊郭街の大門をくぐった。
門の両脇から見張りと思しき男達がこちらを見ている。
そこは蝶子が初めて見る、花街だった。
しかしまだ時刻は午前中のためか大通りも閑散としている。
多くの店がひしめく中、「小倉屋」と書かれた建物の前に馬車は止まった。
馬車を操っていた男がその店に入り、しばらくすると一人の小男を連れてきた。
小男は顔の皺や白髪の具合から、五十代くらいだろうか、和服姿に眼鏡をかけていた。
「さあ、降りるんだ」
馬車に同乗していた男が蝶子に命令した。
蝶子はしぶしぶそれに従った。
小男は文字通り品定めするように、馬車から降り立った少女をじっくりと眺めた。
眼鏡の奥の鋭い目が上から下まで舐めるように見つめてくる。
蝶子はその居心地の悪さから思わず視線をそらした。
「ふむ……これは上玉だな」
その一言で蝶子はこの妓楼に売られるのだ、とわかった。
「お前の名前はなんと言う」
小男は蝶子の目を見ながら尋ねてきた。
蝶子が答えずにいると横にいた大男がちゃんと答えろ、とドスの聞いた声で脅してきた。
少女は仕方なく蝶子です、と小さく言った。
「蝶子か……綺麗な名前だ」
小男は少女の名前を褒めたが、表情からは心中が読めない。
年はいくつだ、とも聞かれたので蝶子は十六だと答えた。
「それじゃお前は今日から小倉屋の揚葉だ。中に入りなさい」
そういうと蝶子を中へと招くしぐさをした。
しかし蝶子は最後の抵抗とばかりにその場を動かなかった。
小男は呆れたようにため息をつくと、口を開く。
「言っとくがね、もう大門をくぐったからにはここで女郎として働くしかないんだよ。仏頂面を続けていてもいいがそんな女はもっと環境の悪いところに売り飛ばされるだけだ」
小男は更に言葉を続けた。
「逃げようなんて考えるのも無駄だ。見つかればきつい折檻を受ける。例え逃げられて警察に駆け込むのも無駄。奴らは私を呼んで逃げた遊女を結局連れ戻させるのさ」
小男の言葉は蝶子の心をまるで見透かしたかのように、希望を打ち砕くものだった。
「私はここの楼主の助六だ。さあ、早く中へ」
蝶子はこの楼主についていく以外の選択肢は残されていないのだと知り、絶望した。
そして蝶子は涙をこらえながら小倉屋の門をくぐった。
中に入ると、そこには遊女と思しきたくさんの女性がの姿があった。
蝶子より年下であろう少女も多く見かけた。
彼女達はちらりと蝶子を一瞥して通り過ぎていく。
朝餉は皆で取るらしく、そこに蝶子も同席し、簡単に自己紹介をした。
その日はだんご以外口にしていなかったが、朝餉はとても喉を通らなかった。
その後は髪を結われ、着物を着替え、あっというまに遊女の格好をさせられた。
驚いたことにそれらの必要経費全てが自分の借金でまかなわれる。
少女はおかみさんから「男性の相手をしてお金を稼いで返済するんだ」と言われた。
お客をとらないと罰金が科せられ、借金がまた増える。
適当なことしか教わらないまま、なんと蝶子は初日から客を取ることになってしまったのだ。
夕刻。
三味線の音が鳴り響き、夜見世が始まる。
格子の中には行灯に照らされた遊女がずらりと並ぶ。
その末席に蝶子も座していた。
なぜこんなことになってしまったんだろう。そう思いながら。
全く疑いもせず老婆を助けた愚かな自分を責めていた。
あのとき老婆の本性を見抜けていたら、こんなことにならずに済んだのに、と。
老婆に対する憎しみもふつふつと湧いてきたが、誰かにぶつけることができるはずもない。
行き場のない怒りと悲しみと恐怖で蝶子の心の中はぐちゃぐちゃだった。
男性の相手なんてしたくない。
けれど、そうしなければここを出ることはできない。
そんな葛藤も蝶子を苦しめた。
蝶子の心とは裏腹に、着飾って化粧をした「揚葉」の姿は美しく、行き交う男性客の目を引いた。
そうして彼らから指名が入るのにさして時間はかからなかった。
指名の知らせは蝶子の心をどん底まで突き落とすものだった。
おかみさんに教えられた通り、蝶子は重い足どりで二階へと上がる。
そして部屋で指名客を待った。
その間少女は不安と緊張で生きた心地がしなかった。
蝶子はとうとうこらえきれなくなり、どうしようもなくあふれ出る涙を拭った。
客が部屋に来る前にこの涙を止めなければ、と思いながら唇を噛み締め、着物の袖を濡らした。
ついにがらり、という音がして、少女の鼓動は一気に跳ね上がった。
でも、おかしい、と蝶子は思った。
今のは、窓の開いた音だ。
蝶子は音のした方を振り向き、薄暗い部屋で目をこらす。
そこには、見覚えのある青年の姿があった。
「……蝶子ちゃん?」
そう尋ねたのは、蛍だった。
窓枠に足をかけた格好で固まっている。
「蝶子ちゃんだよね?」
もう一度確認され、蝶子はこくこくとうなづく。
「よかった、間違ってたらどうしようかと思った。一瞬別人に見えたから」
そういうと蛍はにっこりと笑った。
蝶子は窓から現れた蛍に混乱しながらも、その笑顔を見て一気に安堵感に包まれた。
「まさか、助けに来てくれたの…?」
蝶子が聞くと、当然でしょ?と蛍は答えた。
「まだ何もされてない?」
心配そうに尋ねる蛍にまたしても大きくうなづいてみせた。
よかった――そう青年が胸を撫で下ろしたとき、廊下側の襖ががらりと開いた。
今度こそ指名客が来たのだ。
「な、なんだお前は!?」
揚葉を指名した客は窓際の蛍の姿に思わず声を上げた。
その声を聞いた小倉屋の男衆がかけつけてくる。
「おっと、おしゃべりしてる場合じゃなかったね。蝶子ちゃん、こっちへ」
蝶子は蛍に誘われるがまま彼に駆け寄る。
すると蛍は蝶子を抱え、あっという間に妓楼の二階から飛び降りたのだ。
「ほ、蛍さん……!足、大丈夫なんですか!?」
蝶子は目を白黒させながら問いかけた。
「うん。僕、人より丈夫だから」
そう言いながら蛍は蝶子を抱きかかえたまま花街の人ごみを走り抜けていく。
大門にさしかかろうとすると、当然門番たちが止めにかかる。
蛍は蝶子を下ろすと丸腰のままこう言った。
「さて。僕に勝てる自信がある奴はかかっておいで」
蛍が笑顔でそういうと、門番の一人が木刀で攻撃を仕掛けてきた。
彼はそれをこともなげにかわしたかと思うと、男の手元を蹴り上げる。
そして宙に舞った木刀を受け止め、それを構えた。
今度は数人が一度に攻めかかってくる。
だが蛍は巧みに攻撃をかわしながら一人ずつ打ち負かしていく。
蝶子はそれまで知らなかったが、蛍は異常なほど強かった。
気付けば十人近くの男が地面に伏していた。
この場で彼に勝てるものはいないとわかると、それ以上誰も青年に近寄らなくなった。
蛍の大立ち回りを見物する人ごみの中には、あぜんとする助六とおかみさんの姿もあった。
だが蝶子は見て見ぬふりをし、彼らに背を向けた。
こうして二人は再び大門をくぐり、外の世界へ戻ることができたのだった。