宿
他愛もない話をぽつぽつとしながら何度か列車を乗り換え、日が暮れる頃には予定通りの駅に到着した。
「とりあえず今日はここで宿をとる。皆疲れたろう」
時雨の言葉を受け蝶子は確かに体が疲労しているのを感じた。
少女は汽車に乗ったことはあったが、ここまでの長旅は初めてだった。
日も暮れ、だいぶ北上してきたせいか、東京よりかなり冷え込む。
蝶子は自分の腕を抱えるようにさすった。
「お嬢さん、羽織を着た方がよろしいかと」
「そうね、ありがとう」
隼人の言葉を受け蝶子は自分の荷物から羽織を引っ張り出し、袖を通した。
その日の宿は時雨が手配した、駅からほど近い小さな旅籠だった。
新しくはなかったが、温泉付きで非常に風情がある宿だった。
部屋は二つ取ってあり、必然的にひとつは蝶子、もうひとつは男三人という部屋割りになった。
しかし夕食は部屋に運ばれてくるので、男衆の部屋で四人一緒に取ることになった。
大きめの机の上には郷土料理が並び、なかなかに豪華だ。
日本酒も運ばれ、成人男子三人はちょっとした宴会の様相を呈した。
もちろん、未成年の蝶子はお茶だけだ。
「ところで男三人で一部屋って、ちょっとむさ苦しくないですか?」
酒が入ってますます陽気になった蛍が冗談めかして抗議する。
「仕方ないだろ。蝶子君を同じ部屋に入れるわけにはいかないからな」
そんな時雨もいつもよりほんの少し上機嫌に見えた。
蝶子は苦笑いするしかなかったが、こうやって賑やかに食事をするのは楽しいと思った。
ちなみに隼人も呑んではいるのだが、特に変わった様子はない。
そんなとき、窓のすぐ下に見える屋根を、何者かが歩いてくるのを蝶子は見逃さなかった。
「猫だわ」
彼女は嬉しそうに窓に近づくと、そっと開けようとした。
しかし。
「ダメだ」
時雨がそれを鋭く制止した。
「なぜ?」
少女は理由がわからず時雨に問う。
「こいつが猫は苦手だからだ」
時雨が指差した先には青ざめた顔の蛍がいた。
「……そんなに嫌?」
蝶子が尋ねると、蛍はこくこくと頷いた。
「僕がこの世で一番嫌いなのは猫だ」
そう言った彼は先ほどまでとは打って変わり、時雨の背中に隠れるように丸まっている。
そこまで言われては蝶子も窓を開けることはできなかった。
「猫に何をされたんです?」
と蝶子は尋ねたが、蛍ははっきりと理由を言うつもりはないようだった。
彼からは、
「とにかく、全てが嫌いなんだ」
という返事が返ってくるのみだった。
蝶子は夕食を終えると、露天風呂に一人で向かった。
脱衣所で着物を全て脱ぎ、一糸まとわぬ姿になる。
外は裸で歩き回るには少々肌寒かったので、転ばないよう気をつけながら小走りで温泉へと近づいた。
そして少女は足先からゆっくりと湯に浸かっていく。
すると最初は熱く感じた湯が身体になじみ、やがてじんわりと芯から温まるのを感じた。
「はあ……」
その気持ちよさに思わず声が漏れる。
蝶子は入浴が好きだった。
彼女の白く輝く肌の上を、温泉が玉のようにはじかれながら流れ落ちていく。
岩と竹の囲いで目隠しされた露天風呂には誰もおらず、貸し切り状態だった。
旅行に来たわけではないが、休めるうちに休んでおかなければ、いつ何が起こるともわからない。
つかの間の休息に今だけは甘えることにした。
そのとき。
蝶子は何となく外から視線を感じた気がした。
「……誰?」
無論、というべきか、尋ねても返事はない。
しばらくは耳を澄まして周囲を警戒したが、聞こえたのは遠くで烏の啼く声だけだった。
「気のせい……よね」
蝶子は気のせいだと思うことにしたが、やはり気味の悪さが消えない。
その後は手早く入浴を済ませると、そそくさと露天風呂を後にした。
旅館の廊下を歩いていると、ちょうど時雨と出くわした。
「これからお風呂ですか?」
と蝶子は尋ねた。
男達の酒盛りは蝶子が部屋を出た後も続いていたようで、時雨は赤い顔をしていた。
「ああ……うん、そうだ」
時雨は普段あまり感情を表に出さないが、酒のせいだろう、蝶子を見てへらっと笑った。
蝶子はそのとき初めて彼も笑うと可愛いんだ、と思った。
「呑んですぐお風呂に入るのは身体によくないですよ。少し休んでからの方がいいのでは?」
少女は足元のおぼつかない青年に注意を促した。
「大丈夫、大丈夫」
そう言って蝶子の横を通り過ぎようとしたそのとき。
時雨はふらついて、蝶子の方に重心が偏った。
身体を支えようとした時雨はとっさに蝶子の肩を掴み、そのまま少女を壁に押し付けるような形になってしまった。
「すまん」
時雨は反射的に謝り、蝶子もいえ、と即座に答えた。
倒れずに済んだものの、蝶子は至近距離で時雨と向かい合う。
暗い色をした青年の瞳が少女の顔を覗き込んだ。
そして彼は蝶子にしか聞こえないくらいの小さな声で呟いた。
「……君は可愛いな」
声は小さかったが、少女の耳にははっきりと届いている。
蝶子は一気にかあっと耳まで熱くなるのを感じた。
(今まで一度だってそんなそぶりをみせたことがないくせに)
なぜそんなことを言うのかと、少女は混乱していた。
時雨はそんな蝶子の様子を知ってか知らずか、ゆっくりと身体を引く。
「今日は早く寝ろよ。明日は早いからな」
そう言うと何事もなかったかのように去っていってしまった。
残された蝶子はぽかんとしたまましばらくその場に立っていたが、やがてのろのろと歩き出した。
(蛍さんだって、同じことを言ってくれた。でも、今のは)
蝶子はぐるぐると考えを巡らせたが、答えらしきものははっきりと出なかった。




